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世界史のまとめ × SDGs 第12回 災害リスクと人類のこれから(400年~600年)

世界史のまとめ 

SDGsとは―

「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解決するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
 17の目標の詳細はこちら。
 SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
 一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
 しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
 「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。

***

Q. 人間は自然災害にどう対応したのだろうか?

SDGs 目標11.b  2020年までに、包含、資源効率、気候変動の緩和と適応、災害に対するレジリエンスを目指す総合的政策および計画を導入・実施した都市および人間居住地の件数を大幅に増加させ、仙台防災枠組2015-2030に沿って、あらゆるレベルでの総合的な災害リスク管理の策定と実施を行う。
SDGs目標13.1 すべての国々において、気候変動に起因する危険や自然災害に対するレジリエンスおよび適応力を強化する。
*レジリエンスとは「回復力」「修復力」という意味

危機を乗り越え、新たな秩序に向かう

歴史:あれだけ大きかった国がバラバラになり、各地で個性ある国が新たにでき始めているね。
 とくにこの時期の後半に差し掛かるころには、各地で今までの勢力が衰えを見せるようになっている。

例えば?

歴史:アメリカ大陸では、メキシコ高原のテオティワカンの文明が最盛期には10~20万人もの人口を擁していたけど、この時期の終わりには衰えに向かっていく。
 代わってマヤ文明の都市文明が盛んになっているね。
 南アメリカでは、トウモロコシやジャガイモ農耕を基盤として、アンデス山脈から海岸沿いの都市にあったいくつもの都市をコントロール下に置く国も現れ始めている(注:ワリの王国(下図の紫)、ティアワナコの王国(下図の青))。


 ただし、アメリカ大陸ではこの時期になっても人口が少ない割に食料が豊富な地域も多く、特に北アメリカ大陸では定住型の農業を大規模におこなう地域は限られていた。

メキシコ南部の盆地にも「神聖」とされたスポットをまつる神殿都市があった(注:モンテ・アルバン

 日本では仏教が伝来した頃にあたり、記録によると深刻な食料不足が起きていたらしい。さらに朝鮮半島南部の拠点を失っている。
 代わって日本では中国文化を取り入れた飛鳥文化が、国づくりを進めていくことになる。

 中国では、遊牧民の鮮卑が中国で建てていた北魏が東西に分裂
 北では騎馬遊牧民を束ねていた国家 柔然の勢力が弱まり、トルコ系の突厥に交替している。
 で、中国はが統一することになるね。

隋は「新たな秩序」を「人工的な王都」によって示そうとした。「宇宙の秩序」を「地上」に表現することで、「人間の秩序」をコントロールしようとしたのだ。

 インドでは同じ頃、グプタ朝が滅亡。しばらくは分裂状態が続く。

 西アジアではササン朝が、騎馬遊牧民のエフタルを突厥とともに撃退している。その後はビザンツ帝国との争いで国力を消耗していく。
 その後の西アジアでは、代わって遊牧民のアラブ人がイスラーム教によって広い範囲を統一していくことになるね。

 イタリアでは西ローマ帝国が滅んだ後、ゲルマン人の建てた東ゴート王国が滅んだ。ビザンツ帝国の進出で滅ぼされたんだ。
 その後の地中海北岸では、代わって同時期にブルグント王国を滅ぼしたフランク王国が力を就けていくことになるね。

世界で同時多発的に「文明」が崩壊してますね―。
どうしてこんなことになったんでしょうかか?

地理:気候が寒冷化したことが大きい。
 当時の各地の記録や木の年輪の記録によると、天候が不順になり飢饉に襲われたようだ。

その原因は何ですか?

地理:火山の大噴火が原因といわれているけど、確定的ではない。
 候補としては、東南アジアとジャワ島の間の海峡にあるクラカタウ火山ではないかともいわれている。

 それに同時代には、アフリカを発信源とするペストの世界的大流行も起きたらしい。

SDGs 目標3.3  2030年までに、エイズ、結核、マラリアおよび顧みられない熱帯病といった伝染病を根絶するとともに肝炎、水系感染症およびその他の感染症に対処する。

歴史:前の時代まで栄えていた巨大な国は、大規模な土地で水を引っ張って農業をやって、それで多くの定住する人たちを養っていたタイプの国だったよね。

 それに対して遊牧民は、単独ではどうしても「食べ物をそろえる力」や「物をつくる力」は定住型の巨大な国にはかなわないわけだ。
 
 でも彼らには「機動性の高い軍事力」という強みがある。
 持ち運び式のテントや料理につかう釜((ふく))もウマに乗せて持ち運んでいたんだ。

地理:でも気候の寒冷化により活動エリアが狭められてしまったことが遊牧民にとって「大打撃」となってしまう。活動エリアを求め、遊牧民が定住民の世界に入っていき、互いの文化をミックスしていく。リミックスの結果、新しい支配のしくみや協力関係も生まれていくことになるんだ。

 ただし、それはユーラシア大陸だけに限った話で、大規模な農耕集落や武装した遊牧民のいなかったアメリカ大陸ではユーラシア大陸のような広くて巨大な国はなかなか現れていない。
 逆に考えれば、農耕に頼らなくてもやっていけるほど、食料資源が豊かだったわけだ。

中国では北から遊牧民が移住して、大混乱となっていましたね。

歴史:そうだね。
 北では鮮卑人という遊牧民が中国風の国(注:北魏)を建てていたけど、軍人の力が強まり分裂している(注:西魏・東魏)。
 南に逃れた漢人は独自の王国を建てて対抗するけど、こちらも軍人の力が強く不安定だ。

北と南に皇帝が複数いたってことですか?

歴史:そうだよ。
 これをおさめたのは北の中国の皇帝だ。

 隋という国を建てることが「天の神様の意思だ」という設定で、国をまとめようとしていった。

 まず取り掛かったのは南中国の皇帝を倒すこと。
 物資や人を運ぶために人口の水路をつくった。
 人材を登用するために科挙という試験もはじまったけど、貴族のコネ(裏口入学)や利権(注:荘園)が完全になくなったわけではない。

SDGs目標16.5 あらゆる形態の汚職や贈賄を大幅に減少させる。

 中国は南の方が経済が発展していたから、これによって南の富を北に「吸い上げる」作戦だ。

南のほうが発展していたのはなぜですか?

地理:南のほうが気温も高く、降水量も多い。
 だから農業の生産量も多かった。
 それに、港を通じてユーラシア大陸の西の方と「海上ルート」でつながっているのも利点だ。東南アジアからの船も来航しやすい。

東南アジアから、海のルートを通って北の港に行くことはできないんですか?

地理:中国の沿岸では海流が北から南に流れているから難しいんだ。
 だから、船を降りずに北に行くとなると、内陸に運河をつくって連結させるしかないわけだ。

南北の気候の境目はどこにあるんですか?

地理:1月の平均気温が0度になるラインを引くと、黄河と長江の間の付近に東西の線(注:チンリン・ホワイ川線)ができる。
 つまりこの線より北は平均0度を下回り、南は上回るということだ。
 また、この線は年降水量が800ミリ~1000ミリの線でもある。

 線より南では800~1000ミリの雨が降るから、米の栽培に適するということになる。
 また、線より北では畑作が中心になる。

中国も地域によって気候に違いがあるんですね。
南の方の中国が盛んだったのは、“お隣”の東南アジアから高い値打ちの商品が入ってきたからでもありそうです。

歴史:その通り。

 東南アジアでは、航海のテクニックが高まって、従来のようにマレー半島を陸で横断ルートに代わり、マラッカ海峡を通るルートが盛んとなっています。
 すると、いままでは“田舎”に過ぎなかったスマトラ島・ジャワ島やマレー半島の南に貿易で栄えた港町を束ねる国も生まれるようになるよ。

 同じ頃、太平洋エリア(オセアニア)では空、風、海流に関する知識を頼りにして、風力と浮きを利用した特殊なカヌー(注:アウトリガーカヌー)で東に拡大していた。
 ただ小さな島が多いので大きな政権に発展することはなく、東南アジアとの結びつきは薄かった。

南アジアはどのような状況ですか?

歴史:南アジアにも草原の遊牧民による影響が出ているね。
 エフタルという遊牧民が北インドにまで進出して、統一王国が崩壊。

 一方、イラン高原の王国(注:ササン朝)はモンゴル高原の遊牧民と協力し「挟み撃ち」に成功している。

西アジアは相変わらず栄えていますか?

歴史:豊かな場所である「2つの川の流れる地域」や港町をめぐって、西からは東ローマ帝国、東からはイランの王国(注:ササン朝)が「取り合い」になっているね。

 そこで商人たちはトラブルを避けて、アラビア半島の南側を船で回るルートを取り始めた。
 そうすると、ここにイランの王国や東ローマ帝国も進出しようとしてくるし、アフリカのエチオピアの王国も利益を求めてアラビア半島にやってくるようになった。

 そうなると、アラビア半島の遊牧民であるアラブ人の中からは、平和な取引ができるようにみんなでまとまろうという動きも現れてくるよ。

歴史:アフリカでも遊牧民の活動は盛んだ。

 サハラ砂漠を超えるラクダの貿易が活発になっているからだ。地中海のほうから砂漠を南に進むと、金のとれる産地があるんだ。
 それを砂漠でとれる岩状の岩と交換する取引がさかんになった。

 すると取引ポイントは水のあるところにできるから、サハラ砂漠を流れる川沿いに町ができて、やがて支配者も現れるようになったんだ。

 また、バンツー系の人々はこの時期になると、すでに現在の南アフリカにまで移動をすすめている。彼らは鉄器を使用して森を切り開き、農業も営むことができた。
 狩猟採集生活をおこなっていた先住のコイサン系の人々(下図)は、次第に圧迫されていくことになる。

アフリカでも民族移動が起きていたわけですね。
地中海の北岸(ヨーロッパ)はどんな状況ですか?


歴史
:ユーラシア大陸の西の果て ヨーロッパは遊牧民の侵入をもろに受けている。

ローマ帝国はどうなっちゃったんですか?

歴史:すでにローマ帝国は東西に分かれて、それぞれの管轄に皇帝が立っていた。

 遊牧民たち(ゲルマン人)を押し止めることはもはや不可能になって、ローマ帝国の領土内に国を建てることを認めた。
 で、もっとも手強いフン人という遊牧民を彼らに倒してもらったんだ。

敵に敵を倒してもらったわけですね。

歴史:「夷を以て夷を制す」ともいうやつだね。

 それでも西側のローマはゲルマン人の進出を防ぐことはできなかった。
 東からの遊牧民(注:アラン人)の移動に圧迫され、次々にゲルマン人のグループ(注:ヴァンダル人スエビ人)がよりよい環境を求めて移動していった。そのたびに定住民の生活はおびやかされたわけだ。
 結局西ローマの皇帝はその後、雇っていた遊牧民(ゲルマン人)の軍人に殺され、滅んでしまうよ。

 ゲルマン人たちはグループごとに国を建てていたけど、そのうちフランスの北に建国したフランク人はローマの文化を積極的に受け入れ、ローマを本部にするキリスト教の考え方を採用したんだ。

「遊牧民」っていいますけど、ヨーロッパには草原地帯があるんですか?

地理:いいところに気がついた。
 雨が一定量降らないと木は生えないわけだけど、ヨーロッパは雨がわりと降るから、ユーラシア大陸中央部のような乾燥草原は生えていない。
 だから生活スタイルは半分農業、半分牧畜という形。やがて定住生活が普通になっていく。

遊牧民も、圧倒的多数の低住民を支配するためにある程度「妥協」をしたわけですね。

歴史:代わりに生きながらえるのは遊牧民の被害の少なかった東側のローマだ。
 経済が栄えていたアジアにも近いから、その都にはビジネスマンも多く集まった。

 やがて西側のローマだったところにも進出して、昔のローマ帝国の領土を取り戻そうとしたけれど、結局それはできなかった。
 その代わり、東のローマ帝国は、「かつてのローマ帝国」を受け継ぐ立派な国とされ、キリスト教の教会を守りながら地中海の東半分を支配し続けることになるんだ。

東ローマの皇帝によってキリスト教の大聖堂が建てられた。現在はイスラーム教の寺院として使用されている。

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