西洋における緑茶の歴史
欧米において茶といえば、紅茶 (black tea) が一般的なのはご承知の通り。近年は健康志向のために緑茶 (green tea) の使用も増えつつありますが、しかしそれ以前に西洋でも長く緑茶が嗜まれていた歴史があることは意外と知られていないかもしれません。
ヨーロッパへの茶の導入
ヨーロッパの文献で最初に茶に言及したものはジョヴァンニ・バッティスタ・ラムジオ(1485-1557)の『航海と旅行記 Navigationi et Viaggi』(1550-1559) です。これにはペルシアの商人の話として Chiai Catai という薬草についての記述があります。
これが茶のことなのは疑いありませんが、あくまでも伝聞に過ぎません。実際に自ら茶を体験したものとしては、その後、ガスパール・ダ・クルスの『中国史』(1570) 等、イエズス会の宣教師による報告が見られるようになります。当時ヨーロッパの住人が茶を飲むには中国や日本まで行く必要がありました。
1610年にオランダ東インド会社は、日本の平戸からアムステルダムに茶を運んでいます。これがおそらく最初にヨーロッパに輸入された茶であると考えられています。つまりヨーロッパに最初に現れた茶は日本茶であり、当然緑茶であったでしょう。
一方、モスクワの宮廷にも1618年に中国からの贈答品として陸路で茶がもたらされています。しかしながら、当時のロシア人は茶に興味を示さなかったようです。
ボヒー茶
17世紀中にヨーロッパにおける茶の需要は急速に拡大していきますが、初期には日本茶であれ中国茶であれ、基本的にすべて緑茶であったと思われます。ヨーロッパでは茶に砂糖やミルクや香辛料を入れて飲む習慣が生まれますが、これも緑茶で行われたことでした。
1660年代にイギリス東インド会社は中国南部の厦門に拠点を構え、中国茶の貿易を始めました。イギリス人は「茶」の閩南方言の発音 te に基づいて、茶のことを tea と呼ぶようになります。
茶を指す言葉は世界的に見ると、一般に中国から陸路で茶が運ばれた地域では cha 系、海路で運ばれた地域では te 系の名称が用いられているようです(日本も海路ではありますが)。
紅茶や烏龍茶のような発酵茶は、16世紀頃にこの地方の茶の名産地である武夷山で生まれた新しい特産品でした。当時の武夷茶は発酵度の比較的低い、烏龍茶のような半発酵茶であったと思われますが、ヨーロッパ人はこれをボヒー茶 (Bohea) と呼びました。
ジョン・オヴィングトンの著書『An essay upon the Nature and Qualities of Tea』(1699) には茶の種類の一つとして Bohe が挙げられています。
オヴィングトンの茶の製法の理解は不正確とはいえ、この Bohe は発酵茶を指していると思われます。
ボヒー茶は中国では一部の地域だけで飲まれるマイナーな茶でしたが、イギリス人はこれを好んで輸入するようになります。その理由としては、長い航海でも品質が劣化しにくいこと、ミルクを入れる飲み方に合うことなどの他に、緑茶に比べて偽造が難しかったからとも言われています。
18世紀のイギリスでは茶の流行とともに粗悪品も多く出回っていました。他の植物の葉でかさ増ししたり、出がらしを乾燥させて混ぜたり、古い緑茶をミョウバンや羊の糞で色を良くしたりもしたそうです。これに対しボヒー茶の赤褐色の水色は他のもので再現するのが難しかったようです。
ともあれボヒー茶が人気を得たとはいえ、すぐに緑茶を駆逐したわけではありません。
1786年のイギリス東インド会社の茶のカタログでは、緑茶が総量の30%ぐらいを占めています。
18世紀のティーキャディには、大抵茶葉を保管する場所が2つ設けられていますが、これは緑茶用とボヒー茶用で分けているのです。両者を好みの比率でブレンドして淹れることも一般的でした。
ボストン・ティーパーティー事件
1773年12月16日にボストンで、イギリス東インド会社の船が襲撃され、積み荷の茶が海に投げ捨てられたという、このアメリカ独立戦争のきっかけとなった有名な事件の詳細については省きますが、さて、この時海に消えたのはどんなお茶だったのでしょう。
この時イギリス東インド会社の3隻の船には、Bohea 240箱、Singlo 60箱、Hyson 15箱、Souchong 10箱、Congou 10箱が積まれていました。この内 Souchong と Congou はボヒー茶の一種で、Singlo と Hyson は緑茶です。20%ほどは緑茶だったわけですね (https://www.bostonteapartyship.com/tea-blog/types-of-teas-destroyed)。
前にも出てきたこの Singlo とは、松蘿茶のことで、安徽省の黄山山系の松蘿山に産する緑茶です。松蘿 Sunglo がなまって Singlo になったと考えられています。
Hyson は熙春茶です。浙江省の平水が産地の平水珠茶の別名で、康熙帝に貢納されていたためこの名があります。これも中国名がなまったものと思われますが、イギリスの茶商のフィリップ・ハイソンに由来するという説もあります。
珠茶は揉捻によって茶葉が丸く珠状になっているのが特徴で、その形が炸薬に似ているため「ガンパウダー」とも呼ばれます。中東やアフリカなどでは今もこれが一般的な緑茶です。
マグレブのミントティー
18世紀から19世紀にかけて、モロッコやアルジェリアなど北アフリカのマグレブ地域に、イギリスによって中国の緑茶がもたらされました。
この地域では現在もミントを加えたガンパウダー茶 أتاي atay が飲まれています。その淹れ方はかなり独特のものです。
ポットに緑茶を入れ、少量の湯を注いで1煎目は捨てる。あるいは1煎目はとっておき、2煎目を捨て、1煎目をポットに戻す。
ポットにあらためて湯を入れ、火にかけて茶を煮出す。
生のミントと砂糖の塊をポットに投入し、高い位置からグラスに茶を注いで、またポットに戻すことを繰り返して供する。
アッサムの茶樹
イギリスは中国から茶を大量に輸入しましたが、逆に中国に輸出できる産物はあまり無く、代価はほとんど銀で支払っていました。そのためイギリスでは深刻な銀不足に陥り、銀食器を作るにも事欠く始末。それでインドで作った阿片を売ることを思いつくわけです。
一方、カリブ海や南米では茶に入れる砂糖を生産するために、アフリカから強制的に連れてきた奴隷が酷使されていました。茶は世界規模で多くの悲惨を生み出しています。
ともあれ、中国に頼らず茶の供給を自国の植民地で賄うことはイギリスの悲願でした。中国から密輸した茶樹の苗をインドで栽培することが試みられますが、気候が合わず難航しました(後にそれはダージリンで成功を収めます)。
1823年、イギリス東インド会社のロバート・ブルースが、アッサム地方で自生の茶を利用している原住民を発見しました。彼らは雲南の少数民族である景頗族の一派で、ミャンマーやアッサムにまで居住域を広げていたのです。
雲南はチャノキの原生地と考えられている所です。そこでは最も古くから茶が利用されてきました。アッサムの景頗族の茶の利用法も原始的な形態を留めるもので、煮出して飲み物とするだけでなく、油や大蒜で調理して食べ物にもしていました。
彼らが利用していた自生のチャノキを使えば、インドでの茶の栽培がかなうと期待がかけられます。しかしながらこれが中国茶と同類のものなのか、ただのツバキではないのかという疑いもあり、事はなかなか進展しませんでした。
この現在アッサム種とも大葉種ともいわれる Camellia sinensis var. assamica は雲南にも自生しており、これから約22000年前に中国種 Camellia sinensis var. sinensis が分岐したものと考えられています。
1838年、初めてアッサム種から作られた茶がロンドンに届きます。この最初のアッサム茶は緑茶でした。アッサムの緑茶の質は中国茶には及びませんでしたが、オークションでは植民地初の茶ということから人気を呼び、かなりの高値がつきました。
紅茶の誕生
阿片戦争で中国が惨敗して1842年に南京条約が結ばれると、イギリス人はついに茶の聖地たる武夷山にまで侵入するようになります。そしてようやく「緑茶もボヒー茶も製法が違うだけで同じ茶樹から作られる」ということを知りました。
そこでイギリス人好みのより発酵度の高い強い茶を製造するように働きかけたことで1851年に誕生したのが、紅茶の元祖と言われる政和工夫紅茶です。紅茶の製法はすぐにインドに伝えられ、安価な植民地産の紅茶が一般化すると、イギリスでは中国の紅茶や緑茶は例外的な贅沢品となっていきます。
アメリカの日本茶
そのころ日本には黒船が来襲し、鎖国が終わりを告げて対外貿易が復活すると、茶は重要な輸出品目の一つとなりました。
「蘭字」と呼ばれる輸出用の茶箱に貼られていたラベルは、キッチュなデザインが魅力的です。
日本茶の主な輸出先はアメリカ合衆国でした。コーヒーの国のイメージのあるアメリカですが、意外とお茶、それも緑茶が用いられていたのです。
アメリカではどのように緑茶が飲まれていたのでしょうか?
古典的名著『All About Tea』(1935) の著者、W.H.ユーカース (1873-1945) の1925年の来日時講演会記録によると、当時のアメリカで緑茶を飲んでいたのは主に高年齢層の農民で、その飲み方はというと「茶葉を煮立たせてそこにミルクと砂糖を入れ、コーヒーのマグカップで飲む」というものだったそうです。
茶を海外輸出するにあたっては、輸送時の品質劣化を防ぐため火入れをする必要がありました、これを再製といいます。
問題は、このとき茶葉の見栄えをよくするためにプルシアンブルーなどで人工的に着色が行われていたことです。これが後に非難の対象となり、粗悪品が横行したこともあって、やがてアメリカにおける日本茶のシェアは縮小し、インドやセイロンの紅茶が席巻するようになります。
グリ茶
1920年代、ロシアでは革命による混乱から茶が不足しており、ちょうど茶の輸出不振に陥っていた日本に茶を求めます。
ロシアで緑茶が主に飲まれていたのは、当時のロシア領中央アジア地域で、そこで用いられているのはガンパウダーなどの中国緑茶です。中国の緑茶は釜炒り茶であり、蒸し茶である日本の煎茶は現地の嗜好に合わず、中国茶に混ぜてかさ増しするのに用いられました。
なら中国茶と同じものを日本でも作ればよいわけですが、明治時代に制定された茶業組合規則では釜炒り茶は粗悪茶の一つとして製造が禁止されていたのです。
そこで苦肉の策として釜炒り茶風の蒸し製緑茶が開発されました。これは玉緑茶と名付けられましたが、一般にグリ茶と呼ばれました。
ロシアへのグリ茶の輸出は順調に進み、1930年代に輸出量は4000tを超えました。グリ茶はさらに中東や北アフリカなどにも輸出されるようになり、中国茶の市場に割り込んでいきますが、しかし結局本物の中国茶には敵わず、1960年代にはグリ茶の輸出は衰退していきました。
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