近畿地方の石造物㉗:安国寺宝篋印塔(足利義教の首塚)

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名称:安国寺宝篋印塔

伝承など:足利義教の首塚

所在地:兵庫県加東市新定 安国寺


兵庫県加東市、かつては東条町であった新定の安国寺は、南北朝時代に足利尊氏・直義が全国に造立した安国寺利生塔の一つで、播磨の安国寺である。

本堂裏の水田の中に建つ宝篋印塔は、室町幕府六代将軍の足利義教の首塚と伝承される。

足利義教は嘉吉の乱によって赤松満祐に暗殺されるが、満祐が播磨に引き上げる途中、この安国寺にて討ち取った義教の首を供養したものだと言う。

後述するように、義教の首を供養したと言う伝承のある場所は他にもあるため、伝承の真偽の程はわからないが、宝篋印塔は無銘ながら室町時代中期の形式であり、義教の時代とよく合致し、関西における当該期の宝篋印塔の基準作と言える。

なお、かつて安国寺へは神戸電鉄小野駅からバスの便があったが、現在は廃線になっており、公共交通機関を使って安国寺に行くのは困難になっている。


義教の菩提寺は京都市上京区にある相国寺の塔頭・普広院(普広院は義教の法名)であるが、度重なる戦乱や火災で当時の建造物などは失われ、現在寺院内に義教の墓はない。

ただ、相国寺の東方の寺町通りにある十念寺には、義教の墓とされる五輪塔がある。

十念寺は義教が創建した宝樹院が前身とされ、戦国時代に焼失した後、天正十九年に現在の位置に移された。

五輪塔は世代墓地の中にあるが、五輪塔の年代は義教の時代よりもずっと後年のものなので、墓と言うよりは供養塔であろう。

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また、大阪府大阪市東淀川区の崇禅寺(阪急の崇禅寺駅が最寄り)にも、義教の首塚とされる五輪塔(下の写真一枚目)がある。

崇禅寺は行基の創建と言う伝承を持ち、嘉吉の乱の際に播磨に引き上げる途中で赤松満祐がこの寺に義教の首を打ち捨てた因縁で、七代将軍の足利義勝が義教の菩提寺とし、義教の側近であった細川持賢が伽藍を整備したと言う。

前述の安国寺の首塚と経緯が食い違うが、境内の墓地内にある義教の首塚と言われる五輪塔は、これまた義教の時代よりもずっと後年のもので、単純に石塔の造立年代だけを見れば安国寺の方が義教の没年には近い。

ちなみに、崇禅寺はその後に細川家の菩提寺の一つとなり、関ヶ原の戦い直前に石田三成によって人質として大坂城に入ることを拒んで自害(ガラシアはキリシタンで自害は禁じられていたため、厳密には家臣に殺させたのであるが)した細川ガラシアの遺骨を、屋敷の焼け跡から宣教師のオルガンティノが掘り起こしてここに葬ったと言われ、義教の首塚の隣にはガラシアの墓と言う五輪塔もある(下の写真二枚目)。

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