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記憶術について:偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』部分訳

キケロによれば、古代ギリシャの詩人ケオスのシモニデス(c. 556-468 BC)が記憶術を発明したのだといいます。

テッサリアのクラノンの富裕な名士スコパスの家の宴席にて、シモニデスが主人を称える詩を詠んだところ、詩の作法として言葉を飾るべくカストルとポルックスについて長く言及したところがあった。そのため、約束の報酬の半分は払うが、残りは同じくお前が称えたテュンダレオスの子[カストル]に請求するが良いと意地悪く言われたのだった。

しばらくしてシモニデスに伝言があり、二人の若者が戸口に立って彼を大声で呼んでいるとのことであった。それで彼は席を立って出かけていったが、しかし誰もいなかった。そしてその時スコパスが宴をしていた広間が崩れ落ち、スコパスとその仲間たちは瓦礫に押しつぶされて皆死んでしまったのだった。遺体を埋葬しようにも、まるで区別がつかない有様であった。しかしシモニデスは誰がどこに寝ていたかを覚えていたため、彼の指示によって各々が埋葬されたと伝えられている。

彼はこの時の出来事によって、記憶を鮮明にするのに最も重要なのは配置であることに気づいたのだった。すなわち記憶を良くするには、まずある場所を選び、そして覚えておきたいことを心に描いてその場所の中に配置すればよいという。場所の中の配置は事物の順序を保存し、事物はその像によって示される。つまり場所を蝋板に、像を文字とするのである。

マルクス・トゥッリウス・キケロ『弁論家について』
https://www.laits.utexas.edu/memoria/Cicero.html
Simonide préservé par les dieux, Les Fables choisies, mises en vers par M. de La Fontaine.
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1049428h/f119

人間の頭は言葉などよりも空間を記憶することが得意にできています。馴染の場所を想起してみれば、どこに何があるかなどを一々意識して覚えていなくても、思い浮かべた風景の中から無意識に記憶されている細部を探りだすこともできるでしょう。実際これはかなり驚くべき能力と言えますが、かつて人間が野生の中で生きるのに切実に必要とされたものであったのだと思われます。

この人間の空間記憶能力は、実際には見たことのない想像上の風景であっても有効であるということが、記憶術、あるいは「場所法 Method of loci」の肝です。すなわち背景となる場所を心の中に作りあげ、そこに記憶したい事柄のシンボルを配置しておくという方法です。このメソッドは記憶したい事物そのものだけでなく、それらの配列を含めて記憶できるという点も優れています。

書字媒体が貴重で筆記を気軽に残せなかった古代西洋において、記憶術は知的職業の基本技能の一つでした。そのためキケロも記憶術を周知の事としてあまり詳しくは説明していません。古代の記憶術の詳細のほぼ唯一のソースは、紀元前80年頃に書かれた『ヘレンニウスに宛てたる修辞法 Rhetorica ad Herennium』です。これも伝統的にキケロの作とされてきたものですが、実際のところ作者は不明、ヘレンニウスというのが何者なのかも不明です。

これは現存最古のラテン語の修辞学の著作でありながら、中世以降もラテン語のテキストとして長く用いられた名著ですが、その中で「人工記憶 artificiosa memoria」こと記憶術についても一節が設けられているのです。何で修辞学で記憶術が教えられているのかといえば、修辞とは弁論のための技術であり、そして当時は原稿など無しにスピーチをしていたわけですから記憶術は重要だったのです。

Rhetorica ad Herennium, ms Vat. Pal. lat. 1459, fol. 1r. Bibliotheca Apostolica Vaticana.
https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/bav_pal_lat_1459

XVI
それでは創意の宝庫にして修辞学の全領域の守護者である「記憶」に移ろう。

記憶は人工的なものであるのか、あるいはまったく自然に由来するのか、その他のことについては別の機会に譲るが、とりあえずこの主題においては技術と規則が非常に重要であるのは確かであるから、それについて説明しよう。記憶術は我々にとって好ましいものである。何故好ましいかについては後まわしにして、まずはこの技法がどのようなものであるかを説明しよう。

記憶には二種類ある。すなわち一つは自然のもので、もう一つは人工のものである。自然の記憶とは我々の心に組み込まれたもので、思考と同時に生まれる記憶である。人工の記憶とは、ある種の訓練と理論体系によって強化された記憶である。

他のすべてのことと同じく、しばしば天性の才能は訓練によるものに匹敵するが、技法は天性を強化する。優れた記憶力を誇る人の場合、その人の自然記憶は人工記憶に似ていることが多い。一方で人工記憶によって自然記憶の良さを保ちながら、さらにそれを強化できる可能性がある。だから自然記憶は訓練によって強化されるべきだが、訓練も才能を必要とする。そしてこれも他の技術と同じように才能が訓練によって輝くことがある。したがって自然記憶の優れた人であってもこの手法が有益であることはすぐに理解されよう。しかしたとえ天才が我々の助けを必要としなくとも、恵まれぬ人々に手を差し伸べることは正当なことである。それでは人工記憶について説明しよう。

人工記憶は場(locis)と像(imaginibus)からなる。場とは、自然のものであれ人工のものであれ、小さくまとまって特徴的な、我々が自然記憶によって容易に把握することができるような風景を意味する。例えば家、列柱、窪み、アーチなどである。像は記憶することを望む対象の彫像、印、あるいは肖像である。例えば馬、獅子、あるいは鷹を覚えておきたいとするなら、その像を確かな場に配置すれば良い。それではどのようにして場を作り、その中に配する像を見つければよいのかを教えよう。

XVII
アルファベットの文字を知っている人は、指示された内容を書き留めたり、書いたものを声に出して読むことができる。同様に記憶術を学んだ人は聞いたことを場に配し、その場から記憶に伝達することができる。場は蝋板やパピルスに似ており、像は文字、像の配置は文、伝達は朗読に擬えられる。多くの事柄を記憶したい場合は、多くの場を用意し、多くの像を配置する必要がある。また、これらの場は順番に並べるべきである。順序に混乱をきたさないように、そしてどの場からでも上下に像をたどり記憶を読み出すことができるように。

XVIII
例えば、多くの知人が一列に並んで立っていたとして、彼らの名前を呼び上げるのに、その先頭から始めても、終わり、あるいは中程から始めようとも別に違いはない。場もこれと同じであり、順序よく配置されていれば、像によって場に込められた記憶を、どの場からでも、どの方向にでも思い出していくことができるだろう。したがって場は順番に並べて配置するのがよろしい。

場の選択には特別に注意を払い、記憶に永く留められるようにする必要がある。像は文字のように必要がなくなれば削除するが、場は蝋板のように在り続けなければならないからである。そして場の数を間違えないよう5番目ごとに印をつけよ。例えば5番目には黄金の手を配し、10番目にはデキムスという名の知人を配するなどすれば、その後も同じようにするのは難しくないだろう。

XIX
場は人気の多いところよりも寂しいところを選んだほうが良い。人混みや通行人は像を混乱させて弱め、孤立は輪郭を鮮明に保つだろう。加えて場はその形と性質が明確に区別できるようでなければならない。例えば、列柱をいくつも採用した場合、それらの類似性が混乱を引き起こし、それぞれが区別できなくなるだろう。そして場は適度な大きさと範囲でなければならない。場が大きすぎると像が曖昧になり、小さすぎれば配置することが出来ないからだ。

次に、場は像が影で見えなくなったり、照り輝いたりしないよう、暗すぎず、明るすぎないようにしなければならない。場の間隔は程々であるべきで30歩ぐらいがよいだろう。外なる眼と同じく、内なる眼も近すぎたり遠すぎたりするとよく見えなくなるからである。

経験豊富な人であれば適当な場をいくらでも見出すことができるだろう、しかし十分な場の蓄えがないと思われる場合は、自分で好きなように設定することもできる。思考にはあらゆるものが含有されており、どんなものでも望むままに作り出すことができるからだ。したがって既存の場に満足がいかない場合は、想像で自分だけの場を作ればよろしい。

場についてはこのぐらいにして、次は像の説明に移ろう。

XX
像は対象に類似したものを選び出す必要がある。類似性には二種類あり、一つは事物に関するもの、もう一つは言葉に関するものである。事物そのものを像に表現する場合は、事物の類似性が形成され、名前や言葉の記憶を像によって示す場合は、言葉の類似性が確立される。

多くの場合、事物の記憶全体が一つの記号、一つの像で表される。例として、検察が被告は毒物で男性を殺害したと述べ、犯行の動機は相続問題であったと告発し、犯行には多くの証人や証拠があると断言した場合を考えよう。弁護のためにこれを記憶しておきたいのであれば、その全体の像を形成しなければならない。もし件の男性を知っているのであれば、その人が病んで寝台に横たわっているところが想像できるだろう。もし知らない場合はすぐに思い出せる誰か適当な人を代わりに病人とせよ。寝台のそばに被告を立たせ、右手に杯、左手に蝋板を持たせ、薬指に羊の睾丸 (testiculos) を持たせよ。このようにして証人 (testium) と遺産と毒殺された者の記憶を保つことができる。他の罪状も順序立てて像を場に配置すればよい。注意深く記号化した像の配置形態によって容易に記憶を呼び起こすことができるだろう。

XXI
言語の類似性を表現したい場合はより工夫が必要になる。

例:lam domum itionem reges Atridae parant(アトレウスの子の王たちは家路につく)

もしこの句を記憶したいのであれば、第一の場には両手を上げたドミティウスを鞭打っているマルキー・レーゲスを配置せよ。これが "lam domum itionem reges" を表す。第二の場にはアイソポスとキンベルが『イピゲネイア』のアガメムノンとメネラウスの役に扮しているところを配置せよ。これが "Atridae parant" を表す。

こうしてあらゆる言葉が表現され得るが、このような像の配置は自然記憶を刺激するために記号が使用される場合に限ってのみ成功する。すなわち、まず詩句を自分で二、三回繰り返して読み、しかる後に像によって言葉を表現せよ。かくして人工記憶は自然記憶を補完する。どちらもそれ自体では十分に堅固ではないが、理論と技術によって補強されるのである。これについてより詳しく解説してもよいのだが、あまり脇道にそれると煩雑になり過ぎる恐れがある。

さて、ある像は強く鮮明で記憶を喚起するのに適する一方、弱くほとんど記憶を刺激しないものもある。我々はこれらの違いの原因を考えなければならない。そうすればどんな像を避け、どんな像を選ぶべきかがわかるだろう。

XXII
自然がどうすれば良いかを教えてくれる。我々は日々の生活において些細なこと、普通のこと、平凡なことを見ても、通常それを思い出すことはできない。それは新しいことや素晴らしいことで心が動かされていないためである。一方で酷く恥ずかしいこと、名誉なこと、珍しいこと、素晴らしいこと、信じられないこと、あるいは笑えることを見聞きした場合は長く記憶に留まるかもしれない。

すなわち我々は身近なことを見聞きしても大抵は忘れてしまう。我々が最もよく記憶しているのは子供の頃のことである。これは印象的なことや斬新なことが記憶に長く残るということに他ならない。日の出、日の巡り、日の入りは毎日起こることなので誰も驚きはしない。しかし日食はめったに起こることではないので驚異を与える。実際より頻繁に起こる月食よりも驚かれる。このように心が動かされるのはありふれた出来事ではなく、新しいことや感動的なことであることを自然は教えてくれる。したがって人工は自然を模倣し、自然が望むように、自然の示すところに従うべきである。何となれば自然が最後に来ることはなく、学習が最初に来ることもないのだから。物事は天性によって始められ、鍛錬によって完成するのである。

かくして我々は最も記憶に残る像を作りあげ、同時に顕著な類似性を確立しなければならない。像は多すぎたり漠然としていてはいけない。何か行為をしているもの。非常な美しさや醜さを備えたもの。冠や紫の衣などで飾ることで類似性が際立つだろう。血や泥や赤い塗料で汚したりすることで像に特徴を与え、ないしは面白い効果を与えることで、それらをより容易に思い出せるようになるだろう。我々が現実でよく覚えていることは、注意深く描写されていれば空想の中でも容易に覚えられる。ただし繰り返し像を更新するには迅速に心のなかで元の場を想起できる必要がある。

XXIII
私は多くのギリシャ人が記憶術のために単語に対応する像のリストを書いたことを知っている。既成の像によってそれらを探す手間を省くためである。私はいくつかの理由からそれには反対である。第一に無数にある言葉に対して千の像を揃えることは馬鹿げている。無限の言葉の中から一つ一つを覚えたところでその価値は微々たるものであろう。第二に何故すべてが既に用意されたものとすることで進歩を妨げ、主体性を奪うのであろうか。そして何に心を打たれるかは人それぞれであり、ある類似性を示したところで万人の賛同は得られないものだ。他の人にはわかりにくいように見えることもある。だから各々が自分の都合に合わせて像を作ることが望ましいのである。最後に教師の役割とは研究すべきことを教え、わかりやすくするために一、二の例を示すことである。例えば序文の研究について述べるときには研究の方法を示すのであって、千種類の序文を挙げることはしない。像についても同じことが言えるだろう。

XXIV
もしかしたら言葉の記憶があまりにも難しい、あるいは役に立たないと考えて、事物の記憶だけで満足してしまうかも知れないので、なぜ私が言葉の記憶を否定しないのかを述べておく必要があるだろう。私は簡単なことを苦労なく行いたいという人は、事前により難しいことで訓練されている必要があると考えている。私は言葉の記憶を詩を暗記する手段としてではなく、実用的な事物の記憶を強化するための訓練として含めたのである。つまりこれを訓練することで労なくもう一方の記憶が行えるようになるだろう。

いかなる学問であっても理論は不断の訓練抜きにはほとんど役には立たない。特に記憶術においては理論は努力、献身、労力、そして注意によって補完されない限りほとんど価値がない。なるべく多くの場を持ち、規則に従って整えることで良い結果が得られるようになる。像を配置する練習は毎日したほうがよい。他の研究でしばしば別の仕事に気を取られることがあるように、これもなにかの拍子に遠ざかってしまう恐れがあるからだ。我々には記憶に残すことを望まぬ瞬間はなく、特に重要な事柄に注意を向けているときはそうである。かくも効率的な記憶が有用であれば、この能力を獲得するにはいかなる苦労をも払う価値がある事が理解されるだろう。

これ以上は言葉を重ねるつもりはない。あなたの熱意を疑っているとか、まだ必要なことを述べていないと思われてしまうだろうから。

偽キケロ『ヘレンニウスに宛てたる修辞法』3.16-24
https://archive.org/details/adcherenniumdera00capluoft/

なんとか訳してはみましたが、紀元前の教養あるローマ人に向けて書かれたものだけに、現代日本人には正直あまり分かりやすくはないと思います(中世ヨーロッパ人にとってもやはり難解であったと思われます)。しかし幸いにして著者は「各々が自分の都合に合わせて像を作ることが望ましい」と勧めていますので、5番目の場に手を配置するのは良いとして、10番目には柳生十兵衛でも待機させておきましょうか。

像は何よりも非日常的で奇抜であることが記憶のコツであると著者は述べていますが、この異常なものが記憶に残りやすいという傾向は、現代ではフォン・レストルフ効果という名前がつけられています。

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