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スカルラッティとソレール神父(179)

あの荘厳で重厚な建造物にドメニコ・スカルラッティを見つけるのは妙な感じがするが、修道士たるソレールの手になるソナタや五重奏はもっとおかしい。これ以上に陽気で軽薄なものは想像し難い。18世紀の教会では物憂い聖人は言うに及ばず、戯れる薔薇色の天使が見られるのも通例だが、しかしエスコリアルのこれはまるで枢機卿の団体がジグを踊りだすかの如しだ!

Ralph Kirkpatrick, Domenico Scarlatti, 1953.

スペイン王家は毎年秋にはマドリードの北西50kmほどに位置するエル・エスコリアル修道院に滞在するのが習わしでした。当然ドメニコ・スカルラッティもフェルディナンド6世と王妃バルバラに同伴していたはずです。

Vista del Real Sitio y Monasterio de San Lorenzo de El Escorial (Antonio Joli, c.1754)

そのエル・エスコリアルの修道士にしてオルガニストであったのが、アントニオ・ソレール神父ことアントニオ・フランシスコ・ハビエル・ホセ・ソレール・イ・ラモス Antonio Francisco Javier José Soler y Ramos (1729-1783)。

ソレールの肖像は知られていません。ただ、1753年9月29日の日付を持つ彼の作品、《8声部合唱と弦楽のための Veni Creator》の表紙に描かれている祭壇に向かって礼拝する僧侶はソレール本人の姿ではないかとも言われています。

彼は現在もヨーロッパ最古の少年聖歌隊として知られるモンセラートのエスコラニアの出身で、1752年9月25日にエル・エスコリアルの修道会に入り、1年の試用期間を経て常任オルガニストとして採用されて、後には楽長に就任しています。

ソレールはスカルラッティと少なくとも毎年秋には顔を合わせる機会があったでしょう。もっとも1757年7月23日にスカルラッティは世を去ってしまいますので、ソレールがエル・エスコリアルに来てから5回を数えるだけのことになりますが。

ソレールのソナタはセイシャスに比べてもなおスカルラッティに似ているものもあり、彼がスカルラッティ作品に精通していたのは間違いありませんが、スカルラッティ本人から教えを受けていたという確実な証拠はありません。不確かな証拠はいくつかあります。

1765年6月27日付けのソレールがボローニャのマルティーニ神父に宛てた書簡で、ソレールは自分を「スカルラッティ氏の弟子 (Scolare dil Sr. Scarlatti)」と称しています。しかしこれを文字通り受け取って良いものか。単にスカルラッティの作品から影響を受けたという意味かもしれませんし。

また、ソレールの没後にロンドンで出版された『27の鍵盤ソナタ集』(1796)のフィッツウィリアム美術館所蔵の1冊には、表紙の裏に手書きで「これらのハープシコード・レッスンの原稿は1772年2月14日にエル・エスコリアルでソレール神父より私に与えられたものである。ソレール神父はかつてスカルラッティに師事していた」というフィッツウィリアム卿によるメモがあります。しかし情報源がソレール本人なのかも不明です。

Antonio Soler, XXVII Sonatas para clave (1796)

ちなみにスカルラッティ作品の主要ソースである、王妃に捧げられたソナタ集『ヴェネツィア写本』の1752年に始まる第1巻から第13巻はソレールによって編纂されたものとも言われています(おそらくは『パルマ写本』も、こちらはファリネッリのためのものであったとも)。

スカルラッティが亡くなった翌年1758年に王妃バルバラが亡くなると、意気消沈したフェルディナンド6世もさらに翌年1759年に跡を追うように逝去し、腹違いの弟であるカルロス3世(1716-1788)がスペイン国王に即位しました。カルロス3世は先代の夫妻と異なりあまり音楽を好まなかったので、ファリネッリはスペインを去ってボローニャに隠居します、王妃のピアノと写本を携えて。

その後1766年にはソレールがカルロス3世の子息であるガブリエル王子(1752-1788)の音楽教師に任命されました。ガブリエル王子は聡明で学問と音楽を好み、二人の関係は王子が14歳の時よりソレールが亡くなるまで続くことになります。エル・エスコリアルには今も「Casita del Infante」として知られるガブリエル王子の離宮がありました。

Gabriel de Borbón, infante de España (Anton Raphael Mengs, 1767)

ソレールには『転調の鍵と音楽の骨董 Llave de la modulacion y antiguedades de la musica』(1762)という理論的著作もあります。これは2巻に分かれ、第1巻では音程の基礎から最新の転調理論までを扱う一方、第2巻は古い定量記譜法の解説になっています。何でそんな両極端なものを抱き合わせたのか。

Antonio Soler, Llave de la modulacion y antiguedades de la musica (1762)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/129230

ともかく注目されるのは斬新な転調の解説で、エンハーモニック転調などを駆使した遠隔調への転調の方法論が説かれています。もちろんこれは実践では既にスカルラッティなどが当たり前に用いてきた手法に違いませんが、理論的に系統立てて説明したことは画期的でした。ソレールの理論は保守的な音楽学者の反発を呼び、激しい論争が繰り広げられることになりますが、最終的にはソレールが認められることになります。

ソレールは遠隔調への転調を「速い転調 modulación agitada」と呼んでいます。彼の説明によればこういうことです「オルガニストは⾳楽が主調からどれほど遠い調にあったとしても、司祭から奉献唱を止めるように合図があれば即座に円滑かつ迅速に主調に戻して終えなければならない」

つまり意表をついて離れた調に行くことではなく、遠隔調から速やかに帰ってくることが主眼になっています。提示されている例も全て変ホ長調で終える形になっており、以下の譜例では嬰ヘ長調から変ホ長調への転調が示されています。

Ibid.

加えて、この本には実践例として8つの短いプレリュードが収録されています(Quatro Preludios と題されていますが、後にさらに4曲が続きます)。これらは今は滅多に取り上げられることはありませんが、中々の佳品なので覚えておいて損はないでしょう。

Ibid.

ソレールは1783年12月20日、おそらく肺炎で亡くなります。54歳でした。彼の『埋葬記録 Memorias Sepulcrales』には如何にソレール神父が勤勉で熱心に作曲し、敬虔で善良であったかについて筆を尽くして書かれていますが、作曲以外についてはあまり鵜呑みにはできません。1765年7月のメディナ=シドニア公宛てのソレールの書簡にはこうあります、「私が 『僧衣を着た悪魔 (El diablo vestido de fraile)』と呼ばれていたことを貴方は覚えておいででしょう」

埋葬記録にはソレールが 「afinador」 ないし 「templante」と称する鍵盤楽器を発明したことも書かれています。

ソレール神父はガブリエル王⼦のために afinador あるいは templante と称する⻑⽅形の鍵盤楽器を製作したこともあった。これはイタリアや多分フランスやイングランドでも同様の試みがあったが失敗に終わったものである。この楽器は⼤半⾳と⼩半⾳を区別できるようにするもので、各⾳程をさらに9つの細かい⾳程に分割していた。このような楽器を作ることは殆ど不可能と考えられてきたが、彼の⾼い能⼒と熱意が成功へと導き、その発明が世に知られることになった。

Memorias Sepulcrales

この手の微分音鍵盤楽器は16世紀以来性懲りもなく再発明されては消えていっていますが、思うに和音ではなく旋律を目的にしないと駄目なのではないかと。カシオの中東市場向けの四分音機能搭載の電子キーボードが一番成功した例かもしれません。

ソレールは勤勉の評に違わず膨大な作品を残しており、200以上の器楽作品に加えて、334の声楽作品が知られています。例によって後者が取り上げられることは殆どありませんが。

彼の名を知らしめているところの鍵盤のためのソナタは、今のところ174曲が確認されています。しかしスカルラッティと同じくソレールの自筆譜もどういうわけか全く残っておらず、大半が写本で伝わるだけなので、それぞれの作曲時期等は不明です。

ソレールのソナタのナンバリングは、サミュエル・ルビオ『P. Antonio Soler. Sonatas para instrumentos de tecla, i–vii』(1957-72) に基づくR番号が現在も一般的に用いられています。出版されたのは120番までですが、ナンバリングは154番までついてます。

様々な写本からこれだけの作品をかき集めたルビオの偉業は敬服に値するとしても、問題点も多く、作品の重複と後からの訂正による混乱や、スカルラッティのソナタが混ざっていたりするのはまだしも、ソナタ139番とされているものは、あろうことかフランソワ・クープランの《田園詩 Les Bergeries》だったりします。

それから元の写本の収録状態からすると、スカルラッティと同じくソレールのソナタの多くも同主調のペアやトリプルの組を成していた可能性が高いのですが、ルビオの番号ではそれらは無視されてしまっています。そもそもルビオがどういう方針で番号をつけたのかもよくわかりません。

ソレールのソナタの多くはスカルラッティと同じく単一楽章二部形式で、全般にスカルラッティに負うところが大きいですが、スカルラッティが脊髄反射で弾いているところを、ソレールはその手癖を咀嚼して合理化している感じがあります。

そして何といってもギャラントです。カークパトリックが呆れるのもやむなし。上の《ソナタ イ長調》R. 1 に見るようにソレールはアルベルティ・バスをしばしば用いますが、スカルラッティはそういうことはしません。

さらに91番から99番のソナタは4楽章構成で、ほとんど古典派のソナタそのもの。考えてみればソレールはハイドンより3歳年長なだけですから何もおかしくはないのですが、いかにもスカルラッティ風の《ソナタ 嬰ヘ長調》R. 90 の後では温度差で風邪を引きそうです。

ルビオのカタログでは R. 145 にまとめて放り込まれている『6つの2台のオルガンのためのコンチェルト Seis conciertos para dos órganos』の表紙には「スペイン王子ドン・ガブリエル・デ・ボルボン殿下の愉しみのために」とあります。これも全くギャラント様式の平易な作品で、おそらくガブリエル王子がソレールと二人で演奏したものなのでしょう。

エル・エスコリアル修道院には例によって「福音」と「書簡」という対になるオルガンがありましたが(今はケースだけ再利用されています)、しかしこれらのコンチェルトの要求する音域は当時の一般的なオルガンの手鍵盤には余るものがあります。

ガブリエル王子は1775年に対面に2組の鍵盤を有する特殊なオルガンを入手していることが知られており、おそらくそれで演奏されたものと考えられます。

ともあれ何といってもソレールの作品で絶大な人気を誇るのは《ファンダンゴ》R. 146 でしょう。これについては次回に。


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