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5.3.3 中世都市の成立 世界史の教科書を最初から最後まで

従来、西ヨーロッパにおける都市というと、かつてローマ帝国が軍隊を駐屯させるために建てた、ロンドン、ケルン、パリ、ウィーンなどの都市や、ローマ帝国末期におかれたローマ=カトリック教会の重要ポストである司教の置かれる都市(司教座都市)がほとんどだった。


しかし11~12世紀(今から1000~1100年ほど前)に、西ヨーロッパに商業の活気が戻ると、司教座都市を核として都市の活動が再生。
「巡礼ブーム」も都市の活況に一役買った。


大きな教会のまわりには巡礼者が集まるので、自然と市場ができやすい。


日本でも神社やお寺のまわりには、商店街ができやすいでしょ。それと同じだ。


教会の周辺の商工業者たちは、11~12世紀以降になると、税を取ろうとする領主たちを追い払い「自由な商売をする権利」を主張するようになっていった。
汗水たらして得た利益を、みすみす権力者にとられてたまるものかというわけだ。


領主は世俗の支配者であることもあれば、ローマ=カトリック教会の司教である場合もある。
こうして自治権を獲得した都市のことを、自治都市というんだ。


どのくらいの自治が認められたかは、国や地域によってさまざま。

北イタリアの都市では、司教の権力をたおし「コムーネ」と呼ばれる自治都市を形成した。コムーネは都市エリアだけでなく、周辺の農村エリアも併合する一種の都市国家となった。自治権は強く、完全に独立していたといってもよい。

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次に自治権の強かったのはドイツの諸都市だ。
諸侯の力をおさえるために、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)が都市に対して貢納する義務と引き換えに「特許状」を与え自治権を授けたのだ。これを帝国都市といい、諸侯と同じランクとして扱われた。

司教座都市のうち、大司教や司教からの独立を認められ、皇帝直属の都市となったものもあった。これを自由都市という。

のちのち帝国都市も自由都市も区別がされなくなり、自由帝国都市と呼ばれるようになっていく。
そういうわけで、ハンブルク、リューベック、ブレーメン、フランクフルトなどは、

19世紀になっても都市の自治が認められ続け、ハンブルク(地図中の6)とブレーメン(地図中の5)に至っては、現在でもひとつの州として扱われているほどだよ。

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なお、イタリアやドイツと異なり、イングランドやフランスの都市は、比較的国王との結びつきが強かった。

そこで王権が伸びるにつれ、繁栄した都市に国王の行政の中心がおかれることが多くなっていく。

地域によっても都市の”個性”はさまざまだったんだね。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊