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11.1.4 ギリシアの独立と東方問題 世界史の教科書を最初から最後まで

1821年、オスマン帝国の領域内にあったギリシアが独立戦争(ギリシャ独立戦争)をおこした。

バルカン半島はイギリスにとって、インドに至るルート近くにあるエリアにある。




バルカン半島にはロシア帝国も冬場に凍らない港を求めて南下しようとしており、ウィーン体制で決められた大国どうしのバランスが崩れる懸念材料となっていた。


一方、ヨーロッパの各国内では、「ヨーロッパ文明のルーツであるギリシャの人々が、自由と独立を求めているんだからたすけてあげなきゃ」という世論もあって、サポートをする”空気“が高まっていた。


そういうわけで、オスマン帝国からのギリシャの独立をイギリス、ロシア、フランスがサポートし、オスマン帝国と戦うという構図が生まれたわけだ。


イギリス、ロシア、フランスが介入したんじゃ、オスマン帝国もかなわない。

その結果、1829年にオスマン帝国はロシアと条約を結び、ギリシアの独立を受け入れた。そして、1830年にロンドンで開かれた会議(ロンドン会議で、独立は国際的に認められることになったよ。



しかし、その後エジプトの動きが、この地域の新たな “不安定要因” に。



ギリシア独立戦争のときにオスマン帝国の側を支援したとして、当時事実上独立していたエジプトの君主ムハンマド=アリーがオスマン帝国に対して「助けてやったのだから、領土をくれ」と要求。

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そのまま戦争に突入する

エジプト=トルコ戦争だ。


これを見たロシアは「オスマン帝国の味方をすれば、ほうびに何かもらえるぞ」と判断。
凍らない港と地中海へのルートを求めるロシアは、オスマン帝国をサポートすることにした。

ロシアが期待したのは具体的には、黒海から地中海に抜けるときにある2つの狭い海峡である、ダーダネルス海峡と

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ボスフォラス海峡

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を自由に通航することができる権利



一方、七月王政(1830〜48年)となっていたフランス王国は「エジプトに進出するチャンス!」と見て、ロシア帝国とは反対にエジプトのムハンマド=アリーをサポートしようとした。


これに「ちょっと待った!」と出たのがイギリスだ。

そんなことしたら、ロシアをバックにしたオスマン帝国とフランスをバックにしたエジプトという構図になってしまう。

どっちが勝っても “最悪” だ。


そこでイギリスのパーマストン外相(外相任1830〜34、35〜41、46〜51年)は

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1840年、ロンドン条約を結んで、ダーダネルス海峡とボスフォラス海峡は「軍艦が通っちゃダメ」と国際的に認めさせ、ロシアとフランスが東地中海エリアに進出するのを阻止しようとした。


しかし、そもそもオスマン帝国がしっかりしていれば、ロシアとフランスの進出をブロックできるものの、オスマン帝国の支配自体がゆるんでおり、各地で独自の勢力が自立しちゃっている状況であるため、なかなかまとめることはむずかしい。そもそも「一定のエリアを、主権をもつ支配者が圧倒的武力で囲い込む」ことで成り立つ国の仕組み(主権国家)というのは、あくまで西ヨーロッパで生まれた国のあり方に過ぎないんだけどね。


そういうわけで、19世紀以降、バルカン半島周辺は、ヨーロッパの国際対立の“最前線” となっていく。

オスマン帝国のエリアで、自立しようとする諸勢力の騒ぎと、そこに介入しようとするヨーロッパ諸国どうしのゴタゴタは、西ヨーロッパの側から見て「東方問題」と呼ばれたよ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊