歴史の扉 No.16 日本茶の世界史
かつてイギリスでも緑茶が飲まれていた
日本茶のヨーロッパへの輸出は古くはオランダ東インド会社にさかのぼる。取り扱ったのは嬉野茶で、平戸から積み出された。
ヨーロッパというと今では紅茶緑茶というイメージが強いが、当時「茶」といえば緑茶が主流だったのだ(影踏丸さんの記事を参照されたい)。
オランダが平戸から積み出した嬉野茶も緑茶だ。1557年にマカオに居住権を手に入れたポルトガルも、ここで中国商人から中国産の緑茶を買いつけていた。オランダはポルトガル経由で中国産の緑茶をヨーロッパに持ち込んでいる。
オランダに対抗するようにして、イギリスはインドに拠点を建設していた。しかし当時のインドではチャノキは発見されておらず、イギリスはオランダを通して茶を買い付けるしかなかった。
この時期のイギリスがオランダと三度戦火を交えたのも、世界貿易をめぐる対立が背景にある(英蘭戦争)。イギリスは戦争を有利に進め、イギリス東インド会社は1669年に中国の厦門(アモイ)から直接茶を輸入することに成功する。厦門から積み出されたのは半発酵茶の烏龍茶の一種「武夷岩茶」(ぶいがんちゃ)だ。
この武夷岩茶が緑茶とならぶ定番のお茶となった。
では紅茶はいつ登場するのだろうか?
イギリスの上流階級は、脂っこい肉料理を好んで食べた。このため消化を助けるウーロン茶が好まれるようになっていく。そこで開発されたのが、ウーロン茶よりも次第に発酵度を上げた紅茶(政和工夫紅茶)だ。製法が明らかになるとイギリス人は植民地だったインドやセイロンでの生産をのばし、紅茶の消費量も右肩上がりに。
イギリス人の紅茶好きは、ここにようやく始まるのだ。
当初は中国茶の「かさ増し」のために使われた
欧米向けの日本茶輸出が本格化するのは、幕末のことだ。1858年、日米修好通商条約が結ばれ貿易が始まり、翌1859年に横浜、長崎、箱館が開港。日本茶の輸出が始まった。
1867年にはサンフランシスコと日本、香港を結ぶ太平洋航路が始まり、1869年にはアメリカに大陸横断鉄道が開通し、太平洋岸からの輸入が増加した。
輸出向け茶の産地として注目されたのは静岡だ。特に静岡の北部の足久保茶は、江戸時代から徳川家に献上されており、高いブランドを誇っていた。
とはいえ当時の日本茶には、欧米市場で受け入れられるだけの知名度はなく、中国茶のかさ増しとしての役割が主だった。太平天国の乱(1851〜62)によって中国からの茶の輸出がむずかしくなったため、日本茶でその穴を埋めようということになったのだ。
坂本龍馬と関わりがあったことで知られるグラバーも、茶をとりあつかったことで知られる。当時の外国貿易は開港場(かいこうじょう)に設けられた居留地でおこなわれており、生糸や蚕卵紙が花形商品だった。
日本人商人から外商に転売された茶は、居留地の工場で再製される。「再製」とは、輸送中の腐食を防ぐために鉄釜や竹籠で茶葉を再乾燥する火入れ、艶出しのための着色工程のことだ。グラバーも居留地に再製工場を持っていた。ちなみにグラバーの邸宅の一角にあるオルト邸も、茶をとりあつかったオルト商会のオルトの屋敷だ。横浜でも、イギリスのジャーディン・マセソン商会が茶を取り扱っていた。現在はシルク博物館となっている場所にあった「イギリス壹番館」の名で知られ、1934年まで営業していた。
こうした外商に良質な茶を売り渡して財をなした日本人もいる。伊勢問屋の大谷嘉兵衛のような仲買人だ。太谷はスミス・ベーカー社に雇われ、大阪〜横浜に良質な茶を運んでいる。
当時の日本茶は中国式を真似た花の図柄のラベルが特徴で、中国式の日本の緑茶といったほうがよい代物だった。なかには着色を施さないサンドライドという輸出茶もあった。「無着色」を売りとした日本茶もあったが、中国の製法と同じくプルシアンブルー(有毒)によって見栄えを良くしようとしたのがあだとなり、のちに日本茶がインドやセイロンの紅茶に敗北することとなる。
そういうわけで、静岡産の茶は、いったん横浜に運ばれ、そこから欧米へと積み出された。この回漕に清水港発展の商機を見出したのが、幕末明治の侠客としてしられる清水次郎長だ。
博徒としてのイメージが強い次郎長だが、明治に入り博打から足を洗うと、1874年には富士南麓(現在の富士市大渕)を静岡の刑務所の囚人をもちいて開墾し、清水港から輸出する産業発展に目をつけ、清水港の拡張を推進。さらに外国貿易を見据えて英語の私塾を後援している。
1882年には、横浜の回漕業者と清水の廻船問屋・茶商と掛け合い、開運会社である静隆社を設立。こうしてみると次郎長はたんなる時代遅れの任侠ではなく、先見の明あふれるイノベーターとしての側面も浮かび上がる。
さて、時あたかも1880年代のアメリカでは中国人排斥がヒートアップし、相対的に日本茶のブランドを引きあげ、日本茶の輸出を刺激することにつながった。ちなみに、アメリカでの茶の飲み方は日本とはまるで異なる。牛乳と砂糖を入れて飲むというものだった。さすがはコーヒーの国である。
清水からの輸出が始まる
次郎長の尽力した清水から横浜への茶の回漕。これにライバルとして立ちはだかったのは、1889年の東海道本線開通だ。鉄道が茶の輸送を担うようになれば、清水港の役割が低下してしまう。そこで清水の商人らがかけあって、1899年に清水港が開港場に指定される。こうして、輸出貿易が可能になった。1906年、清水港からの日本茶の輸出が始まる。
茶葉の再製工場も1905年に誘致され、日本郵船株式会社と交渉し、1906年には同社の神奈川丸が清水に寄港するようになった。こうして同年、茶の直輸出がはじまった。現在につながる国際貿易港としての清水港の歴史のルーツはここにある。
清水港は1908〜1914年にかけて第1次修築工事、1921年には第2次修築工事がおこなわれた。国鉄清水港線清水港駅に木材積込用に建設された鉄道施設テルファーはも業遺産として今も保存されている。
静岡市内には茶商が並び立ち、茶の輸送のための鉄道も敷設された。現在市内を走る静岡鉄道の前身だ。
なお、茶商のひとつアーウィン・ハリソン・クロスフィールド商会の日本支配人として1918年に来日したマッケンジーの邸宅は、現在「マッケンジー邸」として一般公開されている。この邸宅は日本各地に洋風建築を多数残したことで知られる建築家ヴォーリズの設計だ。1951年にマッケンジー氏が亡くなった後も、夫人が私財を投入して福祉事業に尽力したことで知られる。
ジャポニスムと蘭字
日本の茶輸出と切っても切れない関係にあるのが「蘭字」だ。
生糸や茶のパッケージに貼り付けられた多色木版画によるラベルのことで、芸者や福助、牡丹や富士山といった日本的なイメージが添えられた。
かつて紅茶が中国趣味(シノワズリ)としてヨーロッパで消費されたように、日本茶もまた日本趣味(ジャポニスム)の流行に支えられた面があったのである。
洗練されたデザインの多い蘭字が静岡でつくられた背景には、江戸時代の伝統もあった。徳川家康が晩年に金地院崇伝や林羅山に命じて出版させた銅活字版「駿河版」の影響もあり出版文化が盛んで、錦絵をつくる職人も多く集まっていた。茶ラベルの輸出がさかんになると、他地域から浮世絵の職人が呼び寄せられた。
蘭字研究者の井手暢子氏は、蘭字を「日本近代グラフィックデザインのはじまり」と位置付けている。
浮き沈みする日本茶輸出
日本茶の輸出量が最大となったのは、第一次世界大戦が起きた時期だ。イギリスの植民地における紅茶生産が減少したため、それに代わって日本茶の輸出量が最大になったのだ。
しかし、第一次世界大戦後にはまた低迷してしまう。
日本茶業界は「日本茶にはビタミンCが多く含まれており健康によい」とする三浦政太郎(『蝶々夫人』で知られる三浦環の夫)の説を用いて、緑茶輸出を伸ばそうとした。しかし、アメリカ農務省がこれを否定する宣伝をおこない、北米での販売量は減少してしまう。
そこで1920〜1930年代にかけてソ連、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、アフガニスタンに向けての茶輸出増加が試みられた。北アフリカに18〜19世紀に茶を持ち込んでいたはイギリスだ。ただし、日本のような煎茶ではなく、中国式の釜炒り茶が消費されていたから、相手国の需要に合わせる必要があった。そこで、ぐるぐるっと丸まった中国のハイソン型緑茶にならった玉緑茶(たまりょくちゃ、グリ茶)が開発されたのだ(清水港湾博物館2017 : 53)。
現在もグリ茶を生産している伊東市のぐり茶の杉山によれば、次のような経緯があったようだ。
しかしその後の日本茶輸出も世界情勢に翻弄される。
第二次世界大戦に敗戦した日本に対して連合国は、援助物資を供給する代わりに、日本茶の輸出を要請することとなった。輸出先は、連合国の植民地が多かった北アフリカや中東だ。
これらの地域にはすでに戦前から輸出が試みられていた。いずれも乾燥した気候で、お茶が貴重なビタミン源となる地域だ。
北アフリカや中東向けの戦後の蘭字は日本的なイメージはおさえられ、相手国の要望に合わせ、アラビア語やフランス語、さらに『アラビアンナイト』のようなオリエンタルなモチーフが増えていった点が注目される(上掲2017 : 12)。
再評価される日本茶
茶の消費量は日本国内でも減っていった。代わって1970年代初め以降に注目されたのがウーロン茶だ。ピンクレディーがテレビ番組でダイエットに良いと発言したことが流行に火をつけたとしばしば紹介される。
これに対し、中国茶評論家の工藤佳治は、それだけでなくハンバーガーなど日本人の食生活が欧米化し、脂っこいものの消費が増えたことが要因と指摘する。
脂っこい料理を打ち消すように消費されたものが烏龍茶だとするならば、健康志向が本格化する21世紀に再評価された飲料こそ、緑茶にほかならない。しかも今やグローバルな規模で「Matcha」や「Japan Tea」が注目されている。
歴史学者角山栄の指摘したように、日本茶は幕末明治期に紅茶とのブランド競争に敗れた。
もちろん緑茶の生産自体も、世界的な価格競争は熾烈なものとなっているが、国内的にはペットボトル入り緑茶飲料の発明(1990年)によって、緑茶は全年齢的な復権を遂げたといってよいだろう。しかも、ペットボトル入り緑茶は、甘味料の有無という違いはあれど、今や東アジア・東南アジアで広く飲まれている。
蘭字はかつて、欧米人の抱く日本像に合わせる形で、たくみなイメージ戦略を担い、日本茶輸出に貢献した。アジアやアフリカの台頭する21世紀にあって、「日本茶」はどのような変容を遂げていくのだろうか。
参考文献
・角山栄(2017)『茶の世界史—緑茶の文化と紅茶の世界』(改版)中央公論新社(初版1980年)
・清水港湾博物館(2013)『特別展 明治の海外輸出と港』
・清水港湾博物館(2017)『蘭字—日本の輸出茶ラベル』
・ロバート・ヘリヤー(2022)(村山美幸・訳)『海を越えたジャパン・ティー:緑茶の日米交易史と茶商人たち』原書房
・吉野 亜湖ほか(2017)「茶業産業遺産としての輸出茶用ラベル「蘭字」の研究 : 戦後の展開について、新発見の資料から」『静岡産業大学情報学部研究紀要』19巻、p. 53-80、https://shizusan.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1372&item_no=1&page_id=25&block_id=75
追記: 一部修正2023/07/17 19:30
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊