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12.3.2 欧米諸国との条約 世界史の教科書を最初から最後まで

清は、科学技術を駆使した兵器をもつイギリス海軍に連敗。

伝統的な帆船であるジャンク船が、蒸気力で高速移動し大砲を積む軍艦にかなうはずもない。

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しかし、海で有利に戦いをすすめたイギリスも、陸では中国民衆のゲリラ的な抵抗にあって苦戦。



戦争が長期化する中、1842年に南京条約(中英江寧条約、なんきんじょうやく)が結ばれる。

史料 南京条約(1842年)
一、今後、大皇帝は次のことをお許しになった。イギリスの人民が…上海などの五港に寄居し、妨げられることなく貿易通商をおこなうこと。…
一、イギリスの商船は、遠路はるばる海を渡ってくるので、往々にして船に損壊が生じ、修理を要する。…ここに大皇帝は、香港一島をイギリス君主に与え、…任意に制度や法をつくり、治めていくことをお許しになった。

歴史学研究会編『世界史史料9』


これにより中国は広州にほど近い香港島(シァンガンダオ;ほんこんとう)をイギリスに割譲(かつじょう)。

上海(シャンハイ)、寧波(ニンボー;ねいは)、福州(フーヂョウ;ふくしゅう)、厦門(シアメン;アモイ)、広州(ゴヮンヂョウ;こうしゅう)の5港を開港。



広州で「イギリスとの貿易の独占的な窓口となっていた、古くさい、ギルド的なブローカー(仲買)の組合」と決め付けられた公行」(こうこう;コホン)も廃止された。


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広州では「広東十三行」と総称された豪商たちが、イギリスとの貿易を取り仕切っていた。特にイギリスの民間商人会社(ジャーディン=マセソン商会)と提携する豪商の力が強く、アヘン貿易にも積極的に携わっていたんだ。



また、中国がイギリス製品をブロックするためにかけていた関税も、イギリス側が設定することになり、中国が自分で関税を設定する権利(関税自主権が奪われた
さらに、今後中国が別の国に、この取り決めとは別の特権を与えた場合、その国と結んだ特権がそのまま適用されるという「最恵国待遇」(さいけいこくたいぐう)も押し付けた。

イギリスが「自由」に貿易をするために、戦争によって中国に「自由貿易」の条項を押し付けたわけだ。


この様子を見たフランスは、1844年に中国との間に同様の条約を締結。黄浦条約(ホァンプー;こうほじょうやく)という。
また、太平洋を超えた東アジアのマーケットに関心をもっていたアメリカ合衆国も、同じような条約(望厦(ワンシア;ぼうか)条約)を同年1844年に締結している。


こうして、イギリス、フランス、アメリカ合衆国ともに、中国での貿易が今後ますます発展するんじゃないかと期待。



しかし、現実は裏腹だった。
思っていたほどの利益はあがらなかったのだ。

イギリスは「もっと有利な内容の条約が結べないか」と画策するのだが、1853年にロシアがオスマン帝国と戦争を起こすと、大規模な戦争(クリミア戦争(1853〜1856年))に発展してしまい、その余裕もなくなった。


そうこうしているうちに、クリミア戦争のゴタゴタは”蚊帳の外“だったアメリカ合衆国が、ペリー琉球王国

日本に派遣。2つの国の開国に成功する。
さらにロシアも日本との間に同様の条約を結ぶに至り、「このままでは中国のマーケットがアメリカ合衆国やロシアにとられてしまう」と危惧したイギリスは、1856年にフランスを誘って中国に共同で出兵した。



開戦の理由は「イギリス船籍を主張する船(アロー号)の中国人乗組員が海賊容疑で逮捕された事件」だ。
この些細な事件を持ち出して、イギリス軍はフランス軍の出兵を要請。
フランスのナポレオン3世も、フランス人宣教師が中国で殺害されたことを持ち出して、参戦する。

イギリス軍とフランス軍は広州を占領。
さらに海軍を北上させ、皇帝の宮殿のある北京から川でくだったところにある港町 天津(ティエンシン;てんしん)にせまった。


北京占領を目前にした清は、1858年にここで天津条約を締結。



この事態に、ロシア帝国が動いた。

主導したのは中国への南下をめざしていたロシア帝国の東シベリア総督ムラヴィヨフ(1809〜1881年)だ。
彼は清とアイグン条約を結び、黒龍江(アムール川)よりも北のエリア(沿海州(えんかいしゅう))を領有。
イギリス・フランスを牽制(けんせい)した。



そんな中、1859年、天津条約に効果をもたせるための国内での受け入れ確認書(批准書(ひじゅんしょ))を交換しようとしていたイギリスの使節を、清軍が攻撃してしまう。

これをきっかけとして、イギリスとフランスは再度出兵し、北京を占領。
ロシアが南下してくるのではないかという不安もあった。
このとき北京にあったヴェルサイユ宮殿をモデルとしたバロック式の離宮(円明園(えんめいえん))も破壊されてしまった。


* * *


もうなすすべもない清に、「ロシアがイギリスとフランスとの講話を仲介(調停)してあげよう」と、歩み寄ったのはロシア帝国だ。
外交的な駆け引きだね。


ロシアの仲介によって、1860年に北京条約を締結。


・北京に外国の公使(外交官)を駐在させること

・天津や長江流域の港町など11港を開くこと


開港されたのは牛荘(満州。現在の海荘(ハイヂュアン))、登州(山東。芝罘(ヂーフー)と呼ばれた。現在の煙台(イェンダイ;えんだい))、

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漢口(ハンコウ;かんこう。長江沿岸)、

九江(きゅうこう;ジウジァン。長江沿岸)、

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鎮江(ヂェンジアン。ちんこう。長江沿岸)、

台南(タイナン。台湾)、淡水(ダンシュェイ;たんすい。台湾)、

潮州(チャオヂョウ;ちょうしゅう。広東省東部、後に同地方の汕頭(スワトウ)に変更)、

瓊州(チォンヂョウ;けいしゅう。海南島)、
そして南京(ナンジン;なんきん。長江沿岸)



以上の10港を開港


・外国人の中国内地での旅行を認めること
・禁止されていたキリスト教を布教する自由を認めること


・香港島の対岸の大陸側にある「九龍半島」(ジウロン;カウロン;きゅううりゅう。きゅうりゅうはんとう)の南部をイギリスに割譲すること

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清はこれらの項目を受け入れることとなる。


しかも同じ頃、アヘン貿易も公認され、イギリスとしては願ったり叶ったり。


しかし仲介したロシア帝国にとってもうまみはある。

見返りに清との間に、ロシアー清間の「北京条約」を結び、ウラジヴォストーク港を確保。
太平洋進出の根拠地とした(ウラジヴォストークの意味は「東方を支配する街」)。

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ロシアの進出は太平洋側だけではない。
19世紀後半には中央アジアのトルコ系の人々のエリアにも進出をつよめていった。


1881年イスラーム教徒の反乱をきっかけに、中央アジアのイリ地方に出兵し(イリ事件)、1881年のイリ条約で清との国境を有利に取り決めた。



19世紀後半には中央アジア南部にも侵攻し、ウズベク人のブハラ(1500〜1920年)・ヒヴァ(1512〜1920年)の両ハン国をそれぞれ1868年・1873年に保護国とし、1876年にはコーカンド=ハン国を併合。
ロシア領トルキスタンを形成した。

これに焦ったイギリスは、アフガニスタンを1880年に保護国化。

中央アジアをめぐるロシア帝国とイギリスの領土争い(グレート=ゲーム)が勃発する。

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アフガニスタンの君主(中央)をめぐり、左の熊🐻(=ロシア)と右のライオン🦁(=イギリス)がにらみをきかせている(1878年のイギリスの雑誌『パンチ』より)


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