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14.4.2 ニューディールとブロック経済② 世界史の教科書を最初から最後まで

さて、世界恐慌後の世界は「ブロック経済」と呼ばれる状況に向かうことになる。

ブロック経済とは、言い換えれば“自国ファースト”の保護貿易主義だ。



保護貿易の反対言葉は、自由貿易。

一般に、自由貿易を支持する人は、「自由な貿易が進めば進むほど、商品を買いたい人と売りたい企業が“出会うチャンス”が増えるので、効率よく商品が取引される」と主張する。

しかし、世界恐慌の影響で、各国の経済がヤバくなると、「自分の国だけは、なんとか資源を獲得しよう」「売り場を確保しよう」という “買い溜め”思考がはたらく。

もちろんすべての国が余裕でそんなことできたわけじゃない。

世界中に植民地や従属エリアをもっていたイギリスやフランスにとってはお手の物だが、植民地や従属エリアが比較的少なかった国(イタリアや日本、それに第一次世界大戦で全植民地を失ったドイツ)はそうもいかない。



こうした亀裂が、のちの「第二次世界大戦」を生むこととなるのだ。



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イギリスの対応

まずはイギリスの対応を見ていこう。

世は第2次マクドナルド内閣。労働党の内閣だった。

マクドナルドは世界恐慌が起きる前に2度目の労働党単独内閣を発足させていたものの、秋にニューヨーク株式市場が暴落。
経済が密接に結びついていたロンドン証券取引所にも、激烈な影響が及んだ。

この国難に際し、マクドナルドは「仕事を失った労働者に支給する年金(失業保険を削減しよう」と決断。

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これに対し「おいおい、ちょっと待ってくれ。あんた、労働党の党首だろ」という労働党内部からのツッコミが入ると、マクドナルドは首相を辞職。

その上で、国王ジョージ5世の任命を背景に、保守党の協力を受けて挙国一致内閣(きょこくいっちないかく)を組織した。

労働党が労働者を支持母体とする派であるのに対し、保守党は資本家(ジェントルマン階級)などアッパークラスを支持層とする派だ。
「非常事態なんだから、左も右もないだろう」というわけで、国王がそのつなぎ役を果たした。


こうして挙国一致内閣は、財政削減・金本位制の停止を実施。

金本位制を停止すれば、中央銀行が、金の保有量に関係なく紙幣の供給量を決めることができる。また、自分の国の通貨の為替(かわせ)レートを切り下げることも可能になり、自国の貿易収支黒字を伸ばせる。


それだけじゃない。

1932年に自治領だったカナダのオタワで開かれた、イギリス帝国(注)の植民地・自治領が一堂に会する「オタワ連邦会議」で、「イギリス連邦」が正式に発足。
イギリス内部での関税をさげて、連邦の外の国にはバリバリ高い関税を課すという政策が採用された。

)「イギリス連邦」とは1931年以降、イギリス帝国が再編されてできた、イギリスの王冠の権威の下につなぎとめられたグループ名。自治領のポジションはイギリス本国と対等とされていた。
大戦や恐慌によってイギリス本国の立場が低下したことや、自治領が第一次世界大戦で多大な貢献をしたことや独立意識を高めたことが背景にある。

これをスターリング=ブロック(またはポンド=ブロック)という。



その後、1935年には保守党内閣に交代。

この内閣は、そのころドイツで 世界の秩序に挑戦する”単独行動“をとりはじめていたヒトラーに対して、なるべく「ご機嫌を損ねないようにする政策」(宥和政策(ゆうわせいさく))をとった。
宥和とは、対立する相手を寛大に扱って(大目に見て)、仲よくすること。

これが、のちのち「イギリスが甘く見たせいで、ヒトラーをのさばらせることになった」と、特にアメリカ合衆国の国際政治学者によってマイナス評価される政策だ。


国際秩序に反する行動をとる一国の指導者や、その国民に対し、国際社会はどのような行動をとるべきか。
これは現代の世界においても、統一的な答えの定まっていない難問だ。



フランスの対応

フランスの対応も見ておこう。

フランスで世界恐慌の影響が出てきたのは1932年のこと。

2008年のリーマン・ショックに比べると、世界経済への影響は、当時ずいぶんゆっくりとしたスピードだったんだね。


政府は植民地や友好国との間に、イギリス連邦と同様の「フラン=ブロック」を築いた。
フランというのはフランスの当時の通貨の名前だよ。

一方、フランス国内の政治は落ち着かない状況。

隣国ドイツでヒトラー政権ができると、「ヒトラーへの対応を政府に任せておけるだろうか?」「フランスでも、同じようなファシズム政党が政権をとってしまうんじゃないか?」という不安が広がった。


同様の不安を抱いていたのは、ソ連だ。

ドイツのヒトラーが戦争をはじめれば、第一次世界大戦のときのように、西はフランス、東はソ連が攻撃対象になるだろう。

最悪のシナリオを恐れたソ連とフランスは急接近。

ソ連とフランスによってドイツを”挟み撃ち“にしてしまおうという魂胆だ。


でも、仏ソ提携の実現にはハードルがあった。

「ソ連を頼ろう」「ソ連と仲良くしよう」というムードは、もともとフランス国内でなかなか共有できる状態ではなかったのだ。



まず第一に、革命による社会の根本的転換をめざすソ連には、フランスの中道政党(ゆっくりとした社会の改革を望む政党)の間に ”アレルギー“があった。

第二に、ソ連の「中道」嫌いがある。
中道政党」(社会民主主義の政党と呼ぶこともある)というのは「革命に協力しない”裏切り者“」という認識だ。
今すぐ革命をするべきなのに、資本家(ブルジョワジー)にしっぽを振る🐶だというわけだ(この理論を「社会ファシズム主義」という)。


けれども、そうはいっていられない状況もある。
実際にフランスにもヒトラーの影響を受けて極右(きょくう。極端な右翼。多民族の排除と自民族中心の政策を掲げる)政党が目立った活動を始めていたのだ。



「こういうときだからこそ、左翼と中道が力を合わせて極右に立ち向かう必要があるぞ」というムードに。こうしてフランスの中道政党(ゆっくりとした社会の改革を望む政党)と左翼政党(革命による社会の根本的転換をめざす政党)がまとまり、1935年に仏ソ相互援助条約(ふっそそうごえんじょじょうやく)が結ばれた。
ようするに、ドイツを仮想敵国とする条約だ。
なんだか、ヴェルサイユ条約やロカルノ条約によって積み重ねられてきた「国際協調」の動きが、どんどん崩れていっているよね。


翌1936年には、社会党と急進社会党(ともに中道)に、フランス共産党がコラボする形で、「左派」勢力を結集し選挙に勝利(左派376議席に対し右派222議席)。
「極右(ファシズム)に立ち向かうための内閣」(人民戦線内閣)がつくられた。


首相は、第一党の社会党のブルム(在任1936〜38年、1946〜47年)だ。
ブルム自身はもともとロシアの革命が嫌いで、フランス共産党と対立してきた立場の政治家。背に腹はかえられないとの状況認識があったわけだ。

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ブルムは景気対策を進めるとともに、極右団体を解散させるなどの措置をとったけれど、内外の情勢は日増しに不透明なものとなっていた。

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極右政党の例(アクション・フランセーズ)。1936年に解散させられた。






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とまあ、こういう具合に、当時の先進工業国であったアメリカ合衆国、イギリス連邦、フランス共和国はそれぞれ、ドル、ポンド、フランを決済手段とする経済ブロックを建設。
「自分の国だけ助かる経済システム」をせっせと築き上げていった。



はじめの話に戻ると、これが「ブロック経済」だ。

これにより、ブロック間の対立が激化しただけでなく、貿易をしなければ必要なものが手に入らない中小諸国が苦しむことになる。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊