雑記:鎌倉の古寺・史跡、その一

鎌倉にある中世石塔についてあらかた紹介したので、鎌倉の史跡や寺院についても少し。

まず、JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮方面に行き、鶴岡の東方、清泉小学校の奥には源頼朝の墓所がある。

その南方には最初に鎌倉幕府の政庁が置かれた大蔵幕府の跡地であり、現在の頼朝の墓のあたりは、元々は頼朝の廟所と頼朝の肖像画が納められた法華堂があった場所である。

頼朝の墓は、江戸時代後期に薩摩藩主の島津重豪が再建したものである。

法華堂が消失した後、頼朝の墓所は荒廃していたが、重豪は島津氏の祖が頼朝の落胤と伝承され頼朝を始祖としていたことから、墓所を整備して新たに層塔を建立した。

現在の層塔は、その後破損被害に遭ったために近年さらに修復されたものである。

層塔の背後には小型の五輪塔があり、こちらは乱積みであるが戦国時代後期の造立で、あるいは島津重豪が再建する前に頼朝の墓塔としてまつられていた石塔であろうか。

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大蔵幕府と向かい合う形で、頼朝が父・義朝の供養のために造立した勝長寿院は現在は跡形もなくなり、その跡地には石碑と二基の五輪塔が建つのみである。

五輪塔は最近建てられたもので、向かって左側が源義朝の供養塔、右側が義朝の従者の鎌田正家の供養塔である。

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頼朝の墓に戻って、その東側の小道を進むと石段があり、その上は北条義時の法華堂の跡地とされ、この地にはかつて二代執権北条義時の墳墓があったと言い、近年の発掘調査の結果その遺構が確認された。

現在跡地にはやぐらがあり、その内部には宝治合戦で敗れて法華堂で自刃した三浦泰村一族の墓とされる石碑がある。

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義時の法華堂をさらに登ると、山腹に三つのやぐらがあり、それぞれ大江広元、毛利季光(大江広元の子で毛利氏の祖)、島津忠久(島津氏の始祖)の墓とされる五輪塔が納められている。

このうち大江広元(下の写真一枚目)と毛利季光の墓(下の写真二枚目)は、江戸時代後期に長州藩の毛利家が始祖である広元、季光を供養するために造立したもので、島津忠久の墓も同時期に薩摩藩の島津家が造立したと言う。

元々この地には広元の墓があったと伝わり、季光のやぐら内には中世の五輪塔(下の写真三枚目)が残されていることからもやぐらが墓所として用いられていたことがうかがえる(ただし五輪塔は広元の没年とは時代が異なる)。

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義時の法華堂の石段の前の道をさらに東へ進むと、別の登り口と思しき石段があり、それを登った先にも二つのやぐらがあり、片方の内部には小型の石塔がある。

このやぐらは古くから義時の墓と伝承されており、発掘調査の行われる以前の書籍などでは、義時の墓と紹介されていたが、石塔ははるか後年のもので、『吾妻鏡』にある頼朝の法華堂の傍らに義時の法華堂を築いたと言う記述から誤って伝承されたのであろう。

なお、現在この義時の墓とされるやぐらに登る石段は雑草に埋もれてしまって見つけるのが相当困難になってしまっている。

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