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【ニッポンの世界史】#33 地政学化する世界史:キッシンジャー・『悪の論理』・高坂正堯

2010年代の世界史ブーム


 連載の第1回で、2010年代以降の世界史の一般書のトレンドに、(1)データベースとしての世界史、(2)文理融合的な世界史、そして(3)世界史のなかの日本史があると書きましたね。

 この連載をお読みの方ならば、「おすすめの世界史の本」ということで手にしたことがある人も少なくないのではないかと思いますが、ここでのわたしたちの目的は、これらの書籍の内容をレビューすることにあるのではありません。
 2010年代以降の一般向け「世界史ブーム」という状況が成立している。
 このことは、見方を変えれば、2010年代の日本人が、世界史に何かを求めているということでもあります。

 しかし一般書の多くは、それが一体どのような特徴をもち、およそいかなる系譜に位置づけられるものだったか、文脈が定められることはありません。つまり、批評が存在しない。
 にもかかわらず、「まあ、一般書だから」の一言で片付けているうちに、実際には専門書と比較にならないほど多くの人に読まれ、影響を与えている。
 
 筆者は、それは好ましくないことであると考えています。
 だからこの連載の行き着くところは、ひとつには、こうした一般書をしっかりと「ニッポンの世界史」のなかに文脈づけることにあります。


***


「地政学」的化する世界史



  第1回では挙げなかった2010年代の世界史一般書のトレンドとして、もうひとつあげるとすれば、「地政学的な世界史」だ。

 これをみてほしい。
 2010年代以降、「地政学」を冠する書籍の刊行数が急激に増えている。


 そもそも「地政学」の定義は曖昧です。

  学問として講じられる地政学がないことはないのですが、一般には「国際関係を地理的な関係性とつき合わせて考えること」くらいのカジュアルな意味で使われています。

 2010年代以降に刊行された「地政学」を冠する書籍を読んでみると、その多くがまずはじめに古典的な地政学理論を「ランドパワー」「シーパワー」「リムランド」といった用語とともに説明し、それらの理論を用いて近代以降の国際関係の変転を後づけようとする形をとっています。



 ようするに必ずしも「世界史」と銘打っていなくても、地政学という「学問」のアプローチを用いて、国家間の派遣争いを説明しようとすれば、結局は一定の歴史観にもとづいた「世界史」的な内容を含みもつことになります。
 したがって筆者が「地政学的な世界史」と呼ぶ一般書は、必ずしも「地政学でわかる世界史」といったタイトルをとるわけではないということです。


2010年代以降に刊行された「地政学」をタイトルにもつ書籍の一部


 こうした一般書やインターネットなどを通して流通される大衆的な「地政学」の問題性については、たとえばこれらの記事が的確に整理しているところです。

 これに対し、近年では地政学を単純にタブー視、あるいは政治化させることなく冷静に学問として発展させていこうとする動向もあります(とくに庄司潤一郎・石津朋之『地政学原論』日本経済新聞出版、2023年はバランスのとれた良いガイドです。なお批判的地政学の影響については、1980年代にとりあつかいます)。

 一方、ここでわたしたちが試みたいのは、むしろ日本人が「地政学」という言葉を通して、何を語ろうとしているのか。そこには何らかの歴史と現在に対する意識が働いているのかということに注目することです。
 この作業を通して、「地政学」の大衆的受容が「ニッポンの世界史」にどのような影響を与えたのかを読み解いていこうと思うのです。

 では、「地政学」が大衆的に受容されたのは、いつからのことなのでしょうか?
 わが国で一般にはタブー化されていた地政学が、停滞する地理学とは裏腹に「大衆化」されるのは1980年代以降のこと(庄司潤一郎・石津朋之2023、第1章)。商業出版の刊行数が、そのまま大衆的関心を裏打ちするとみれば、戦後において関心の高まる始期はやはり1980年代にあるようにみえます(戦前・戦中の動向はここでは論じないものとします)。
 しかし筆者は、ややさかのぼって、この発端を1960年代半ばにたどり、さらに1970年代にフックとなる動きがあったのではないかと考えてみようと思います。
 これはどういうことでしょうか。

 

なぜ地政学は注目されたのか


 まずは時計の針を1970年代にさかのぼらせてみましょう。
 70年代の日本は石油危機のみならず大きな国際秩序の変動は、東アジア、とくに中国をとりまく国際環境の変化にあるといってよいでしょう。

 1971年には米中国交正常化、1976年にはプロレタリア文化大革命の終焉、そして1979年には中越戦争が勃発します。


 こうした動きが進展する以前の時代の文脈において、なんといっても中国は左派の期待の星でした

 中国の社会主義政権は、西洋的な価値観を塗り替え、新しい世界史を切り開いてくれるのではないか。
 えある共産主義社会を建設し、アジアを引っ張ってくれるのではないか。
 そうした期待があったことは、以前述べましたね。中国文学者・竹内好も、中国が日本とは異なる真に「アジア的な方法」によって新基軸をうちだしているとの期待を寄せていました

なお、中国に対する課題な評価は「1958年からは、その成果をもとにして、第二次五カ年計画を開始し、中国歴史上いまだかつてない国民経済の全面的な躍進をとげた」とする、最終章「現代の世界」の巻末によくあらわれている。(上原専禄ほか『日本国民の世界史』370頁 )


 けれども、きわめてシンプルに言えば、1970年代の一連の出来事は、そうしたイデオロギー的な仮面を削ぎ落とし、中国を「普通の国」に変えてしまったわけです(小野寺史郎「戦後日本の中国史研究における「近代」」、232頁)。
 米中接近は東西のイデオロギー対立を国際社会のリアリズムがのりこえたことを世界に示し、プロレタリア文化大革命の終焉はその苛烈な権力闘争の実態をあらわにし、そして中越戦争は社会主義国間においても覇権主義は無縁でなかったという失望をもたらしました。

 こうして従来の中国観に動揺が走ります。

 たとえば竹内好が好意的に論じた中国像も、あくまで主観的なものにすぎず、いかにも戦後の日本人が共感しそうな、「わが内なる中国」に対する憧憬にすぎないのではないか、といった批判にさらされるようになるわけです。



キッシンジャーの「地政学」


  •  主観を排して中国という国家を見たとき、それはどこまでも普通の主権国家ではないだろうか。

  •  社会主義というイデオロギーは「化けの皮」に過ぎなかったのではないか。


 こうした思考を現実の外交戦略によって後押しした人物がいます。
 先日亡くなった、アメリカ合衆国の国際政治学者ヘンリー・キッシンジャー(1923〜2023)です。

 キッシンジャーは1969年からニクソン大統領の安全保障問題担当補佐官を務め、1973年からは国務長官となり、フォード政権にも留任。1977年に国務省を去ってからも、その研究や発言が注目を集め続けた人物です。
 その最も大きな事績は、1971年7月に極秘裏に訪中し、翌1972年2月のニクソン訪中を決めた秘密主義的な電撃外交。その目的は泥沼化していたベトナム戦争を和平にもちこむ前提として、関係の悪化していた中ソ関係を利用し、中国に接近したのです。

 キッシンジャーが一連のアクロバティックな戦略をとる際に口にしたの言葉こそ、「地政学」という単語でした。彼はこれを「大国間のバランシング」というかなり曖昧な意味で多用したのです。


「地政学」のあいまいな系譜

 そもそも何を「地政学」と名指すかは、成立の過程においてもあやふやです。地政学者を名乗ったり見做されたりした人たちの属性も、地理学者や政治学者など多岐に渡ります。
 多くの場合、「地政学」は19世紀後半の帝国主義時代以降、熾烈化する列強の覇権競争のなかで、いかに自国の生き残りを図るかという政策的要請のなかで産み落とされ、のちの時代に学としての系譜が遡及的につくられていった事情があります。
 その系譜には大雑把にいえば、マハン、マッキンダーらによるアメリカ・イギリスの地政学の系譜と、ラッツェル以降のドイツ地政学の系譜があります。多くの一般書は、この系譜の順に地政学者の名前と提出された主な概念の説明と、実際の戦争や紛争にあてはめてみる作業に費やされることになります。
 特に後述するイギリスのマッキンダーの発想は、アメリカの海軍戦略思想家マハンとともに、ドイツのハウスホーファーに影響を与え、ドイツ地政学(ゲオポリティーク)の形成につながります。
 このドイツ地政学は、その後ヒトラーのナチ党政権や日本にも大なり小なり影響を与えたことから、大戦後の地政学には味噌がついてしまうんですね。戦時中に地政学に関与した学者の多くは、戦後には口をつぐんでしまう。例外は以前この連載でも紹介した飯塚浩二くらいです(庄司潤一郎・石津朋之2023: 第1章。地理学会の戦前・戦後の連続性については柴田陽一「戦前戦中の欧米諸国および日本における地政学の動向」、「国土計画研究会」(川上征雄氏主宰) 2014年も参照)。
 先に示した刊行数が戦後しばらく激減しているのも、こうした理由によるものです。

 他方、戦勝国であるアメリカでは、第二次世界大戦後も、リデルハートやケナン、そしてマハンの後継的存在とみなされるスパイクマンが「封じ込め政策」の理論的バックグラウンドとして影響力を保持し続けます。
 しかし先ほどのキッシンジャーは、大戦中に迫害を受けたユダヤ人でした。そうしたことも、地政学という用語にまつわるタブーが、日本において1970年代に解消されていったことの背景にあります。
 

 少し固有名詞を羅列しすぎたようです。
 ここではこれ以上細かなことに首をつっこむのはやめにしておくとして、要するに「地政学」的な説明は、冷戦期においても現実政治と結びつき、米ソ冷戦という東西対立構造をシンプルに市井の人々に説明するために用いられ続けたわけです(庄司潤一郎・石津朋之2023)。


 

『悪の論理』の論理


 しかし日本においては事情が異なります。
 戦中に刊行の相次いだ地政学関連の書籍や論文は、戦後になるとピタっと姿を消してしまうんですね。

 しかし学界におけるタブー化に一石を投じ、1970年代に地政学を一躍大衆化させることに貢献したのは、|倉前盛通《くらまえもりみち(1921〜91)の『悪の論理―地政学とは何か』(1977年刊行、1980年文庫化)、『新・悪の論理―変転する超大国のゲオポリティク』(1980年刊行、増補1985年)以降の連作でした。

 この倉前氏の専門はもともと工学。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年、コトバンク)によれば、「宮崎工業専門学校(現・宮崎大工学部)助教授を経て、昭和35年ソ連に渡りソ連研究を始める。 そのレポートや講演が認められ、39年アジア経済研究所に入り、シベリアの地下資源開発の研究を12年。地政学に目覚め、「国家も生きもの、日本の地政学は海軍強化にあり」と説き数々の警告を放つ。亜細亜大学教授を務めた。」とのこと。昭和42年より文筆活動を開始し、「地政学」理論を用いた時事解説で大当たりすることとなります。

 倉前の論調は、基本的に国際情勢はイデオロギーによって動くのではなく、地政学の各理論を信奉する国家戦略(あるいはそれを背後で支持する国際ユダヤ資本などの組織)によって動かされてきたというものです。

  • 米ソの覇権構想をふくめ歴史上の国際関係は、ドイツやアメリカの古典的な地政学の法則にのっとって展開されてきた。

  • にもかかわらず、共産主義や資本主義といったイデオロギーが、事の本質を曇らせてきた。しかし本当は、ソ連は表向きではマルクス・レーニン主義をとっているが、裏面ではマッキンダー理論を信奉しているのだ。


 結果的に倉前は、これからの日本は海洋に目を向けるべきだと警鐘を鳴らします。
 そのためには、スパイクマンの理論を重視し、日本は戦略的にリムランド(下図を参照)を制するべきだと主張するのです。

 そのためには日本はアメリカとの同盟関係を保ち、シーパワーを充実させ、ソ連の進出に備えるべきだということになります。

倉前の筆致は、公然と”言ってはいけない” 本音を暴露するスタイル。


 倉前の主張はあやふやな情報源によるものも少なくなく、実証的であるとは言い難いものでした。
 にもかかわらず『悪の論理』がひろく受け入れられた背景には、1970年代の一連の国際情勢の激変が、人々に「イデオロギー」基づく国家関係は一夜にしてもろくも崩れ去るものだ」との認識を強く植え付けていたことが大きいでしょう。

 さらに当たり前のことを付け加えるようですが、地政学のいわばハウツー本がこれだけ売れたという事実は、それだけ人々のあいだに地政学的な想像力がひろまっていたということでもあります。

 



 その際、倉前の紹介する「地政学」は、簡単にひっくりかえりうる国際関係を、どんなに時間が流れてもそう簡単には変わらない「地理的ファクター」によって説明してくれる盤石な処方箋と映ったわけです()。

)人間社会の変転を超えて、「どんなに時間が流れてもそう簡単には変わらない」ものがあるという「長期的な思考」の萌芽が1970年代にあったことについては#29「「長い目」で世界史を見る」を参照。



交易国家論の展開


 倉前からさかのぼること10数年、「海洋」への注目を政策提言した国際政治学者がいます。
 以前も紹介したことのある高坂正堯です。
 「海洋国家日本の構想」(初出1965、1970刊行)において、はやくから島国の日本は「海洋国家」として戦略的に平和的発展を目指すべきであると論じました。

 ここでもやはり、彼がどのような「世界史」認識をもっていたのかに注目してみましょう。

***

世界史の海


 「海洋国家日本の構想」には「世界史の海」という小見出しがあります。

 ここで高坂は人類の歴史におけるコミュニケーションの有力な手段としての「海」に注目するのですが、おもしろいのは彼が「海」という言葉を海洋に限定せず、草原(ステップ)や砂漠にも用いていることです。


 陸の上ならば、道路がなければ動くことはできない。しかし、海はさえあれば、ステップはウマ、砂漠はらくだがありさえすればいい。
 だから、いくつかの異なった国と文明の連関から構成される世界が、まず地中海の沿岸に生まれたことは当然のことであったかも知れない。地中海は史上最初の世界史の海として現われたのである


防衛研修所「海洋国家日本の構想」 (読書資料 ; 12-41)、1964年より



世界史的なコミュニケーションにひきずりだされた日本


 そして、日本はといえば、蒙古襲来などの突発的事件を除けば、こうした「世界的なコミュニケーション」の蚊帳の外に安住する「隠れ座敷」にすぎなかった。
 そんな日本が世界大のコミュニケーションに組み込まれることとなったのは、「新航路の発見」がきっかけでしたが、その後江戸時代には「鎖国」に転じてしまう。
 ようやく西欧の脅威が日本に迫ってくるのは幕末以降のこと。この頃から世界的なコミュニケーションの舞台としての「世界史の海」は、大西洋を中心とするイギリスから、アメリカを中心とする太平洋に転換しつつありました。
 日本が中国と異なり近代化を果たせたのは、この欧米の接近を、正しく早期に脅威として受け取ることができたためであるとします(上掲、56-57頁)。


高坂正堯とマッキンダー


 春名展生は、高坂の『海洋国家日本の構想』が、戦前からの日本の地政学研究や、「近代地政学の祖」とされる地理学者・探検家であったマッキンダーの所論から引き出されたものであることを指摘しています(春名展生2020)。

 マッキンダーという人は、必ずしも体系的な学問領域をたちあげようとしていたわけではなく、帝国絶頂期の大英帝国にあって、イギリスの国家戦略に対する政策提言をおこなった人物です。
 しかし「ハートランド」「閉鎖海クローズド・シー」「内側/外側の三日月地帯」「東欧を制するものはハートランドを制する。ハートランドを制する者は世界島ワールド・アイランドを制する。世界島を制するものは全世界を制する」といったキャッチーな概念をいくつも唱えたことで、それらが地理的環境と政治・軍事を考察する際の重要概念と考えられるようになっていった面があります。

 「歴史の地理回転軸」(1904年)という論文で次のような世界史の構成をとっていたことで知られます。

歴史の地理回転軸 1904年
  • 第1期「前コロンブス時代」
     オリエント地域からのヨーロッパへの拡張が中心
     機動力=馬
     ランド・パワー優位

  • 第2期「コロンブス時代」≒発見の時代(大航海時代)
     スペインやポルトガルなどの西欧諸国の海外拡張
     機動力=船
     シー・パワー優位

  • 第3期「脱コロンブス時代」
     大英帝国の衰退期に重なる
     機動力=鉄道
     ランド・パワー優位

 この論考を刊行した当時、マッキンダーにとっての脅威は建艦競争の対手であるドイツと、中央アジアのグレート・ゲームで対立していたロシアでした。
 マッキンダーは、こうした東欧の諸勢力による圧迫がヨーロッパの歴史に重大な影響を与えてきたとの歴史観をもっており、この東欧を制するためには鉄道を重視し「ランド・パワー」に注力すべしと説いたわけです。

 機動力(=交通の技術)の変遷によって世界史を構成し、前近代における騎馬遊牧民の(ヨーロッパにとっての)脅威を強調するのは、その後のマクニールの世界史にも通ずるところがありますね()。

中軸地域(のちハートランドと呼称)と、内側の三日月、外側の三日月(出典:"The Geographical Pivot of History", Geographical Journal 23, no. 4 (April 1904)、Public Domain, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Heartland.png)。

 「コロンブス時代」はその名のとおり、地理上の発見の時代でした。マッキンダー自身も探検家としてアフリカなどを渡り歩いた経験をもちます。
 しかし今や「脱コロンブス時代」となり、発見されるべきフロンティアはピアリの到達した北極(1909)、アムンセンの到達した南極(1911)を残すところとなってしまった。世界のどこにいっても、もうフロンティアは見当たらない。
 もはや空き地のなくなった世界において、この後予想される展開は、限りあるパイの奪い合いです。
 そんな当時の世界をいいあらわした「閉鎖空間」という用語は、膨張主義的な為政者がその野心を語り、国民の不安をかきたてるには十分すぎるほどよくできた言葉でした。


西洋における騎馬遊牧民の脅威の強調は20世紀後半まではデフォルトでしたから珍しいものではありませんが、軍事や交通技術の変遷という視点から覇権のうつりかわりを世界大で見渡した点はマクニールにも少なからぬ影響を与えていると推測されます。
 マッキンダーは上掲書で「蛮族の外的圧力を受けたからこそ、ヨーロッパは文明を獲得できたのだ(…it was under the pressure of external barbarism that Europe achieved her civilization)とまで述べています。


高坂の「脱亜」的戦略

 こうした世界観・世界史観を踏まえ、高坂が展開したのはアメリカの海軍力を味方につけつつ、貿易によって資源の不足を補いながら大きな人口を活用する「通商国家」としての国家戦略でした。

 本当にそんなことができるのか?

 ヒントは歴史にあるとして高坂が挙げるのは、イギリスと日本の共通点です。
 イギリスはヨーロッパでありながらヨーロッパの外に活路を求めた。日本もしかり。「日本も中国を中心とする東洋に隣り合ってはいるが、しかし、その一部ではない」(上掲、66頁)。
 中国が復活しつつある時代にあっては、日本が中国と同じになるのではなく、独自の立場をとる必要があると主張します。

 日本を西欧にひきつけ、アジア(=中国)を遠ざける議論の立て方は、先行する梅棹忠夫とよく似ていますね。

 

比較文明的な視点への注目


  • アジアの時代、日本の時代を語るには、より大きな視野で「文明」について語る必要がある。

  • そのためには、カネの動きだけをみていてはわからない。背後にある深い異文化理解が必要だ。

 すでに1970年代には「ユダヤの商法」をテーマとする著作が、商社に勤務する男性の筆によって世に出るようにもなります。『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン、1970年)も、ユダヤ人理解の体裁をとりつつ、日本人の意思決定のあり方を文化論的に考察するものでした。

 海を超えて国際的なビジネスに参入するためには、日本人の良い「本質」を生かしつつ、島国根性を捨てて異なる文明ともうまく交わっていくことのできる、新しい「日本人らしさ」を模索するべきだという要請も、政界・ビジネス界で高まっていました。

 人々の関心を、文明や文化という目には見えないコンテクストの解読へと向かわせたのは、社会主義体制の揺らぎも関係していると思われます。

 経済構造=下部構造を唯物的に見るマルクス主義の見方は、とうに失効している。
 社会主義や資本主義というイデオロギーではなく、各民族・各地域で歴史的に形成されてきた文学・芸術・思想・哲学の理解に努め、相手の文明のよって立つ「基層」を深く知り、相互に比較するところからはじめるべきだ、というわけです。
 
 実は、「国際化」が必要だという議論、世界史を必修化するべきだという議論も、まさにこうした動向の中から生まれ落ちてくることになります。
 そのことについては、1980年代において詳しく見ていくことにしましょう。




参考文献(本文に記載のないもの)

・奥山真司『地政学』五月書房、2004年。
・小野寺史郎「戦後日本の中国史研究における「近代」」、山室信一、岡田暁生、小関隆、藤原辰史編『われわれはどんな「世界」を生きているのか――来るべき人文学のために』ナカニシヤ出版、2019年
・曽村保信『地政学入門』中央公論社、1984年。
・庄司潤一郎・石津朋之『地政学原論』日本経済新聞出版、2023年。
・高木彰彦「地政学に関する覚書—地政学概念の変遷をめぐって」『茨城大学教養部紀要』25、395-407頁、1993年、http://hdl.handle.net/10109/9946
・春名展生「「大東亜共栄圏」から「海洋国家」へ―地政学の断絶・継承と高坂正堯」東京外国語大学 国際日本学研究東京外国語大学大学院国際日本学研究院、2020年、https://cir.nii.ac.jp/crid/139029069979419660810.15026/94467


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