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ヴェネツィアのピエタ慈善院と赤毛の司祭

1335年、ヴェネツィアに着任したフランシスコ会の修道士アッシジのペテロが目にしたのは、路上に溢れる浮浪児たちでした。

彼は寄る辺なき孤児らを救済すべく「慈悲を! (Pietà !)」と訴えながら市中を歩き回って寄付を募り、やがて彼はピエタのピエルッツォ (Pieruzzo de la Pietà) と綽名されます。1340年、彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会近くの17軒の家を借りて孤児を受け入れ、これが後のピエタ慈善院 (Ospedale della Pietà) の始まりとなりました。

1343年、ヴェネツィアの評議会はペテロ修道士の執拗な懇願に耐えかねて慈善院への助成金の支給を決定。しかし増え続ける孤児のために場所が不足し、1346年にサン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴラ教区に移転。そして同年、ピエタ慈善院はヴェネツィア共和国の公式施設となります。1349年には創設者のペテロが亡くなりますが、慈善院はその後も拡大を続けていきました。

Vincenzo Maria Coronelli, 1696.

ピエタ慈善院には捨子を受け入れる小さな窓口がありました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:9402_-_Venezia_-_Calle_della_Piet%C3%A0_-_Lapide_della_ex_ruota_degli_esposti_-1548-_-_Foto_Giovanni_Dall%27Orto_12-Aug-2007.jpg

FULMINA IL SIGNOR IDDIO MALEDITIONI E SCOMUNICHE
CONTRO QUELLI QUALI MANDANO O PERMETTANO
SIANO MANDATI I LORO FIGLIOLI E FIGLIOLE SI
LEGITTIMI COME NATURALI IN QUESTO HOSPEDALE DELLA
PIETA' AVENDO IL MODO E FACULTA DI POTERLI ALLEVARE
ESSENDO OBLIGATI AL RISARCIMENTO DI OGNI DANNO E
SPESA FATTA PER QUELLI NE POSSONO ESSERE ASSOLTI
SE NON SODDISFANO COME CHIARAMENTE APPARE NELLA
BOLLA DI NOSTRO SIGNOR PAPA PAOLO TERZO
DATA ADL 12 NOVENBRE L'ANNO 1548

主なる神は呪い破門するであろう
養育する手段と能力があるにも関わらず
自らの嫡子をピエタ慈善院に送り出す者とそれを許す者を
これを免れるには生じた損害と費用を賠償しなければならない

パウルス三世による教皇勅書
1548年11月12日

捨子には半分にした品物の片割れを持たせるという習わしがありました。絵や文字の書かれた紙片や、メダル、彫刻、イヤリングなど。それらいつの日か親子が再会できた時に証明となるべき品々が、今もピエタ慈善院直系のサンタ・マリア・デッラ・ピエタ児童施設に保管されています。畢竟、殆どは再会を果たすことはなかったのでしょう。

https://www.pietavenezia.org/cultura/archivio_storico

ピエタの孤児たちには、宗教と読み書きの教育に加えて、男子は木工、造船、印刷等の職業訓練を、女子は家事裁縫が教えられました。男子は16歳で否応なく社会に送り出されましたが、女性が経済的に自立するのは難しい時代のこと、女子は結婚の機会に恵まれなければ、慈善院を出ることなく生涯を終えることが多かったようです。

Giovanni Grevembroch, "Orfane fanciulette," Gli abiti dei Veneziani da quasi ogni età con diligenza raccolti e dipinti nel secolo XVIII.

しかしながら、特に音楽の才能の認められた女子は「聖歌隊の娘 (figlie di coro)」として特別の教育を受け、典礼の歌唱や楽器演奏を任じられました。幼少時からの厳しい訓練を経た彼女らの水準は高く、多くの聴衆が詰めかけるようになり、その寄付が慈善院の貴重な収入となったのです。

17世紀ヴェネツィアにはピエタ、デレリッティ、メンディカンティ、インクラビリの4つの主たる慈善院があって、いずれも女子聖歌隊を擁し、互いに鎬を削っていました。しかし最も有力であったのは、やはりピエタです。

ピエタでは17世紀中頃からはプロの音楽家を教師として雇うようになっていました。ヨハン・ローゼンミューラー(1619-1684)は、同性愛容疑でライプツィヒから逃亡してきた1658年から、再びドイツに帰る1682年まで、ピエタの聖歌隊長 "maestro di coro" 及び作曲家を務めています。

しかし最も有名なピエタのマエストロといえば、他でもない「赤毛の司祭」ことアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)でしょう。

Pier Leone Ghezz, 1723 (Codici Ottoboniani latini 3114, fol. 26)

ヴィヴァルディは、まず1703年から1709年まで "maestro di violino" としてピエタに雇われ、1711年からは "maestro de' concerti" として断続的ながらも1738年までピエタで教え、また音楽作品を提供しました。

ただ、どういうわけかヴィヴァルディは1709年出版の《ヴァイオリン・ソナタ集 Op. 2》において、既にピエタの maestro de' concerti を称しています。

Antonio Vivaldi: 12 Violin Sonatas, Op.2
https://imslp.org/wiki/12_Violin_Sonatas%2C_Op.2_(Vivaldi%2C_Antonio)

意外にも彼はピエタの maestro di coro の役職に就いたことはなく、1701年から1713年まではフランチェスコ・ガスパリーニ(1668-1727)がその地位にありました。ガスパリーニが去った後、ヴァヴァルディが後任に求められましたが、彼は縛られることを嫌がり辞退します。しかし昇給とともに実質的な代役を務めていたようです。

ピエタ慈善院の抱える1000人の孤児の中、「聖歌隊 (coro)」に入れたのは70名程のみでした。1718年5月24日付けのピエタの「聖歌隊の娘」62名の名簿は以下の通り。

Figlie di coro della Pietà (24th May 1718)

娘と言うには大分お年を召した方も多く、最年少が11歳の Perpetua、最年長は75歳の Anzoleta

同名の人も散見されますが、孤児で未婚の彼女らは姓を持ちません。そのため "Angelica dal Violin""Lucieta Organista" など担当パートをもって呼び習わされました。

1708年頃書かれたヴィヴァルディの《ヴァイオリンとオーボエとオルガンとシャリュモーのためのソナタ ハ長調》RV 779 のスコアには、実際に各パートを担当するメンバーの名前が記されています。

Antonio Vivaldi: Trio Sonata in C major, RV 779
https://imslp.org/wiki/Trio_Sonata_in_C_major%2C_RV_779_(Vivaldi%2C_Antonio)

Signora Prudenza Violin
Signora Pelegrina Oboè
Signora Lucieta Organo
Signora Candida Salmoè se piace

この内ヴァイオリンの Prudenza の名は上掲の名簿にありませんが、Prudenza dal Contralto と呼ばれた彼女は、貴族の私生児で、歌も楽器も良くする多才な女性であったものの、この後1710年1月に28歳で74歳のピエタの理事の一人と結婚し、ピエタを去っています。

ヴィヴァルディに師事したピエタの娘の中でも取り分け有名であったのが、当代随一のヴァイオリニストと讃えられた  Anna Maria dal Violin (c.1696-1782)

彼女は1706年頃には聖歌隊に選抜されていました。ヴィヴァルディは早くから彼女の才能を高く買っていたようで、1712年7月19日には当時16歳のアンナ・マリアのためのヴァイオリンの費用として20ドゥカートを請求しています。

Spese di Chiesa e Coro a D. Ant. Vivaldi per saldo di due Violini uno serve per Anna Maria d 20. L’altro per Bernardina d 12.

妹分の Bernardina (c.1697-1783) のヴァイオリンは12ドゥカートですが、それだって悪いものではなかったはず。ヴィヴァルディのピエタでの初任給は年俸60ドゥカートでした。

 『アンナ・マリアのパートブック』として知られる、おそらく彼女の所有であった写本には、いずれも "Concerto per Signora Anna Maria" と題された、彼女のためのヴァイオリン協奏曲のヴァイオリンパートが31曲収録されており、その多くはヴィヴァルディの作品です。この写本でしか知られていない作品もあり、それらはヴァイオリンパートのみなので不完全なのですが、補完も試みられています。

Library of the Benedetto Marcello Conservatory, Venice (I-Vc): Busta 55.1
https://imslp.org/wiki/Anna_Maria's_Partbook_(Vivaldi%2C_Antonio)
Antonio Vivaldi: Concerto for Violin & Organ in C major, RV 808

1720年8月23日にアンナ・マリアは修行期間を終え、翌1721年に Anzoleta が77歳で亡くなると、定員に空きが生じた「特権の娘 figilie privilegiate」にアンナ・マリアが選出されました。これは14名からなる聖歌隊のエリートで、謝礼を取って生徒に教えることも許されました。このころピエタは孤児に限らず女子のための音楽教育機関の最高峰でもあったのです。孤児ではないピエタ出身の女流音楽家としては Anna Bon (1738-after 1767) や、 Regina Strinasacchi (1764-1839) などが知られます。

当時から観光地であったヴェネツィアで、ピエタは人気の観光名所となっており、多くの旅行者がピエタの聖歌隊、わけてもアンナ・マリアのヴァイオリンについて称賛の言葉を書き残しています。

匿名の詩人によって書かれた、ピエタの娘たちを列挙する風刺詩 《Sopra le figlie di coro dell'ospitale della Pietà del 1730》 の中でも、アンナ・マリアの扱いは別格です。

Sopra le figlie di coro dell'ospitale della Pietà del 1730.
Bartolomeo Dotti, Satire inedite, 1797.

Ecco dunque che da pria
come duce nel drappello
vien la brava Annamaria,
vera idea del buon, del bello.

次に登場するのは
チームのリーダー
素晴らしきアンナマリア
善と美の理想

Il violin suona in maniera
che chi l'ode imparadisa,
se pur là sull'alta sfera
suonan gli angeli in tal guisa.

そのヴァイオリンの音色は
聴く者を天国へ誘う
かの高みにて
天使たちが奏でるものに相違なし

Brava in lei del par la mano
e del manico e dell'arco
l'altra egual si cerca invano
Nello stato di San Marco.

弓取る腕も
指板を走る手も共に見事で
彼女に匹敵するものなどいないだろう
サン・マルコにすら

Anzi in tutto I'orbe intero
non ha egual femmina o uomo:
Non esagero, ed il vero
dico ben da galantuomo

実際、世界中の
女も男も彼女に敵いはしない
これは大袈裟ではなく
紳士の誇りにかけて

Come lei qual professore
suona cembalo o violino,
violoncel, viola d'amore,
liuto, tiorba o mandolino?

チェンバロとヴァイオリンと
チェロとヴィオラ・ダモーレと
リュートとテオルボとマンドリンの
玄人とは如何?

Queste invero son virtuz
Da eternar chi le possiede
pure in lei vi eancor di piu
e son qui per farne fede.

実際こんな美徳があれば誰であれ
不滅の栄光を得るに違いないが
しかし彼女はそれ以上だ
ここでそれを証してみせよう

Aureo cor senza dopiezza,
fido, grato, ed amoroso
bella assai, ma cui bellezza
non fa l'animo orgoglioso.

裏表のない黄金の心
誠実で、気立てよく、愛情深く
真に美しいが、その美しさを
鼻にかけず

Biondo crin, guancie di rose
sen di neve, occhi di foco
nobil tratto e spiritose
le maniere in serio, e in gioco.

ブロンドの髪、薔薇色の頬
白雪の胸、燃える瞳
高貴な性格と機知は
真面目も戯れもこなす

Ma non piu perche potreste
del suo bel credermi amante
ed io cio forse sareste
non assai del ver distante.

しかしここで止めておこう
私が彼女に恋していると思われるだろうから
そしてそれは多分に
真実から遠くはない

Cio pero sia per non detto
e torniam sul seminato
vien poi ... vien ... sia maledetto
chi vien mai ?  Son imbrogliato.

それではここまでにして
話を元に戻そう
そして次は… 次は… こんちくしょう
誰の番だっけ? わからなくなってきた 

Ah, si, si... Vien Bernardina…

ああ、そうそう、ベルナルディーナだ…

果たしてアンナ・マリアが本当に七種の楽器を弾きこなしたのかは定かではありませんが、1732年6月21日に彼女のためのテオルボが12ドゥカートで購入されているので、これを弾けたことは確かでしょう。

それからヴィヴァルディのヴィオラ・ダモーレ協奏曲、RV 393 と RV 397 の自筆譜では、タイトルが "Concerto per Viola d'AMore" と AM が大文字で記されていることから、これが Anna Maria を示唆しているものとする説もあります。

1736年12月17日に、聖歌隊の娘たちのトップである二人の "maestra di coro" の一人であった Michielina dal Violin (c.1674-1736) が亡くなり、1737年8月30日にアンナ・マリアがその後を継ぎました。以後彼女は一線を退き、首席ヴァイオリニストの座を教え子の Chiara dal Violin (1718-1791) に譲ります。

Chiaretta とも呼ばれる彼女もまた、傑出した女性ヴァイオリニストとして知られました。シャルル・ド・ブロスは1739年8月29日の手紙にこのように記しています。

Celui des quatre hôpitaux où je vais le plus souvent, et où je m'amuse le mieux, c'est l'hôpital de la Piété; c'est aussi le premier pour la perfection des symphonies. Quelle roideur d'exécution ! C'est là seulement qu'on entend ce premier coup d'archet, si faussement vanté à l'Opéra de Paris. La Chiarretta serait sûrement le premier violon de l'Italie, si l'Anna-Maria des Hospitalettes ne la surpassait encore.

4つの慈善院の中で、私が最も好み、最も頻繁に足を運んでいるのはピエタ慈善院です。ここはシンフォニーの完璧さにおいて最高です。なんと厳格な演奏でしょう! 最高の弓使いというのは、パリのオペラ座も誤って称賛されていますが、本当はここでしか聴くことができません。キアレッタは確かにイタリア最高のヴァイオリニストに違いないです、オスピタレットのアンナ・マリアに抜かれていなければ。

Charles de Brosses, Lettres familières écrites d'Italie en 1739 et 1740, Lettre XVIII.

オスピタレット(小慈善院)はデレリッティ慈善院の通称で、このアンナ・マリアはピエタのアンナ・マリアとは別人。

キアラはピエタでヴィヴァルディに直接教えを受けた最後の世代になるでしょう。《ヴィオラ・ダモーレ協奏曲 ニ長調》RV 392 には彼女が指名されています。

他にも有名なヴィヴァルディの愛弟子としては、コントラルト歌手の Anna Girò (c.1710-after 1747) がいます。Annina della Pietà とも呼ばれた彼女は、実のところ孤児ではなく、マントヴァの鬘職人の娘です。彼女は12歳の頃ヴェネツィアにやってきて、1723年にオペラにデビューしました。あるいは彼女もピエタで学んだのかもしれません。

アンナ・ジローはヴィヴァルディのお気に入りで、1726年から1739年にかけて30以上のオペラで、ほぼ常にプリマドンナとして採用し、彼女抜きでオペラはできないと言うほどでした。彼女は異母姉のパオリーナと共にヴィヴァルディと同居しており、愛人関係も噂されていましたが、ヴィヴァルディ本人は強く否定しています。

ヴィヴァルディのアンナ・ジローへの入れ込み具合は、オペラ作家のカルロ・ゴルドーニの回想録に生き生きと描写されていますので、少し長いですが引用しておきましょう。

Carlo Goldoni, Mémoires de M. Goldoni, Tome I, 1787.
https://books.google.co.jp/books?id=vZ6ElZjWtQ4C&redir_esc=y

その年に上演されることになっていたのは新作の劇ではなく、アポストロ・ツェーノとパリアーティのオペラ《グリゼルダ》が選ばれていた。この二人はツェーノが皇帝に仕えるためにウィーンに向けて発つまで一緒に仕事をしていた。作曲を担当することになっていたのはヴィヴァルディ神父で、彼はその髪のために「赤毛の司祭 il Prete rosso」と呼ばれていた。彼は本名よりもこの渾名のほうがよく知られていた。

卓越したヴァイオリン奏者にして凡庸な作曲家であったこの聖職者は、ジロー嬢を歌手として育て上げていた。ジロー嬢はヴェネツィア生まれの若い歌手で、フランス人の理髪師の娘であった。彼女は美しくはなかったが、気品があり、可愛らしい姿、美しい目、美しい髪、魅力的な口元をしていた。声は小さいが、演技は上手かった。彼女がグリゼルダの役を務めることになっていた。

グリマーニ氏は、オペラを短縮したり、俳優と作曲家の好みに合わせてアリアの場所や性格を変えるなど必要な変更を加えるため、私を音楽家のもとに派遣した。それで私はヴィヴァルディ神父を訪ねていき、グリマーニ閣下より遣わされてきたと告げた。彼は楽譜に囲まれ、聖務日課書を手にしていた。彼は立ち上がって縦横に十字を切り、聖務日課書を脇において、ごく普通に挨拶をした。

「お目にかかれて嬉しく存じますが、ご要件は何でしょう?」
「グリマーニ閣下が今度の市のオペラについて、あなたの要望に従って台本に変更を加えることを私に任されましたので、あなたのお考えを伺うために参りました」
「あー、あー、君が《グリゼルダ》に手を加えるのですか。ということはラッリさんはもうグリマーニさんの催し物には関わらないのですか」
「ラッリさんは大変に高齢で、もう利潤や献辞や本の販売にしか興味がありませんが、私は違います。喜んでこの課題に専念しますし、ヴィヴァルディさんの指示どおりに取り掛からさせていただきます」
(神父はまた聖務日課書を取り上げ、再び十字を切って返事をしなかった)
「神父様、聖務のお邪魔のようですから、出直してきます」
「結構ですよ御仁。あなたが詩の才能をお持ちのことはよく存じております。私はあなたの《ベリサリオ》を見てとても気に入りました。しかしこれは話が違います。悲劇や叙事詩なら好きなように作れるでしょう、音楽的な四行詩である必要はないのですから」
「台本を見せていただけないでしょうか」
「はい、はい、どうぞ。《グリゼルダ》はどこにいったかな、ここにあったはずなんだけど… Deus in adjutorium meum intende (神ヨ我ヲ助ケタマエ)、Domine… Domine… Domine… 今までここにあったのに、Domine ad adjuvandum(主ヨ助ケタマエ)… ああ、あった! 見なさい、このグアルティエロとグリゼルダの場面は興味深い感動的な場面ですが、作者はその終わりに悲愴なアリアをおいたのです。しかしジロー嬢は物憂い歌を好みません。彼女は表現的で扇情的な曲が好みで、途切れ途切れの言葉や、ため息を吐くように、行為や動きを伴って情熱を表現するアリアを求めるのです。おわかりいただけますか」
「はい、よくわかりました。それに私はジロー嬢の歌を聴く機会があって知っています、声があまり大きくないことを…」
「なんですって、あなたは私の弟子を侮辱なさるつもりか。彼女は何にでも素晴らしく、何だって歌えますよ」
「ごもっともです、台本をください、私にやらせてください」
「いやだめです、台本はあげられません、私に必要です。私は急いでいるので」
「では、お急ぎでしたら、ほんの少しの間だけ貸してください。この場で仕上げてみせます」
「この場で?」
「はい、この場で」

神父は嘲るように私に台本を寄越し、紙と机を与え、また聖務日課書を取り上げて歩きながら詩篇と賛歌を唱えた。私は既に知った場面を読み直し、音楽家の言うことを思い出しながら15分もかからず二部の八行詩のアリアを書き上げた。

私は神父を呼んで書いたものを見せた。ヴィヴァルディは読み、額に皺を寄せ、また読んで、喜びの声を上げた。彼は聖務日課書を床に放りだしてジロー嬢を呼び、彼女が来た。
「ああ、この人は稀有な、素晴らしい詩人だよ。このアリアをご覧、この人がここを動かず15分もかからずに作ったのだ」
そして私に向き直って「先生、お許しください」と言い、私を抱きしめて他の詩人は決して使わないと宣言した。

Carlo Goldoni, Mémoires de M. Goldoni, Tome I, 1787, 287-290.

1741年にウィーンで没したヴィヴァルディは、1745年から1760年にかけてピエタ慈善院の隣に建設されたピエタ教会を見ることはありませんでした(ファサードが完成したのは1906年)。慈善院のあった場所は現在はホテルになっています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Venezia_-_Chiesa_della_Piet%C3%A0.jpg

教会とは言っても、その主たる用途はコンサートホールであって、楕円形の広間の上方に設けられた聖歌隊席から格子越しに「娘たち」の演奏する音楽が聴衆に降りそそぎました。この音響デザインや、通りの騒音を遮断する玄関構造にはヴィヴァルディの意見も採用されていたのではないかとも言われています。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Santa_Maria_della_Pieta_a_Venezia_interno.jpg
Giovanni Grevembroch, "Orfane filarmoniche," Gli abiti dei Veneziani da quasi ogni età con diligenza raccolti e dipinti nel secolo XVIII.

しかしヴィヴァルディ亡き後はピエタも質を落としていったようです。1770年にヴェネツィアを訪れたチャールズ・バーニーは、ピエタは大きいだけで凡庸、当時バルダッサーレ・ガルッピ(1706-1785)が監督していたインクラビリ慈善院の方が上としています。

Charles Burney, The Present State of Music in France and Italy, 1771.

この都市はコンセルヴァトーリオないし音楽学校によって有名である。それは4つあって、 オスペダーレ・デッラ・ピエタ、メンディカンティ、インクラビリ、それとオスペダレット・ア・サン・ジョヴァンニ・エ・パオロである。それぞれ毎土曜日と日曜日の夕方、それに大きな祝祭の日にも演奏を披露している。私は8月4日土曜日、到着したその日の夕方にピエタに行った。現在のマエストロ・ディ・カペッラは司祭のフルラネッティ氏であり、そして演奏するのは歌も楽器もすべて少女たちである。オルガン、ヴァイオリン、フルート、チェロ、さらにはフレンチホルンまでこの娘たちが受け持つ。ここは一種の私生児のための慈善院で、多くの貴族、市民、商人たちの庇護下にある。歳入が多いとはいえ、毎年彼らがその支援に貢献している。少女たちは結婚までここで面倒をみられるが、音楽の才能を示すものはイタリア最高の教師のもと教育を受ける。この晩に私が聴いた作品と演奏は凡庸の域を出ないものであった。特筆すべき声やセンスのある奏者は見当たらなかった。しかし最後に演奏されたシンフォニーの第1楽章は作曲も演奏も気迫に満ちた良いものだった。

11日。午後、私はまたピエタに足を運んだ。あまり混んでおらず、少女たちは様々な歌の技を披露していた。特にデュエットでは、どこまで高くまたは低くまで歌えるか、どれほど長く音を膨らませられるか、あるいはどれほど凄い速さで装飾変奏を歌えるかという技術と天禀を試していた。そしてそれらはいつもシンフォニーで幕を閉じる。先の水曜日に演奏されたのは、サルティ作曲の、以前イングランドで《オリンピアーデ》のオペラで聴いたものだった。

ここの楽団は確かに強力だ。慈善院の1000人を超える少女のうち、70人が音楽家で歌手や楽器奏者である。他の3つの慈善院では40人を超えることはない。ラティッラ氏によると、彼女らは施設の規定に従って100人の孤児から選ばれたのだという。しかし優れた声を持った子供が、父母を失っていないのにこれらの慈善院に入れられることが知られている。ヴェネツィアに属する大陸の町から子供たちが教育を受けるために連れてこられることもある。パドヴァ、ヴェローナ、ブレシア、そしてさらに遠い他の場所からも。フランチェスカ・ガブリエリはフェラーラ出身なのでフェラレーゼと呼ばれている。

ピエタのコンセルヴァトーリオは優れた楽団によって殊に有名であり、メンディカンティは声楽で知られている。しかしこれは時と偶然によって大きく変化するものかもしれない。この種の学校の名声は指導者の作曲と教授の能力に頼むところが大である。そして歌手については、ある慈善院の生徒が他のものより天分を多く授かるということもありえる。しかしピエタはその他よりも人数が多いので、優れた資質を得る機会も多い。そのため、一般にこの慈善院が最も優れた楽団と歌手を擁するだろうと考えるのは当然ではある。目下のところ、ガルッピ氏の敏腕によってインクラビリの演奏が優れており、その音楽、歌唱、オーケストラは、私の見るところ他よりも抜きん出ている。これにオスペダレットが続き、他の2つを凌ぐ。したがってピエタが最高の学校であるという評判は、今そうであると言うよりは、かつてそうであったと言うべきだろう。

18世紀末のヴェネツィアの財政難によって、デレリッティ慈善院は1791年に廃止、メンディカンティは1795年、インクラビリも1805年に廃止され、ピエタだけが辛うじて残ります。

1782年1月にロシア皇太子パーヴェル1世夫妻を迎えて旧行政館で行われた(おそらくピエタの)聖歌隊の娘たちの演奏会は、その最後の輝きであったと思われます。アンナ・マリアはこの年の8月10日に86歳で亡くなりますが、最後までピエタの maestra di coro を務めていました。翌年、後を追うようにベルナルディーナが亡くなり、1791年にはキアラも世を去ります。

Gabriele Bella, La Cantata delle putte per i Conti del Nord, 1782.

1797年にヴェネツィア共和国が消滅してもピエタは存続し、音楽活動も一応継続しましたが、再びかつての栄光が戻ることはありませんでした。

1843年のフランチェスコ・カッフィの書簡によれば「ピエタはまだ存在している。しかし音楽的見地からすれば、もはや空虚な外観がわずかに残っているに過ぎない」。

Jean-Auguste Brutails: Vue de la rade à Venise, Vue sur l'Église de la Pietà.
https://1886.u-bordeaux-montaigne.fr/s/1886/item/74233

1935年にピエタは「州立サンタマリア・デッラ・ピエタ児童施設 (Istituto Provinciale per l'Infanzia Santa Maria della Pietà)」となり、1346年創立を誇るこの施設は、今も子供たちの保護と支援の機能を果たしています。

https://www.pietavenezia.org/

Bibliography

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https://imagesofvenice.com/ospedali-grandi/

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