"世界史のなかの"日本史のまとめ 第3話狩猟採集による定住生活の安定(前3500年~前2000年)
Q. この時期の日本列島に大きな都市文明が現れなかったのはなぜだろうか?
そろそろ弥生時代ですか?
―ううん、まだ縄文時代は続いてる。
縄文人とイヌ(国立科学博物館)
長いですね(笑)
日本以外ではどんな状況になっているんでしょうか?
―この時代には、人間にとって「使える」植物の栽培や動物の飼育があちこちで発展していく時期にあたる。
特にユーラシア大陸の乾燥エリアでは、厳しい気候だからこそ、大きな川から水を引っ張り大規模な農業・家畜の飼育をおこなうことに成功。
人口が爆発的に増えて余裕ができた分、いろんな技術や人間を自然と分ける世界観が発展していくことになる。
人口が増えると、力関係も変わっていきそうですね。
― そうだね。収穫量が増えると、それを独り占めしようとする人も出てくる。
経済的な力を背景に、軍事的な力(注:武力を使って人にむりやりいうことを聞かせる力)と、宗教的な力(注:目にはみえない力を使って人にしぜんということを聞かせる力)をコントロールすることができる有力者が現れる地域も出てきている。
有力者は経済的な力を確保するために、多くの人を動員し、さまざまな場所にある「珍しい物」を手に入れようとするようになる。
そして有力者がコントロール下に置く拠点にはさまざまな職業の人が集められ、「多文化」「多言語」の社会が生まれていく。
これを「都市」というよ。
で、日本に都市はあったんですか?
―社会の中に「大きな身分の差」が生まれることが、その人間の「群れ」が「都市」といえるかどうかの基準の一つだ。
考古学者ゴードン・チャイルドは都市の指標として次の10項目を挙げている。
①大規模集落と人口集住、②第一次産業以外の職能者、③生産余剰の物納、④社会余剰の集中する神殿などのモニュメント、⑤知的労働に専従する支配階級、⑥文字記録システム、⑦暦や算術・幾何学・天文学、⑧芸術的表現、⑨奢侈品や原材料の長距離交易への依存、⑩支配階級に扶養された専業工人。
そういう意味での「都市」はまだ日本にはできていない。
余るほど豊かな食料があって、それが一部の人間によって独占されるほどではなかったってことだ。
でも、この時期には、前の時代にくらべるとかなり大きな集落(一度に20~30人ほどの世帯が暮らす群れ)が日本列島各地に現れている。
例えば青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)が有名だ。前3500年から前2000年頃までの長期間にわたって集落が存在した。
クリの林が栽培されていた跡もみつかっている。
直径1メートルものクリの大木を6本も使った物見やぐらも建設されているし、かなり遠いところからさまざまな物を取り寄せている。
最近では世界遺産登録に向けた運動もさかんになっているね。
こんなふうにクリの中で暮らしていた?(「縄文ファンHP」鈴木三男氏による)
農業をやっていたんですか。縄文時代なのに―
―人工的につくった森林、つまり「雑木林」(ぞうきばやし)だね。 規模としては小さいけど、ほかにもヒョウタン、ゴボウ、マメも栽培されていた。
昔考えられていたように縄文時代イコール「狩猟採集」っていうわけじゃないんだよ。
最近の教科書では、上図①のように「植物を栽培する人」が加わり、「イメチェン」が図られている(中学歴史教科書8社を比べる)
* * *
狩猟・採集生活を長期にわたっておこなうには、ある程度、自然をコントロール下に置くことも必要でしょ。
ほかにもシカやイノシシの飼育・管理や貝の管理をおこなっていた遺跡もあるよ。
魚釣りもしていたんですよね?
―そうだね。
たとえば東京北区の王子駅近くにある中里(なかざと)貝塚では、大量の貝がむかれて茹(ゆ)でられ、内陸に出荷されていたと考えられている。
図は想像図(北区飛鳥山博物館)。「中里貝塚では、役割分担をおこない、共同作業で貝を加工処理していたと思われます。貝を採るのに適した季節になると、台地上のムラから海岸に下りてきて集中的に貝を採っていました。
むき身にした貝は、そのまま、あるいは干し貝に加工されて、内陸の村々との交易に用いられていたことが考えられます。」
まるで”貝工場”みたいですね。ところで、貝塚ってなんでしたっけ?
―人為的に貝殻が捨てられているところ。貝の「ゴミ捨て場」だ。ただ、「捨てる」という行為が、現代のわれわれと全く同じ意味合いだったとは限らない。
われわれみたいにポイポイ捨てるわけじゃなくて、「なんらかの特別な意味」をもった場所だったに違いない。
人の骨もみつかっているから。
でも、東京のそんな北のほうからどうして貝がたくさん見つかるんですか?
―この時期のはじめは、とくに気候が温暖だった時期で、海水面が今よりもずっと高かったことがわかっている(注:「縄文海進」(じょうもんかいしん)という)。
図は「葛飾区史HP」より。「この時期の関東平野には東西に2つの大きな内海があった。東部は古鬼怒湾(奥鬼怒湾)で、低地一帯は「香取海」と呼ばれた。西部は奥東京湾で、現在の荒川低地・中川低地・東京低地にあたる。水深が浅く、流れもあまり強くないため、三角州が発達し、奥東京湾は次第に小さくなっていった。
約6000年前の海岸線の位置は、台地の縁が波の作用で削られてできた波食台の位置でわかる。」
日本第四紀学会「縄文海進の原因について。日本史教科書には温暖化で氷河が溶けたためとあるのですが、氷河は主因ですか」も参照。
特に現在の関東平野には深くて浅い入江が多かったため、そこでスズキやクロダイを捕る漁業も発達した。
当時から日本人は「魚好き」だったんですね。
「”世界史のなかの”日本史のまとめ」第三回は以上です。
次は第四回「前2000年~前1200年」。
いよいよ縄文時代にも、九州の火山の大噴火に続く二度目のターニングポイントが訪れます。
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