影踏丸

音楽史を書きます

影踏丸

音楽史を書きます

マガジン

  • 鍵盤楽器音楽の歴史

最近の記事

『アジア横断自転車旅行』(1894)その4:アララト山、後編

前編から続きます。  我々は四時に起床したが、七時になってもまだ宿営地に居た。ザプティエの紳士たちが安らかな眠りから覚めるまで二時間が消えた。それから特別な朝食を食べるのにかなりの時間が浪費された。我々はエクメクとヤウルト(吸い取り紙パンと凝乳)で我慢しなければならなかった。それが終わると、彼らは重い軍靴の代わりのサンダルがないと先に進まないと言い張った。つまりこの地点で馬を降りる必要があったからだ。それをクルド人に作らせると、今度は武装したクルド人十人が同行しなければ行く

    • 『アジア横断自転車旅行』(1894)その3:アララト山、前編

      前回はこちら。 第二章:アララト山登頂 伝承によれば、アララト山は人類史上最も重要な二つの出来事の舞台である。アルメニアの伝説によれば、この山の麓にあるというエデンの聖地で、最初の人類が誕生し、そしてその孤高の頂において、全てを滅ぼす洪水から人類の最後の生き残りの命が救われた。この山の特筆すべき地理的位置は、アララト山が世界の中心であるとするアルメニア人の見解を正当化するかのようである。アララト山は喜望峰からベーリング海峡に至る旧世界を貫く最長線上に位置している。またジブラ

      • 『アジア横断自転車旅行』(1894)その2:カイセリ、スィワス、エルズルム

        前回の続き。  四月二十日の正午ごろ、我々の道は突然スミルナからカイセリまで延びる広い交易路へと変わった。そこはカイセリの西約十マイルであった。長いラクダのキャラバンが威厳を持ってその道を進んでおり、先頭には小さなロバにデヴェデジー(ラクダ使い)が乗っていて、足はほとんど地面に届きそうだった。その頑固で知られる生き物は、我々が横に並ぶまでは微動だにしなかったが、突然その特徴的な横揺れをし、乗り手を地面に放り出した。先頭のラクダは抗議するように唸りながら横にずれ、その横移動は

        • 【翻訳】『アジア横断自転車旅行』(1894)

          Thomas Gaskell Allen (1868 - 1955?) と William Lewis Sachtleben (1866 - 1953) の二人のアメリカ人は、1890年から1893年にかけて自転車で世界一周旅行を成し遂げました。そのメインであるアジア横断について彼らが記した旅行記『Across Asia on a Bicycle』(1894) を訳してみようと思います。多分まだ日本語訳が存在していないはず。 御託は抜きにして、とりあえず冒頭部の訳文を。

        『アジア横断自転車旅行』(1894)その4:アララト山、後編

        マガジン

        • 鍵盤楽器音楽の歴史
          199本

        記事

          クレメンティとモーツァルト(195)

          1781年のクリスマス・イヴのこと、後のロシア皇帝パーヴェル1世と妻のマリア・フョードロヴナ(ヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテア)がウィーンを訪れていました。当時二人はセヴィニー伯爵夫妻という偽名でヨーロッパを巡る旅行中だったのです(ちなみにこの後1月にはヴェネツィアでピエタの演奏を聴くことになります)。もちろん偽名などは公然の秘密であり、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の宮廷では夫妻を迎えて盛大な歓迎会が開かれていました。 そしてその余興として、皇帝のお気に入りのモーツ

          クレメンティとモーツァルト(195)

          モンセラートの朱い本

          バルセロナ近郊のモンセラート(ノコギリ山)は独特の奇景で知られ、古くから聖地とされてきました。 伝説によれば、西暦880年のとある土曜日の日没の頃、美しい音楽とともに空から光が降ってきてモンセラートの中腹を照らすのを羊飼いの少年たちが見たといいます。次の週の土曜日には少年たちは親を連れて行き、やはり同じことが起こりました。さらには近所のオレサの町の司祭も加わって、毎週土曜日に同じく光が現れるのを確認すること四度に及びました。 この報告を受けてマンレサ市の司教がやってきて光

          モンセラートの朱い本

          【翻訳】アイルランド神話『リルの子供たち』

          14世紀に遡るといわれるこの物語は、ケルト神話の中でも最も有名なエピソードの一つでしょう。しかし日本語で読めるのは抄訳や翻案ばかり。なので定本をそのまま訳したものを作ってみました。 とはいえ残念ながらゲール語はさっぱりなので英訳からの重訳です (Eugene O'Curry 1863)。しかし特に韻文ではなるべくゲール語原文を参照しました。以下のウェブサイトで中世アイルランド語、現代アイルランド語、英語の対訳が見られます(ただし拙訳の底本より結末が少しだけ長いバージョンにな

          【翻訳】アイルランド神話『リルの子供たち』

          スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

          フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1731)の発明したピアノは、当時イタリアではほとんど普及しなかったようです。もしイタリアでピアノがたちまち大流行していたら、今この楽器はイタリアでの通称であった「マルテレッティ」と呼ばれていることでしょう。 一方ドイツやフランスではジルバーマン一族によってクリストフォリのピアノのコピー品が製造されましたが、極めて複雑で高価なため、次世代鍵盤楽器の主流とはなりませんでした。その後のピアノの歴史はクリストフォリのピアノに比

          スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

          【古典SF翻訳】ライマン・フランク・ボーム『マスターキー:電気のおとぎ話』(1901)

          『オズの魔法使い』の著者として知られるライマン・フランク・ボーム Lyman Frank Baum (1856-1919) が、20世紀最初の年に出版した少年向け空想科学小説 『The Master Key: An Electrical Fairy Tale』(1901) の紹介。 表紙の副題が縦書きなのは日本風を意図したものでしょうか。 主人公のロバート・ジョスリン少年は電気実験に熱中する科学少年で、屋根裏部屋を拠点に家中に電線を張り巡らせて母や妹たちの顰蹙を買っていま

          【古典SF翻訳】ライマン・フランク・ボーム『マスターキー:電気のおとぎ話』(1901)

          モーツァルトのレクイエムの成立史

          依頼と作曲1791年2月14日、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵(1763-1827)の妻アンナが20歳の若さで亡くなりました。伯爵は妻の好きだった小川のほとりに壮麗な墓碑を築き、そして亡き妻の命日に演奏するためのレクイエムを発注しました。 ウィーンの南西に位置するグロッグニッツのシュトゥパッハ城に居を構えるヴァルゼック伯爵は熱心な音楽愛好家で、毎週火曜日と木曜日には自邸で室内楽の演奏会を催し、自身もフルートやチェロを演奏していました。そのレパートリーとして伯爵はしばし

          モーツァルトのレクイエムの成立史

          モーツァルトとフーガ(193)

          イギリスのバッハことヨハン・クリスティアン・バッハが46歳で亡くなったのは1782年1月1日のことなので流石に遅すぎる話題ではないでしょうか。 J.C.バッハの晩年は人気が低迷しコンサートは赤字続き、さらには肺を病んで闘病生活を送り、挙句の果てには召使いに全財産を騙し盗られるなど悲運に満ちたものでした。 モーツァルトは幼時よりJ.C.バッハを敬愛し、多くを彼から学びましたが、しかしその父であるJ.S.バッハについては何も教わらなかったようです。彼が『平均律クラヴィーア曲集

          モーツァルトとフーガ(193)

          国立国会図書館の個人送信サービスで読めるクラシック音楽関連書籍

          著作権切れというわけではなく「絶版等の理由で入手が困難なもの」が対象。国会図書館に登録すれば無料でオンラインで閲覧できます。 このリストは網羅的なものではまったくなく、個人的なおすすめを紹介する程度のもの。パブリックドメインの本も少し混ざっています。 音楽史総合 D.J.グラウト 著 ほか『西洋音楽史』上,音楽之友社,1969. https://dl.ndl.go.jp/pid/12432583 D.J.グラウト 著 ほか『西洋音楽史』下,音楽之友社,1971. ht

          国立国会図書館の個人送信サービスで読めるクラシック音楽関連書籍

          モーツァルトの弾いたピアノ⑤:ペダル・ピアノとクラヴィコード(192)

          1 span = 9 inch = 22.86 cm この父レオポルトの手紙にあるように、モーツァルト愛用のヴァルターのピアノには、特注のペダル・ピアノが付随していました。しかし残念ながら、こちらはその後行方不明となり現存しません。おそらくは以下のような感じのものだったのでしょう。 ヨーゼフ・フランクという医師による1790年にモーツァルトのレッスンを受けたときの回想では、彼のペダル・ピアノについても言及されています。 モーツァルトが生前に出版したファンタジアは《ソナタ

          モーツァルトの弾いたピアノ⑤:ペダル・ピアノとクラヴィコード(192)

          モーツァルトの弾いたピアノ④:「モーツァルトのピアノ」の謎(191)

          モーツァルトが生涯で唯一所有したピアノは、ウィーンのピアノ職人アントン・ヴァルター Anton Walter(1752-1826)が1782年頃製作したもので、相続した息子のカール・トーマス・モーツァルト(1784-1858)が1841年にモーツァルテウムに寄贈しました。現在はザルツブルクのモーツァルトの生家に設けられた博物館で展示されており、演奏も可能です。 ちなみに博物館ではこのピアノの後ろに有名な姉弟で連弾するモーツァルト一家の肖像画があって、まるでこれがそのピアノだ

          モーツァルトの弾いたピアノ④:「モーツァルトのピアノ」の謎(191)

          ギロチンとピアノ(190)

          1793年10月16日のマリー・アントワネットの処刑の直後にロンドンで出版された、デュセックのピアノ組曲《フランス王妃の受難 Op. 23》第9楽章は、ギロチンの落下を表す下降音階で無慈悲に打ち切られます。 この恐怖政治を象徴する「Guillotine」なる斬首器具がパリに現れ、初めて処刑に使用されたのは、1792年4月25日のことで、この時まだ1年半ほどしか経っていません。にも関わらず、この楽譜を見るにロンドンの市民にもその名は知れ渡っていたようです。おそらく1793年1

          ギロチンとピアノ(190)

          マリー・アントワネットのピアノ(189)

          この有名な逸話は、モーツァルトの妻のコンスタンツェの再婚相手であるゲオルク・ニコラウス・ニッセンのモーツァルト伝に書かれているもので、モーツァルトに纏わる山ほどの胡乱な伝説の中では割と由緒正しいものと言えます。 1762年10月13日の午後3時から6時にかけて、モーツァルト一家がシェーンブルン宮殿にてフランツ1世とマリア・テレジアの御前で演奏を披露したことは事実で、もちろんマリー・アントワネット Maria Antonia Josepha Joanna von Österr

          マリー・アントワネットのピアノ(189)