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14.3.3 国民党と共産党 世界史の教科書を最初から最後まで

ソ連からのアピール

1919年と1920年のの二度にわたり、ロシアのソヴィエト政権は中国にある宣言を送った。

宣言の名義人は「外務人民委員代理」というポストのカラハン(1889〜1937年)。

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「ロシア帝国が、清(しん)からもぎ取って来た歴代の不平等条約をすべて “なかったこと”にしてあげる」という内容だ(ネルチンスク条約:【←戻る】12.3.1 清朝の動揺とヨーロッパの進出、北京条約:【←戻る】12.3.2 欧米諸国との条約)。

ソヴィエト=ロシア政権がこんな「おいしい」提案をしたのには、当然理由がある。

当時の「中国」には、北京に拠点を置く政府と、南部の広東(カントン)に拠点を置く革命派の政府(広東革命政府(1923〜1925年))の2つが存在していたからだ。


「革命」を世界中に広めるという名目で、周辺の防備のためにモンゴルを「社会主義チーム」に引き込みたかったソヴィエト=ロシア政権は、中国の北京政府との間に浮上していたモンゴル問題を解決したいと考えた。

そこで、カラハンの宣言によって北京政府の抱き込みを図ったわけだ。



一方、同時に広東政府率いる孫文(スンウェン;そんぶん)にもカラハン宣言を送り、“交渉相手”として認めることで、北京政府に対して揺さぶりをかけることも狙った(広東政府にカラハン宣言を送ったのは1919年のみ)。
孫文にとっても、広東政府を相手にしてくれない欧米諸国に見切りをつけ、欧米諸国と真っ向から対立するソヴィエト=ロシア政権のサポートを得るほうが得策だったのだ。

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孫文


カラハン宣言が中国で大きなインパクトを与える中、ソヴィエト=ロシアによる海外での工作活動は続けられ、1921年にはコミンテルン第3インターナショナル)の支援によって、中国共産党が結成された。
場所は上海、リーダーは陳独秀(ちんどくしゅう)だ。

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「中国共産党」の動きに対し、「中国国民党」を基盤に革命をすすめていた孫文は、ソ連のサポートを得る決意をし、「顧問」としてソ連(1922年に成立)のコミンテルン(第3インターナショナル)の工作員であるボロディン(1884〜1951年)を招くことにした。

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ボロディン

せっかく辛亥革命をおこしたのに、北京政府が欧米諸国のサポートを受けた軍閥に牛耳られている状況を、悔しい思いで見ていた孫文。



蒋介石の登場



1923年にはソ連に軍人の蒋介石(しょうかいせき)を派遣し、軍隊を視察させ、翌年1924年にはボロディンのアドバイスで、近代的な軍のエリート将校を養成するための学校(黄埔軍官学校(こうほ(ホァンプー)ぐんかんがっこう))を開校した。


初代校長は蒋介石だ。

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座っているのが孫文。その後ろが蒋介石

さらに、1924年に中国国民党の組織を一新し、中国共産党の党員が個人の資格でならば中国国民党に入ることを認めることを決断。

これ以後の、中国共産党と中国国民党の協力関係を第一次国共合作(1924〜27年)というよ。
あくまで「個人の資格で」っていうところがポイントだ。


孫文の打ち出したスローガンは「ソ連と連携し、共産主義を受けいれ、労働者と農民を助けよう」(連ソ・容共・扶助工農)というもの。
各地にいまだはびこる軍閥を倒し、中国の利権を食い漁るヨーロッパ諸国・アメリカ合衆国・日本を追い出そうという路線を定めた。


当時、「軍閥」が中国各地を統治していた



孫文の死


しかし、事態は孫文の思い通りにはなかなか進まない。
北京政府をコントロールしつつ、ソ連とも連携し、なおかつ日本のサポートも得ようという壮大なプランを打ち立てるものの、当時の日本政府が「ソ連と近づく孫文」を助けるわけもない。
1924年に神戸で「アジアでひとつにまとまろう」とする講演(大アジア主義講演)をおこなうも実現にはいたらず、1925年に病死してしまった。

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孫文




それでも、同じ1925年には上海で「帝国主義反対」をさけぶ五・三〇運動(日本人の経営する紡績工場でストライキを起こした労働者が射殺されたことに抗議するデモ隊が、5月30日に上海の租界の治安を守る警察に弾圧され数十人が死傷した事件をきっかけに全国に広がった運動)が勃発。
中国人の、「帝国主義」に対する抵抗は、革命のシンボルである孫文亡き後も、いよいよ盛り上がりを見せるようになっていた。


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中国国民党による五・三〇事件の風刺画(「欧米と日本が中国を苦しめている」という図)



汪兆銘 vs 蒋介石


そんな中1925年7月、中国国民党はこれまでの広東の政府(広東革命政府)を再編し、広州(こうしゅう)を首都に「広州国民政府」の樹立を宣言。
政府主席には、ソ連の方針に理解を示す汪兆銘(汪精衛(ワンチンウェイ)、1883〜1944年)が就任することになった。

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汪兆銘



しかし、ソ連や中国共産党に近い立場をとる汪兆銘が主席になるのを、上海の大財閥(浙江財閥)をバックにつけていた蒋介石(1887〜1975年)がこころよく思うわけがない。

汪兆銘を排除する機会をうかがっていた蒋介石は、みずからが校長を務めていた黄埔軍官学校の精鋭を集めて国民革命軍を編成。軍事力による中国の統一をめざした。
この外国勢力や地方・北京の軍閥(ぐんばつ)たちを退治するプロジェクトを北伐(ほくばつ、1926〜28年)というよ。


北伐のプロセスは、第1段階・第2段階に分かれる。


まず第1段階までを見ていこう。


共産党の弾圧まで (第一次北伐)


1926年1月に北伐(ほくばつ)がスタートすると、蒋介石は各地の軍閥や欧米勢力と戦いながら北上。
その中で、蒋介石は、汪兆銘から政府の主導権を奪おうとする。

しかし、中国共産党関係者や、汪兆銘などそれに近い中国国民党員(中国国民党左派)を主体とする部隊は、農民運動をサポートし、農民たちの支持を得る形で各地の軍閥たちを次々に打倒。
汪兆銘ら中国国民党左派中国共産党関係者は、蒋介石に対抗して1927年1月に武漢(ウーハン;ぶかん)に国民政府を樹立した。
これを武漢国民政府と呼ぶ。

これに対し蒋介石は、1927年の4月に上海でクーデタを決行。
中国共産党を弾圧した(上海クーデタ)。


そして新たに南京に、中国共産党とその取り巻きを排除した「国民政府」(南京国民政府)を立て、みずからが主席(在任1928〜31、43〜48年)となったのだ。

一方、武漢国民政府を率いていた汪兆銘は、その頃、ソ連の対応に疑念を抱き、中国共産党ともソ連とも“縁を切る”ことを決断。
「中国共産党」と「ソ連」は“敵”という共通認識が固まったことで、汪兆銘と蒋介石は仲直り。 結局、蒋介石の南京国民政府に合流することとなった。
こうして中国国民党と中国共産党の協力関係(第一次国共合作)は崩壊(国共分裂)し、武漢国民政府は南京国民政府と合体。
北京政府に対抗する政府は、南京国民政府に一本化されることとなったのだ。



北京の占領まで(第二次北伐)

目まぐるしく動く情勢の中で、1928年に蒋介石率いる国民革命軍はふたたび北伐をスタート。
ここからが北伐の第2段階だ(第二次北伐)。



国民革命軍がいよいよ北京に迫る中、居留民を保護するために日本の田中義一内閣(1927〜1929年)は軍隊を派遣((第二次)山東出兵)。国民革命軍とも交戦した(済南(ジーナン;さいなん)事件)。


さらに、日本軍がサポートしていた張作霖(ヂァンズオリン;ちょうさくりん、1875〜1928年)も、北伐軍に敗れてしまう。
張作霖は東北地方の軍閥で、当時 北京政府で政権を握っていた人物だった。張作霖はその後、北京から拠点の東北地方に引き上げる途中、日本の関東軍による列車爆破で殺害された(張作霖爆殺事件)。調査委員会関東軍参謀長の所見をもとに、田中首相は首謀者のみを処分。これに昭和天皇(1901〜1989年)が激怒し、田中内閣は吹っ飛んだ(総辞職)



日本政府が東北地方の支配権を死守しようと必死になるなか、張作霖の息子である張学良(1901〜2001年)は日本への対抗のため、蒋介石率いる中国国民党の国民政府が東北地方を支配することを決意。

こうして国民政府は中国全域を統一することに成功することとなったのだ。




蒋介石による独裁のスタート

蒋介石は1928年に、中国国民党による一党独裁体制をスタート。
みずから主席となり「訓政」と呼ばれる、民主主義を制限した国づくりを進めていく。

蒋介石の演説(1934年)


中国の上海には、すでに欧米諸国・日本や海外の中国人からのマネーが流れ込んでいた。
蒋介石は、上海を中心とする巨大な銀行資本 浙江財閥(せっこうざいばつ)と関係を深め、アメリカ合衆国とイギリスのサポートのもとに、中国国民党ただ一つの党が支配する政権を建設していったのだ。

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ソ連の支援を受ける共産党


一方、クーデタで追放された中国共産党はといえば、何度かの蜂起も失敗。

ロシアのように「ソヴィエト」を中心とした革命を起こそうとこころみる。
しかし、ロシアと違うのは、ソヴィエトを都市ではなく農村で組織しようとしたこと。
毛沢東(マオツォトン;もうたくとう、1893〜1976年)は、

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中国共産党軍(紅軍)を率いて井崗山(せいこうざん)で根拠地をつくると、


しだいに中国共産党の支配エリアは広がり1931年には江西省の瑞金(ずいきん)というところで毛沢東を主席とする「中華ソヴィエト共和国臨時政府」が成立。ウイグル人、チベット人、モンゴル人も含めた「中華ソヴィエト連邦」の建設を目指した。

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建国の式典


蒋介石の国民政府は、この「中華ソヴィエト共和国」をぶっこわそうと包囲戦をつくる方針に転換。

しかし、浙江財閥と組む蒋介石のトップダウンな進め方(訓政)に対しては、当然反発も生まれ、決して一枚岩の状況ではなかった点には注意しておこう。蒋介石のライバル汪兆銘は、1931年には広東で立ち上げられた反蒋介石の政権に合流している。



混乱の中、満州事変へ


一方、この頃の世界情勢はどうだろうか。

1928年にはソ連が「社会主義の完成」をうたい、ますますスターリンによる独裁が強まっていた。


1929年にニューヨーク株式市場を襲った世界恐慌の波が世界を覆い、

イタリアではムッソリーニという政治家が「ファシズム」という一党独裁体制を築き上げている最中だ。



危機を打破するには、議会制民主主義(国民の代表者による話し合い)や、今までのような“ほったらかし”の資本主義(自由放任的な資本主義)では、無力だ。

さまざまな意見が飛び交う中、不穏な動きが世界を覆っていった。

イギリス、アメリカとの経済的な連携を深める国民党の蒋介石
ソ連のコミンテルンのサポートを受ける共産党の毛沢東
ソ連に反発しつつも、蒋介石を封じ込め、日本との連携もうかがう国民党の汪兆銘


こうした先の見えない混沌とした状況の中、日本による軍事行動が始まっていくことになる。






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