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C.P.E.バッハとジルバーマンのクラヴィコード(175)
スペインからロシアに至るまで、ヨーロッパ中を軽薄極まりないギャラント音楽が席巻していた18世紀中頃において、多少なりともシリアスな音楽が作られていたのは、主に北ドイツのプロテスタント地域、就中ベルリンのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ Carl Philipp Emanuel Bach(1714-1788)の周辺です。
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彼らについては昔から「多感主義 Empfindsamkeit」という文化運動の一部であるとカテゴライズされてきました。
この Empfindsam なるドイツ語は、天下の奇書『トリストラム・シャンディ』の著者として知られるローレンス・スターン(1713-1768)の小説『A Sentimental Journey Through France and Italy』(1768)のドイツ語訳『Yoricks empfindsame Reise durch Frankreich und Italien』(1769)が初出の造語であって、やがてこの頃の文化潮流を表すのに用いられるようになったものです。よくわからない和訳よりもむしろ英語でセンチメンタリズムと言ったほうがわかりよいかもしれません。しかしながら特に音楽史の分野で、あえてこのドイツ語で呼ばれているのは、彼らの国際的なギャラント様式からの逸脱傾向を示すためでしょう。
つまりセンチメンタルでセンシティブな様式であるのですが、そもそもギャラント様式は主情的なものですから、その方向性において別物というわけではありません。ただ、ギャラント音楽は一般に深刻であることを意図的に避けており、重苦しい絶望や苦悩といったものに立ち入ることはありません、優雅でないので。一方、C.P.E.バッハをはじめとするドイツの多感主義の作曲家たちは、基本的にはギャラントであっても、特に緩徐楽章や自由形式の独奏曲でしばしば暗くシリアスな情感を打ち出します。
そして情感表現というものは作曲以上に演奏に関わる問題です。感情についてのC.P.E.バッハの見解は自著『正しいクラヴィーア奏法』(1759/1762)の中に述べられています。
音楽家は自分自身が感動しなければ、他人を感動させることはできない。聴衆の心に呼び起こそうとする全ての情緒の中に自分自身も浸ることがぜひとも必要である。音楽家は聴衆に自分の感情をほのめかすのである。そしてそのようにしてこそ聴衆の心を最もよく動かして共感させることができるのである。
C.P.E.バッハが好んだ「クラヴィーア」は、融通のきかないチェンバロより、未だ黎明期であったピアノよりも、繊細な表現に長けるクラヴィコードでした。
チャールズ・バーニーは1772年に当時ハンブルク在住の彼の家を訪問した際に聴いたC.P.E.バッハのクラヴィコードの演奏の様子について詳述しています。
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私が彼の家に行った時、そこには彼と共に3、4人の知的で礼儀正しい彼の友人たちと、彼の家族、すなわちバッハ夫人と、法学生である彼の長男、そして彼の娘が居た。私は入ってすぐに彼に連れられて階段を上がり、大きくエレガントな音楽室に招かれた。そこは150以上の著名な音楽家を描いた絵画や素描や版画で飾られていた。そのなかには多くのイギリス人もあり、油彩による彼の父や祖父の肖像画のオリジナルがあった。私がこれらを鑑賞した後、バッハ氏はお気に入りのジルバーマンのクラヴィコードの前に座り、3、4の非常に難しい曲を選んで、彼の同郷人より正当にも称賛を得ているところの繊細さと正確さと精神性をもって演奏してくれた。悲劇的で遅い楽章で長い音符を弾くときであれば、彼は楽器から悲嘆と悲哀と苦悩とを見事に引き出していた。それはクラヴィコードのみが引き起こし得るものであり、あるいは彼だけに可能なものだろう。
エレガントに供された美味しいディナーの後、私は再び彼にクラヴィコードの前に座るよう説き伏せ、そして彼は夜の11時近くまでほとんど休みなしに演奏した。その間、彼は生気に満ちて「取り憑かれた」ようになり、演奏をしているというだけでなく、霊感を得ている者のようであった。目は座り、下唇は垂れ、興奮の雫が彼の顔より滴り落ちた。彼はこんな風な仕事がたびたびできるなら若返られるだろうと言った。彼は今59歳。背はやや低く、黒い髪と目に褐色の顔貌は表情豊かで快活な気質を示している。
その日の彼の演奏は私が以前より彼の作品から推測していたことを確信させた。すなわち彼は史上最も偉大な鍵盤音楽の作曲者であるだけでなく、その「表現」において最高の演奏家でもあると。同じぐらい速く弾ける人もいるだろう、しかし彼はあらゆるスタイルをこなせるのだ、彼が主に表現に専念しているにも関わらず。私が思うに、彼の熟達は(彼が望めば)その父親をすら凌ぐものであり、旋律の多様性については遥か先を行っている。彼のフーガは常に新しく独創的な主題によるもので、それが天才的な芸術性をもって扱われている。
彼は他の多くのものと共に、最近予約出版された彼の最新の6つのコンチェルトを演奏してくれた。それは易しくしようと努めた結果、彼のいつもの独創性が犠牲になっているように思えることがしばしばであったが、どの楽章も偉大な音楽家の才能が光っており、これらの作品はおそらく好評を博すだろう。別世界か、あるいは少なくとも別の世紀のために作られたかのような彼の以前の作品に比べれば世間の音楽に似ているから。たぶんその頃には現在難解で不自然だと思われているものも、親しみやすく自然だと思われているだろう。
息子の方のスカルラッティとエマヌエル・バッハの人物には強い類似性が見られる。双方とも偉大にして人気のあった作曲家の子であり、その親は同時代人から完璧さの見本と見做されていたが、しかしその息子たちだけは違って、彼らは名声への新たな道を模索したのだった。ドメニコ・スカルラッティが半世紀前に成し遂げた冒険的な音符の趣味や効果は、他の音楽家が今ようやく辿り着いたばかりであり、最近まで大衆の耳は受け入れなかった。エマヌエル・バッハもそのように彼の時代を超越しているように見受けられる。
バッハ氏は2巻の彼の父親の作品の手稿本を見せてくれた。それは少年時代の彼のために書かれたもので、24のすべての調のフーガつきの小品からなっており、極めて難しく、概ね5声部でできている。これに幼少時の彼は容赦なく苦労させられたのだった。彼は私にいくつかの自作品や、父親の蔵書の3、4の興味深い古い本や音楽の論文を譲ってくれた。そしていつであれ要望の手紙を送れば他も与えてくれることを約束してくれた。
人類の至宝であるその2巻の曲集を見せびらかしたくなる気持は良くわかります。そして彼であってもそれには苦しめられたというのは少しほっとしますね。
彼のジルバーマンのクラヴィコードは、バーニーの別の箇所の記述によれば「30年来の愛器」であるということですから、この「ジルバーマン」は当時活動していた Johann Heinrich Silbermann (1727-1799) ではなく、その叔父でJ.S.バッハの同時代人である所の Gottfried Silbermann (1683-1753) のほうである可能性が高いでしょう(おそらくバーニーも混同している)。
現存するゴットフリート・ジルバーマンのクラヴィコードとして唯一知られているのはマルクノイキルヘン音楽博物館所蔵の一台です。
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これは各キーに独立の弦列を備えるフレットフリー式のクラヴィコードですが、音域 C-e3 で生憎C.P.E.バッハの作品には低音域が足りません。ヨハン・ハインリヒのクラヴィコードのほうは、ほとんどが FF–f3 の5オクターヴのフレットフリー式となります。
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https://objektkatalog.gnm.de/wisski/navigate/48252/view
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繊細な情感表現を旨とする多感主義の高まりとともにドイツでは18世紀中頃からクラヴィコードが人気を博し、それまでのオルガニストの練習用楽器というポジションを脱して表舞台に担ぎ出され、フレットフリーで18世紀フランスのクラヴサンと同じく5オクターヴを有する大型楽器が流行しました。ここからピアノが席巻する18世紀の終わりまでが、中世以来の長い伝統を持つクラヴィコードという楽器の遅まきながらの最盛期となります。
ただし、フレットフリー式クラヴィコードは色々と利点があるものの、弦を共有するフレット式に比べると当然ながら弦の数が大幅に増えるため、楽器にかかる張力が高くなる結果、鳴りっぷりの良さではフレット式に一歩譲るとも言われます。
C.P.E.バッハはこのクラヴィコードの両方式については何も言及していませんが、あるいは自身は音質をとって旧型のフレット式クラヴィコードを使い続けていたという可能性もあるでしょう。ヨハン・ハインリヒの楽器にも音域GG, AA-d3のフレット式クラヴィコードが一台知られています(René Prunières Collection, Chaumontel)。
バーニーの訪問から9年ほど後の1781年頃、C.P.E.バッハ愛用のジルバーマンのクラヴィコードは現ラトビアのクールラントの音楽家、ディートリッヒ・エヴァルト・フォン・グロッタス Dietrich Ewald von Grotthuß (1751-1786) に譲渡されました。
それに際してC.P.E.バッハがグロッタスに送った曲が《我がジルバーマンのクラヴィーアとの別れのロンド Abschied von meinem Silbermannischen Claviere in einem Rondo》H.272、彼の最高傑作の一つです。
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https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/515529
リフレインを繰り返すロンド形式は名残を惜しむ心情に相応しく、そのリリカルな愛惜の調べからは彼の楽器への愛が痛いほど伝わってきますが、それで何故他人に譲ることになったのかは謎です。
グロッタス所有であった現在は失われたC.P.E.バッハの自筆譜には、グロッタスによる付記として、彼が何年もの間有名なそのクラヴィコードをひと目見てみたいと憧れていたこと、幸運にも手に入れられたこと、そしてC.P.E.バッハの書簡より引用した一文が記されていました。
こうしてあなたは私のお気に入りを受け取ったのですから、このソナタもあなただけのものになるよう私の草稿から写しました。これは悲しいロンドを作れるということ、そしてあなたのクラヴィーア以外ではうまく演奏することは出来ないということの証明です。
これは正しくクラヴィコードのためだけに書かれた作品であり、クラヴィコード独特の技法であるアフタータッチでヴィブラートをかける「ベーブング Bebung」が多用されていることからも、ジルバーマンの銘器とはいわずともクラヴィコードで弾かなくてはその真価に接することは出来ないでしょう。
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一方、グロッタスの方でも《ジルバーマンのクラヴィーアを手にした喜びのロンド Freude über den Empfang des Silbermannschen Claviers in einem Rondo》を作曲して返礼としています。
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