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J.C.バッハとモーツァルト(181)

Notenbüchlein vor Anna Magdalena Bach (1725)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/475024

1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ Johann Christian Bach(1735-1782)の幼少時の作品(W. A 22)と見られています。

Johann Christian Bach (Thomas Gainsborough, 1776)

1750年7月28日に父のJ.S.バッハが亡くなった時、ヨハン・クリスティアンはまだ14歳でした。彼は異母兄であるベルリンのC.P.E.バッハに引き取られ、当地でチェンバロ奏者として人気を博しました。

Johann Christian Bach (Georg David Matthieu, 1750-54)

1755年の初夏の頃、19歳の彼はとあるイタリア人女性歌手と連れ立ってイタリアに旅立ちます。彼のイタリアでの動向は不明な点が多いのですが、とりあえずボローニャでマルティーニ神父に会ったことは確かです。二人はその後も度々書簡を交わしました。


ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ Giovanni Battista Martini(1706-1784)、ボローニャのサン・フランチェスコの修道士にして博識な音楽学者として知られ、モーツァルトを指導したことが取り分け有名ですが、彼は18世紀中頃のヨーロッパの主要な音楽家の大半と交流を持っており、この時代の音楽事情を語ると必ず登場する重要人物です。

Giovanni Battista Martini (Angelo Crescimbeni, c. 1770)

しかし有名な割に彼自身の作品は今日では滅多に演奏されていません。彼は主に音楽史や音楽理論に関する著作で知られていますが、1742年に出版された鍵盤ソナタ集を初めとする膨大な音楽作品を残しています。

彼のソナタはキエザとカメラの折衷的な後期バロック・ソナタの典型で、保守的であることは否めませんが、決して退屈な作品ではありません。ただ傑作と言うにはやや決め手を欠くでしょうか。

Giovanni Battista Martini: 12 Sonate d’intavolatura per l’organo e ’l cembalo (1742)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/666149

1760年6月にJ.C.バッハはミラノ大聖堂の第2オルガニストに任命され、それに伴いカトリックに改宗しました。この父祖伝来のルター派の信仰を蔑ろにする所業はC.P.E.バッハを憤慨させます。後にC.P.E.バッハはこの弟を「誠実なる老ファイトの流儀に背くもの」と一族の恥のように評していますが、実際J.C.バッハは野暮ったい兄弟たちとは隔絶した優美な歌心に富む真にギャラントな作風を身に着け、バッハの息子たちの中でも彼だけは「多感様式」の音楽家に数えられることがありません。

しかしながらJ.C.バッハはすぐにオルガニストの職務に興味を失い、オペラに注力するようになります。いくつかのアリアなどを手掛けてから、彼の最初のオペラ《アルタセルセ》 が1760年12月26日にトリノ王立歌劇場で上演されて成功を収め、続けて《ウティカのカトーネ》(1761)、《インドのアレッサンドロ》(1762)を作曲。特に《ウティカのカトーネ》はヒット作となります。彼は今や引く手数多の流行作曲家となり、ロンドンのキングスシアターからも上演作品の依頼が舞い込みました。これを受けて彼はミラノ大聖堂に1年間の休暇を申請して1762年の夏に渡英しますが、そのまま二度と戻ることはありませんでした。


The King's Theatre, Haymarket (William Capon, 1783)

J.C.バッハはロンドンでもオペラで概ね成功を収め(失敗もありましたが)、王室に接近してシャーロット王妃の音楽教師の座を射止めます。シャーロット王妃に献呈された『6つのチェンバロ協奏曲 Op. 1』(1763)の第6番の終楽章は《God save the King》に基づく変奏曲となっており、彼の最も人気の高い作品の一つです。

ドイツ出身のイタリアで人気の作曲家がイギリスで出版したフランス語の楽譜。これがギャラントというもの。

https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/112395

それからロンドンで同じ下宿に住んでいたヴィオラ・ダ・ガンバの名手カール・フリードリヒ・アーベル Carl Friedrich Abel(1723-1787)と協同で定期演奏会を始めます。アーベルはライプツィヒでJ.S.バッハに師事していたことがあり、J.C.バッハとは元々顔なじみだったのかもしれません。このバッハ=アーベル・コンサートはロンドンの社交界の人気イベントとなり、1764年から1781年に至るまで続けられました。

Carl Friedrich Abel (Thomas Gainsborough, c. 1765)

王妃の教師であるヨハン・クリスティアン・バッハ氏は、脚の間にあの子を置き、一方が数小節を弾くと、他方がそれに続け、そのようにしてソナタを丸々演奏してしまった。その目で見ていない人は一人で演奏しているものと思っただろう。

Marianne von Berchtold, Data for a biography of the late composer Wolfgang Mozart (1792)

このモーツァルトの幼少時の有名なエピソードは、1764年から65年にかけてモーツァルト一家がロンドンに滞在していた際の出来事として、後に姉ナンネルが回想したものです。別の報告では、このようにして王と王妃の御前で2時間に渡って演奏を繰り広げたとのこと("A Londres, Bach le prenait entre ses genoux, et ils jouaient ainsi de tête alternativement sur le même clavecin deux heures de suite en présence du roi et de la reine." Correspondance littéraire, 15 July 1766)。当時神童ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは8歳、J.C.バッハは30歳でしたが、二人はまさしく意気投合していた模様です。

Wolfgang Amadeus Mozart (Pietro Antonio Lorenzoni, 1763)

ちなみに偶然かこれによく似た逸話がナンネルの回想のおよそ30年前に出版されたジョン・マナリング『故ジョージ・フレデリック・ヘンデル回想録』に、ベルリン時代のヘンデルとアッティリオ・アリオスティのエピソードとして語られています。

彼はしばしばヘンデルを膝の上に乗せて、一緒にハープシコードを1時間以上にわたって弾き、少年の並外れた能力に喜ぶと共に驚いた。というのも日付から明らかであるが、この時ヘンデルは13歳を出ることはなかったからである。

John Mainwaring, Memoirs of the Life of the Late George Frederic Handel (1760)

同時代の音楽家を尽く酷評するモーツァルトにあって、J.C.バッハはハイドンと並ぶ数少ない例外でした。J.C.バッハの作風はモーツァルトに全面的な影響を及ぼしており、彼は「モーツァルトの真の音楽的父」とすら言われます。


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