雑記:秀吉の夢のあと
京都市内の豊臣秀吉にまつわる史跡は多く、彼はその生涯に二度、洛中に居館を建設している。
一度目は、秀吉が関白に任じられた後に京都に築いた広大な邸宅「聚楽第」である。
前回の雑記で紹介した平安京の大極殿跡よりもやや北東に位置した場所にあったが、所謂「秀次事件」の後に秀吉自身が徹底的に聚楽第を破壊したこともあって、現在遺構は何も残っていない。
中京区の正親小学校のあたりが西の堀で、そこから三百メートルほど東に行った所にあるハローワーク西陣のあたりが東の堀の跡と言う。
現在、正親小学校の東隅と、ハローワーク西陣の向かいには、「聚楽第址」の石碑が建っている(上の写真が正親小学校、下の写真がハローワーク西陣向かいの石碑)。
ハローワーク西陣から少し下った所にある住宅街の一角には、かつて聚楽第の唯一の遺構と言われる「梅雨の井」があったが、昭和年間の前半に自然倒壊し、その後井戸はポンプ式に変わって、近隣住民の生活用水として利用されていた。
かつては八雲神社の境内にあったが、バブル期に地上げに遭って八雲神社はなくなり、井戸もすでに使用されなくなってポンプの頭部が残るだけになっている。
現在も同地は開発中であり、最後に残った井戸の残骸すら近い将来には撤去されると見られている(下の写真一枚目がわずかに残されているポンプの頭部、二枚目がかつて八雲神社の境内にあった案内板の一部)。
秀吉は聚楽第を築くとその周辺に大名達を集住させ、聚楽第周辺には多くの屋敷が立ち並んでいたと言う。
現在も町名にその名残が残り、上京区の如水町は豊前中津の大名で、秀吉の参謀として知られる黒田如水の屋敷があった場所で、現在は一条通に面して小さな石碑があるのみである。
如水の屋敷跡からやや北西に行ったあたりは弾正町と呼ばれ、ここは上杉景勝の屋敷があった場所であり(弾正町は、彼の官職名の「弾正少弼」にちなむ)、マンションの前に真新しい石碑が建っている(なお、同地は室町時代中期には細川勝久の屋敷があった場所でもある)。
なお、聚楽第を取り壊した後で、晩年秀吉が建造した京都新城は、不明な点が多いが、つい最近になって遺構が発掘されているので、今後の調査の進展が待たれるものである。
もう一つ、秀吉ゆかりの史跡として「御土居」があり、これは秀吉の都市計画の名残とも言うべきものである。
御土居は、秀吉が天正十九年に、防塁と堤防を兼ねて京都の街の周囲にめぐらせた土塁であり、現在はその一部が九箇所に残されている。
そのうちの一つは、中京区の西大路通と御池通が交差する地点から少し北に行った場所にあり、稲荷神社の境内になっている(下の写真二枚目は、稲荷神社の背後から見た御土居)。
北区の北野天満宮の境内にも御土居があり、ここは現在は紅葉の名所となっており、新緑と紅葉の時期の年二回一般公開されている(下の写真は、数年前の初秋に、御土居の上から撮影したもの)。
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