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12.3.1 清朝の動揺とヨーロッパの進出 世界史の教科書を最初から最後まで

清代中期には、領土も広がり、中国の人口は18世紀の100年間に1億数千万人から、なんと約3億人にまでほぼ倍増。

土地を求めて人々は四川や陝西、湖南(こなん;フーナン)、雲南(うんなん;ユンナン)などの “フロンティア” に移住。山地への移住民は「棚民」と呼ばれ、四川(スーチュワン;しせん)の林業・製鉄業、陝西(シァンシー;せんせい)の製塩業などの新産業の働き手として働いた。
彼らが山地における労働で活躍した背景はカンタン。
給料が安くても、働かせることができたからだ。
その秘訣は、食料の安さにある。

大航海時代以降、中国に導入されたトウモロコシは、林業や製鉄業のために木々を伐採した山に火を放つ焼畑(やきばた)農業で、肥料もろくに与えなくてもよく育ったのだ。

しかし、「開発」が進めば、「自然環境」には限界が来る。
18世紀後半になると、さすがに無理な焼畑農業によって土壌が流出。
ただでさえ木のない斜面である。
土壌の流出に歯止めがかからず、日照りや洪水が起きれば、よけいに農業ができなくなる。
トウモロコシの価格が上がる。
労働者が低賃金では生活できなくなるーといった “負のスパイラル” におちいった。



その頃、長江下流部では、手工業(生糸づくりやシルク(絹)の織物、綿織物)が盛んとなり、高級織物などは大きな機械を用いた分業による生産も行われるようになっていた。



しかし、こうした商品づくりに携わる人々の生活は日増しに苦しいものに。
農民の土地不足も相まって、しだいに「流れ者」や「裏社会」も問題化。
しだいに社会は不安に包まれていった。


こうした変化を背景として、18世紀末には四川(しせん)を中心とする信仰開拓地で白蓮教徒の乱(バイリェンジァオ;びゃくれんきょうとのらん、1796〜1804年)が勃発。10年近く続き、鎮圧にてこずった清朝の力を奪っていった。


一方、当時のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国は“激変期”にあたる。
18世紀後半にヨーロッパ勢力が南(海から)・北(陸から)の両面で東アジアに積極的に進出ししたことは、清朝を中心とする従来の東アジアの国際秩序をゆるがせる原因となっていった。


すでに、ロシア帝国と清とのあいだには1689年にネルチンスク条約(尼布楚条約)が結ばれていたよね。
その後1727年には、通商関係の事項を取り決めたキャフタ条約(恰克図条約、ネルチンスク条約で未定だった西部の国境を定めたもの)がむすばれ、国境で公認の形で貿易がおこなわれていた。
本当は「朝貢」の枠内でおこなわれるはずだった「貿易」が、それとは別の枠組みでおこなわれるようになっていったわけだ。
皇帝にとってみれば、そりゃ理想としては「朝貢」の枠内で行われるのが一番だ。けれども全てが必ずしも理想通りにいくわけじゃない。



ロシア帝国はエカチェリーナ2世のときに、使節ラクスマン(1766〜1806年以降)を北海道の根室(ねむろ)に派遣し、日本との通商を要求(1792年)。


毛皮ビジネスを中心に、ユーラシア大陸の極東部での交易活動を積極的に拡大させようとした。

おなじ1792年には、対するイギリスのジョージ3世がスコットランド人のマカートニー(1737〜1806年)を清に派遣。

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「唯一みとめられていた広州以外の港も開いて欲しい」と自由な貿易を皇帝にお願いした。
しかし皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)は、「貿易に対する考え方が違うようだ。中国と貿易ができる権利というのは、あくまで皇帝から与えられた“恵み”だ」と主張。

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中華(中国の皇帝をトップとする国際秩序の考え方)のスタンスを崩さずに、マカートニーの主張をしりぞけた。


史料 マカートニーの日記(1794年1月)

インドにあるわれわれの植民地は、その中国貿易がちょっとでも途絶えれば非常な大損害をこうむるだろう。中国貿易は、それだけを切り放して綿花とアヘンの市場としてみた場合でも、フィリピン群島およびマレー地方との冒険的商売と関連したものとしてみた場合でも、計り知れない価値のあるものなのである。
 大英国(グレートブリテン)にとっての打撃は即時に現われ、かつ深刻であろう。わがイングランドの昔ながらの主要商品である偉大な毛織物工業は、政府がどれほど油断なく活動的であっても、長期間にわたって癒すことも軽くすることもできかねるような、突然の大動揺を経験するであろう。わが国の毛織物だけに対するカントンからの需要は、現在、間違いなく50万ポンドないし60万ポンドを下らない。配慮よろしきを得れば、何年かのうちに需要を100万ポンドにまで伸ばせると考えてよい。われわれは中国への輸出が伸びつつある他の諸部門、すなわち錫(すず)、鉛、銅、金属製品、置時計、懐中時計、その他類似の精密工業の製品の取引きを失うであろう。中国から買う物についていえば、わが国の絹製品にとって不可欠の材料である中国の生糸ばかりでなく、もう一つの不可欠の贅沢品、というよりは絶対欠くことのできない生活必需品たる茶をも輸入できなくなるであろう。
[…]
 以上のようなさまざまの災いが、中国と不和になると必ずおこらざるをえないように思われる。……ところが、私が心配の種として前述したようなさまざまの不便や害のすべてが、中国とわが国が不和にならなくても、あるいはまたわれわれの方から何も手を出さなくても、事の普通の成行きとして起こるということがありうる。中華帝国は有能で油断のない運転士がつづいたおかげで過去150年間どうやら無事に浮かんできて、大きな図体と外観だけにものを言わせ、近隣諸国をなんとか畏怖(いふ)させてきた、古びてボロボロに傷んだ戦闘艦に等しい。しかし、ひとたび無能な人間が甲板に立って指揮をとることになれば、必ずや艦の規律は緩み、安全は失われる。艦はすぐには沈没しないで、しばらくは難破船として漂流するかもしれない。しかし、やがて岸にぶつけて粉微塵(こなみじん)に砕けるであろう。この船をもとの船底の上に再び造り直すことは絶対に不可能である。

マカートニー、坂野正高訳注『中国訪問使節日記』より


したがってイギリスが、貿易を許されていたのは広州のみ。
18世紀後半の広州の貿易の大半はイギリスが占めていたのだ。


イギリスで茶の需要がアップすると、中国茶の輸入が急速に増加。しかし、それを買うためにイギリスの工場で蒸気機関の動力で機械を動かしてつくった綿布は、中国ではなかなか売れず、イギリスは輸入ばかりの赤字状態。
イギリスでつくられた機械製の厚手の綿布よりも、中国やインドの薄手の手織り綿布のほうがジメジメした気候に適していたんだね。


代金の銀を中国に払いっぱなしのイギリスは、赤字解消の“裏ワザ”として、なんとアヘンという違法薬物ビジネスに手を染めた。

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植民地のインドで栽培したケシからアヘンを精製し、それを関連商人が東南アジア経由で中国方面にひそかに運んで売りさばいたのだ。
中国でアヘンの吸引が広がるにつれ、今度は逆に中国から銀が国外に流出。


清は早くからアヘンの吸引や輸入を禁止していたけれど、「これはまずい」ということで、皇帝は1839年に広州に林則徐(1785〜1850年)という敏腕官僚を派遣し、取り締まりにあたらせることにした。彼は広州でアヘンを没収し廃棄。「今後アヘン貿易をしません」という誓約をイギリス商人に迫った。


これについてはイギリスでも批判は強かったんだけれど、議会では「イギリスが中国と自由に貿易をするチャンスだ」と見る意見が上回り、1840年に海軍が派遣され、戦争がはじまった。

これをアヘン戦争といい、1842年までつづいた。


イギリスの歴史の“汚点”として残る、悪名高い戦争だ。

もちろん、アヘンの密貿易で稼いでいたのは、なにもイギリス商人だけではない。東南アジア各地の商人(ブギス人)や

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インド、中国人の商人たちも関わっていた。


しかし、18〜19世紀を通して、インド洋の経済のセンターだったインドがイギリスによって植民地化され、さらに19世紀初頭にマラッカ海峡周辺もイギリスが勢力下に置かれたことで、イギリスがインド洋から中国にかけての物流ルートの支配を強化。
これにより中国経済がもろにインド洋の経済圏と衝突した結果、起こった戦争だと見ることもできるだろう。

とはいえ中国では、「アヘン戦争」を「“中国民族”の近代化にむけたスタート地点」と見なすことが一般的。
「西洋の衝撃(ウェスタン・インパクト)」によって、“中国人”が長い眠りから目覚め、清を倒し、新しい国を建設する第一歩を踏み出すことになったのだというストーリーだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊