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12.2.4 東南アジアの植民地化 世界史の教科書を最初から最後まで

東南アジアに進出したヨーロッパ諸勢力が、初期のころにねらったのは物流ルートの掌握だ。

しかし、しだいに領土をゲットする方向性に転換。
獲得した領土で農産物や鉱産資源を積極的に開発するようになり、それを世界各地に輸出することでもうけようとしたのだ。

エリア別に様子を確認していこう。



ジャワ島(現インドネシア)



ジャワを支配したのはネーデルラント連邦共和国(オランダ🇳🇱)だ。

アンボイナ事件でイングランド王国を締め出した後、ジャワの領土を獲得。

ジャワ各地の勢力はこれに抵抗したものの、しだに圧倒され、18世紀後半にはマタラム王国が滅ぼされた。


ジャワ島の大半はネーデルラント連邦共和国の支配下に入り、19世紀に入ると直接支配のもとでコーヒー、サトウキビ、藍(あい)などの商品作物をトップダウンで栽培させた。
栽培すべき作物の種類、土地、生産量、必要な労働者の数はすべて指示され、買い上げ価格も低く設定されていた。


こうした厳しい支配に反発したジャワの人々は大規模な反乱を起こす。
これをジャワ戦争(1825〜30年)という。

こうした反乱への対処から、ネーデルラント連邦共和国の財政状況が悪くなると、立て直しのためにいわゆる「強制栽培制度」が導入された。作物の買い上げ価格は一方的に定められ、莫大な利益をネーデルラントにもたらした一方、農村では飢饉が頻発し、住民の生活は大変になっていった。



マレー半島


イギリスは、インドを拠点に、東南アジアを通過して、中国への貿易活動を拡大させようと試みた。
18世紀末から19世紀初めにかけて、シンガポールをはじめとするマレー半島の港町を獲得している。

史料 ラッフルズの書簡(1819年)
…われわれの目的は領土ではなく交易です。巨大な商業中心地が、今後必要とあらばわれわれの影響力を政治的に拡大しうる支点が目的なのです。…この海域における一つの自由港は、やがてオランダの独占状態を滅ぼすに違いありません。

歴史学研究会編『世界史史料9』


さらに、フランス革命のときにネーデルラント連邦共和国がフランスに占領されると、ジャワ島も一時占領する。

ナポレオンの敗戦後、オランダ王国が成立すると、1824年にイギリスとの間に協定が結ばれた(英蘭協定)。
これにより、マラッカ海峡を境にしてマレー半島側はイギリス、スマトラ島・ジャワ島側はオランダの領土ということになった。
これが現在の「マレーシア」と「インドネシア」国境のルーツなんだ。



このときジャワ島はオランダ側に返還。

1826年にはマレー半島のペナン、

マラッカ、

シンガポールを「海峡植民地」として一括して統治することが決定されたよ。



1870年代になると、イギリスは港町だけの「点」の支配から、「面」の支配へと方針を変更。

おもに出身地別に組織されて対立抗争をくりかえしていた中国人秘密結社や、マレー人スルタンたちのあいだの錫をめぐる利権争いに介入し、軍事と外交の巧妙な政策によって支配地域を拡大。

1895年にはマレー連合州(フェデレイト=マレー=ステイツ)を結成させ、マレー半島の諸州を間接的に支配。

さらにボルネオ島北部の諸州もマレー連合州にあわせて支配した。




20世紀に入ると、熱帯地方でとれる天然ゴムが、自動車のタイヤに役に立つことが判明。
これによりロンドンで調達されたマネーが東南アジアの天然ゴムの大農園に流れ込んだ。
ここでの働き手として連れてこられたのは、同じくイギリスの植民地であった南インドのタミル系の人々たちだ。

現在のマレーシア、

シンガポールに

インド系の人々が多いのは、このときに連れてこられたインド系移民がルーツなんだよ。



ビルマ


ビルマ(現・ミャンマー)ではビルマ人によりタウングー朝が中国人の反乱をきっかけに倒れた後、ビルマ人の王朝 コンバウン(アラウンパヤー)朝(1752〜1885年)が成立。

コンバウン朝はインド北東部の山岳地帯アッサムにも進出するけれど、インドでの支配を固めようとしていたイギリスは、3回にわたってコンバウン朝と戦った。
これをビルマ戦争(1824〜1886年)という。

勝利したイギリスは、ビルマをインド帝国(イギリスの建設したインドの植民地)に併合してしまう。

ビルマにはビルマ人以外にも、さまざまな民族が分布しているんだけれど、イギリスはビルマにおいても「分割統治」(民族ごとに差をもうけて、互いに争わせ弱らせる支配)をとった。これが現在に至る民族対立の一つの原因ともなっているんだ。



フィリピン



フィリピンにはスペインが進出しており、住民はローマ=カトリックに強制的に改宗させられていた。
政治と宗教を一致させる体制がとられていたのだ。


地方の町や村の支配には、フィリピン人のリーダーをあてて新たな行政組織をつくった。

その後、1834年には欧米の勢力と自由に貿易をする政策に転換し、マニラを正式に開港



これによって、フィリピンで栽培されたサトウキビ、マニラ麻、

タバコといった商品作物の生産が広がると、欧米の主導する世界経済の中の“大切な原料供給地”としての役回りを担うこととなった。


また、商人や高利貸しによって土地が集められ、プランテーションの開発もすすみ大土地所有制が成立した。




ベトナム・カンボジア・ラオス



ベトナムでは16世紀以降、黎朝(れいちょう)が名前だけの存在となってしまい、政治勢力は南北に分裂していた。

そんな中、1771年に圧政に苦しむ農民の不満を背景に西山(せいざん;タイソンの乱が勃発。
南北の政権が倒され、ベトナム地方は統一された。

しかしこれに対して阮福暎(げんふくえい)がフランス人宣教師ピニョー(1741〜99年)がフランスから連れてきた義勇兵や、タイ・ラオスのサポートによって西山政権(1778〜1802年)を打倒。

1802年に南北を統一して、阮朝(げんちょう、1802〜1945年)を建てた。

阮福暎は1804年に清(しん)によって「ベトナム(越南)国王」に任命され、清の制度を導入して行政制度を整備した。


19世紀半ばになるとフランスは皇帝ナポレオン3世の下で「ローマ=カトリック教徒が迫害されている」とイチャモンをつけてベトナムに軍事介入。
1867年に南部を奪い、領土をさらに拡大。
これに対して劉永福(1837〜1917年)が組織した黒旗軍(こっきぐん)は、北ベトナムを根拠地として頑強に抵抗。
しかし、これを口実にフランスは北ベトナムに進出し、1883年にユエ条約を結んで北部と中部も支配下に置いてしまう。




一方、清朝は「ベトナムの宗主権は清にある」と主張して派兵、1884〜1885年にフランスと清の間に戦争が勃発する。
これを清仏戦争(しんふつせんそう)というよ。



その結果、清は1885年の天津条約(てんしんじょうやく)で、ベトナムに対するフランスの保護権を承認。

ベトナムの植民地化に成功したフランスは1863年以後保護国としてきたカンボジアとあわせて、1887年にフランス領インドシナ連邦を成立させた。
1899年にはこれにラオスも編入させている。




タイ



東南アジアのほとんどのエリアがヨーロッパ諸国の植民地となるなか、独立を唯一保ったのがタイだ。

18世紀の終わりに、チャオプラヤー川下流部のバンコクに首都を置き、現在の王家であるラタナコーシン朝チャクリ朝とも呼ばれる)がはじまった。


19世紀前半には「鎖国」政策がとられていたものの、ヨーロッパ諸国から「開国」要求が強まると、19世紀後半の王 ラーマ4世(在位1851〜68年)が政策を思い切って転換。

王室が貿易を独占するのではなく、自由に貿易ができるようになった。
また、ヨーロッパ諸国との外交関係もむすばれ、チャオプラヤー川の三角州(デルタ)で収穫された米が商品として積極的に輸出されるようになっていった。
それとともにデルタの開発も進んでいった。


次のチュラロンコンラーマ5世、在位1868〜1910年)のときには、ともに東南アジアをねらうイギリスとフランスの力関係をうまくはかった。
また、外国への留学や外国人専門家をゲストに迎えて行政・司法改革をおこなうなど、数々の改革をおこなったことで、植民地化を回避することに成功した。
タイ屈指の名君とされる人物だ。




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