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  • 鍵盤楽器音楽の歴史

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J.C.バッハとモーツァルト(181)

1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ Johann Christian Bach(1735-1782)の幼少時の作品(W. A 22)と見られています。 1750年7月28日に父のJ.S.バッハが亡くなった時、ヨハン・クリスティアンはまだ14歳でした。彼は異母兄であるベルリンのC.P.E.バッ

    • ソレールのファンダンゴ(180)

      「ファンダンゴ Fandango」はイベリア半島伝統のペアで踊られる三拍子の舞曲で、現在の民族舞踊としてのスタイルは地方により様々ですが、一般に八音節詩の歌を伴い、ギターとカスタネットで奏されます。 もっぱらこちらのほうが有名であるフラメンコのファンダンゴは、古典的なファンダンゴとは殆ど別物です。 ファンダンゴの起源は語源も含めて明らかでありません。北アフリカやアラブ圏由来とする説もありますが、現存最古のファンダンゴの楽譜は『Libro de diferentes cif

      • スカルラッティとソレール神父(179)

        スペイン王家は毎年秋にはマドリードの北西50kmほどに位置するエル・エスコリアル修道院に滞在するのが習わしでした。当然ドメニコ・スカルラッティもフェルディナンド6世と王妃バルバラに同伴していたはずです。 そのエル・エスコリアルの修道士にしてオルガニストであったのが、アントニオ・ソレール神父ことアントニオ・フランシスコ・ハビエル・ホセ・ソレール・イ・ラモス Antonio Francisco Javier José Soler y Ramos (1729-1783)。 ソレ

        • スカルラッティとセイシャス(178)

          ドメニコ・スカルラッティが1719年8月にヴァチカンの職を辞した後、いつどうしてポルトガルに渡ったのかは20年くらい前までは謎でした。1719年9月3日のとある日記に「スカルラッティ氏はイングランドに向けて旅立った」という記述があったため、ロンドンで賭博にはまって借金を作ったせいでポルトガルに逃げたのだという説もあったぐらいです。 現在では資料の発見によってスカルラッティはポルトガル王ジョアン5世によってリスボンの王室礼拝堂のマエストロとして招かれていたのだということがわか

        J.C.バッハとモーツァルト(181)

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        • 鍵盤楽器音楽の歴史
          184本

        記事

          ライムンドゥス・ルルスの生涯

          これの解説みたいなものです。 ライムンドゥス・ルルス(ラモン・リュイ)は1232年頃マヨルカ島の富裕な家に生まれました。マヨルカ島は長くイスラム教徒の支配下にあって、1229年に「征服王」ハイメ1世によってキリスト教圏に奪還されたばかりでした。ルルスはまだ異教の文化の色濃く残る中で育ったものと思われます。若きルルスは、後のマヨルカ王ハイメ2世の側近として宮廷に仕えて順調に出世を重ね、1257年には結婚して二人の子供をもうけています。 ルルスの人生に転機が訪れたのは1263

          ライムンドゥス・ルルスの生涯

          ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

          本稿はライムンドゥス・ルルスことラモン・リュイ Ramon Llull (1232-1315) の『アルス・マグナ Ars magna(大技法)』として知られる『究極普遍技法 Ars Generalis Ultima』の著者自身によるダイジェスト版である『アルス・ブレヴィス Ars brevis(小技法)』の全訳です。 この「ルルスの術」は、記憶術が人工記憶なら、こちらは人工思考とでも言うべきもので、コンピューターの始祖、AIの萌芽、などとして概要だけはよく紹介されているも

          ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

          これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

          自分でも何を書いたのか分からなくなってきたので。 チェンバロ曲ではなく、ヴァージナルやスピネットを含めたチェンバロという楽器自体について書いた記事のまとめです。 初期のチェンバロ 14世紀のウィーンのヘルマン・ポールによるチェンバロの発明から、最古の図像資料であるミンデンの祭壇彫刻、アルノーの図面、現存最古のチェンバロである1480年頃のウルムのクラヴィツィテリウムまで。 16世紀イタリアの特殊鍵盤 アルキチェンバロとか、半音以下に分割されたエンハーモニック鍵盤につ

          これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

          記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

          承前。 『ヘレンニウス』の記憶術の説明は、記憶術に関する最古の資料であるわけですが、その後の記憶術に関する著作の多くも『ヘレンニウス』の注釈に過ぎないといっても過言ではありません。 その中でも印刷術の普及を背景にベストセラーとなって後世にも多大な影響を与えたのが、1491年に出版されたピエトロ・ダ・ラヴェンナの『不死鳥 Foenix』です。 ピエトロ・ダ・ラヴェンナ (Pietro da Ravenna, c.1448–1508) あるいはピエトロ・フランチェスコ・トン

          記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

          記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

          キケロによれば、古代ギリシャの詩人ケオスのシモニデス(c. 556-468 BC)が記憶術を発明したのだといいます。 人間の頭は言葉などよりも空間を記憶することが得意にできています。馴染の場所を想起してみれば、どこに何があるかなどを一々意識して覚えていなくても、思い浮かべた風景の中から無意識に記憶されている細部を探りだすこともできるでしょう。実際これはかなり驚くべき能力と言えますが、かつて人間が野生の中で生きるのに切実に必要とされたものであったのだと思われます。 この人間

          記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

          18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)

          17世紀の終わり頃からイギリスでは家庭用の鍵盤楽器としてベントサイド・スピネットの製造が盛んでしたが、もちろん「ハープシコード」が用いられていなかったわけではありません。しかし17世紀までのイギリス製のチェンバロの現存例は乏しく、その実態はよくわかっていません。イギリス製のチェンバロが多く見られるようになるのは、スピネットにやや遅れ、18世紀半ば頃からの事です。 18世紀イギリスのチェンバロ(ハープシコード)製造の立役者は、バーカット・シュディと、ジェイコブ・カークマンの二

          18世紀イギリスのチェンバロ:シュディとカークマン(177)

          J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)

          これはJ.S.バッハの《ミサ曲 ロ短調》BWV 232 の最後の "Dona nobis pacem" の箇所の自筆譜です。 しかしとてもバッハとは思えぬほど音符の書き方が拙く、おまけに線がプルプルと震えています。 晩年のバッハは視力の衰えに悩まされていたと伝えられていますが、この譜面からはさらに何らかの神経障害を患っていたことが疑われます(いずれも糖尿病が原因ではないかという説もあります)。この楽譜は1749年の秋頃に書かれたものと考えられますが、自らペンがとれたのはこ

          J.S.バッハの最後の弟子、ヨハン・ゴットフリート・ミューテル(176)

          C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)

          スペインからロシアに至るまで、ヨーロッパ中を軽薄極まりないギャラント音楽が席巻していた18世紀中頃において、多少なりともシリアスな音楽が作られていたのは、主に北ドイツのプロテスタント地域、就中ベルリンのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ Carl Philipp Emanuel Bach(1714-1788)の周辺です。 彼らについては昔から「多感主義 Empfindsamkeit」という文化運動の一部であるとカテゴライズされてきました。 この Empfindsam

          C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)

          世界最初の録音について

          蓄音機を発明したのは言うまでもなくトーマス・エジソン(1847-1931)ですが、音声の記録自体は彼の発明に先行するものが存在します。もっとも、それが再び音声として再生されることは想定されていませんでしたが。 エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル(1817-1879)は、パリの科学関連の出版社に務める編集者でした。1853年か54年頃、マルタンヴィルはパリ大学医学部の生理学教授 François Achille Longet (1811-1871) の生理学の

          世界最初の録音について

          ギャラント音楽とアルベルティ・バス(174)

          18世紀半ばのバロックと古典派の間、ヴィヴァルディやバッハと、ハイドンやモーツァルトの間の時代の音楽様式、それを今日では一般に「ギャラント様式」と呼んでいます。 "galant" という語は、古フランス語の "galer" 「楽しませる」に由来し、古くは「勇敢」という意味もありましたが、17世紀頃からは主に「優雅」という意味で用いられていました。 「ギャラント」と形容された音楽家の最初の例は、実は晩年のフレスコバルディです。 生憎ながら最晩年のフレスコバルディの音楽様式

          ギャラント音楽とアルベルティ・バス(174)

          ヴィヴァルディの《四季》について

          《四季》はヴィヴァルディのヴァイオリン・コンチェルト集『和声と創意の試み (Il cimento dell'armonia e dell'inventione) Op. 8 』(1725) の初めの4曲の総称です(RV 269, RV 315, RV 293, RV 297)。ちなみにこの「四季 quattro stagioni」というタイトルは、ヴィヴァルディ本人も献辞の中で使用しているので公式名称といえるでしょう。 この曲集はチェコのモルツィン伯ヴァーツラフ (Václ

          ヴィヴァルディの《四季》について

          ヴェネツィアのピエタ慈善院と赤毛の司祭

          1335年、ヴェネツィアに着任したフランシスコ会の修道士アッシジのペテロが目にしたのは、路上に溢れる浮浪児たちでした。 彼は寄る辺なき孤児らを救済すべく「慈悲を! (Pietà !)」と訴えながら市中を歩き回って寄付を募り、やがて彼はピエタのピエルッツォ (Pieruzzo de la Pietà) と綽名されます。1340年、彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会近くの17軒の家を借りて孤児を受け入れ、これが後のピエタ慈善院 (Ospedale della Pi

          ヴェネツィアのピエタ慈善院と赤毛の司祭