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5.3.7 イングランドとフランス 世界史の教科書を最初から最後まで

13~14世紀(今から800〜600年ほど前)以後、ヨーロッパ各国の王様が国をまとめるためにやったことは、領域内の人々を「身分グループ」別にワンセットにして話し合わせること。

身分別にパッケージ化したうえで、それぞれの身分単位の同意を得ようとしたのだ。

この会議のことを歴史学者は「身分制議会」と呼んでいる。



イングランド王国の場合


イングランド王国は、1066年にノルマン人によって征服された経緯がある(ノルマン=コンクェスト)。
ノルマン人の国・ノルマンディー公国のギヨーム公は、イングランド王ウィリアム1世として「ノルマン朝」をひらく。
征服によって成立した王朝ということもあり、王の権力はかなり強かった。

その支配の実態は、ウィリアム1世が徴税の必要から全国的におこなわせた検地の記録(ドゥームズデイ=ブック)をみると、よくわかる。
従来の有力者の持っていた荘園ごとに、土地の保有者、面積、直営地における犂、農民、奴隷、土地の価値などが詳細に記録されている。

資料 ドゥームズデイ・ブック

ケンネットの荘園(★1)はエドワード王(★2)時代に3ハイド(★3)半に評価され、今でも3ハイド半である。ニコルがウイリアムからその荘園を保有している。直営地には5台の犂がある。また7人の農奴と小屋住農が5台の犂をもっている。そこには12人の奴隷がいる。また何の税も払わない1つの水車(粉引場)があり、2台の犂のための牧草地(★4)、また村の家畜のための放牧地がある。これらすべては彼がそれを与えられた時には12ポンドの価値があった。今は9ポンドの価値である。…(後略)


★1 ケンネットはケンブリッジシアにある荘園。
★2 エドワード懺悔王(在位1042〜66)
★3 ハイドは土地に対する課税の単位であったが、しだいにめんせきをしめす単位となり、地方差はあるが、もっとも普通のばあいは、1ハイドは120エーカーの面積であった。
★4 当時の犂は普通8頭の牡牛でひいた。つまりこれだけの家畜を養なう広さの牧草地の意。



(青山吉信・訳、江上波夫監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、37頁)


しかし、ノルマン朝は1154年に跡継ぎがいなくなり、王統が途絶えてしまう。

そこで、血筋の関係からフランス人の諸侯アンジュー伯(はく)アンリが、イングランド王ヘンリ2世として即位(アンリは英語読みするとヘンリになる)。
これをアンジュー朝ではなく、プランタジネット朝という。


もともとフランスのアンジュー地方はおそか、フランスの西半分を支配していたヘンリ2世は、ドーバー海峡を超えたブリテン島のイングランドにまで支配を拡大。
イングランド王国とはいえ、フランスにまたがる大帝国を形成していたんだ。
だから「アンジュー帝国」ということもある。

現在のようにフランス🇫🇷は大陸の国、イギリス🇬🇧は島国っていう分かれ方はしていない。
ブリテン島と大陸にまたがる広大なエリアを支配していたんだね。

)ここまで触れてこなかったけれど、現在の「イギリス」の王様は、ブリテン島にある3地域(イングランドとスコットランド、そしてウェールズ)と、アイルランド北部を支配する。イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド北部はそれぞれ「国」として扱われ、4つの「」が集まって「イギリス」という国をつくっているという設定になっている。とってもややこしいけれど、歴史的に積み重ねられて来た事情が背景にあるんだ。
だから、「イングランド」は「イギリス」の中にある国というわけなので、「イングランド王国」のことを「イギリス」と呼ぶのは、正確さに欠ける。教科書では「イギリス」と呼んでしまっているけれど、ゴッチャにならないように1707年以前(事情は後々わかる)は「イングランド(王国)」と呼ぶことにしよう。


しかしその子ジョン王(在位1199~1216年)はいろいろとトラブルを抱える人物だった。
フランス王フィリップ2世と戦い、フランスの広大な領土を失った上、さらに当時絶頂期にあったローマ教皇インノケンティウス3世によって破門されてしまうのだ。



かさんだ戦費を調達するために税を課そうとしたものの、王に爵位を与えられた貴族(諸侯)たちは一致団結してこれに歯向かった。
結果的に、1215年に「話し合いもせずに、勝手に税をとるな」という内容の大憲章(ラテン語:マグナ=カルタ)を認めさせることに成功。

「生徒の同意なしに、宿題を出すな!」といった感じかな(笑) 

これによってイングランドでは、課税をする場合には、ローマ教会のお偉いさん(高位聖職者)と、ランクの高い貴族(大貴族。ランクの高い諸侯)の同意を得なければならなくなったのだ。


史料 超訳「マグナ=カルタ」

神様のおかげで、イングランドの国王、アイルランドの王、ノルマンディー(北フランスにあるノルマン人の故郷)およびアキテーヌ(フランス南西部のブドウの産地)の公、アンジュー(フランスにあるプランタジネット朝王家のふるさと)の伯であるジョンは、ローマ教会の大司教、司教、修道院長、伯、バロン、判官…およびすべての代官ならびに、忠誠な人民にあいさつを送る。

1.まず第一に、わし(ジョン)は、イングランドのローマ教会の自由を守るよ。そして神よ、わしにはローマ教会の権利をうばったり、自由をうばったりする権力なんてありゃしない。ローマ教会には特権を与えよう。わしが死んだあとも、これは永久に有効じゃ。

12.戦争に行かない場合のお金(軍役免除金)をとったり、臨時でカンパ(御用金)をつのったりすることは、話し合い抜きでは絶対にしない。ただし、わしが捕虜になったり、わしの長男が騎士になる儀式をするとき、それに長女を一度結婚させる場合には、よろしくたのむ(もちろん正当な理由である場合に限る)。
このことは、ロンドン市に対してカンパ(御用金)を募る場合も、同様じゃ。

13.またロンドン市にも、古くから伝わる特権や、ロンドン市への入場料(人や物にかける「関税」)を、わしはちゃんとみとめる。さらにわしは、ロンドン市以外の都市、市邑(しゆう)、町、港にも、特権や関税をかける自由があることを望んでいるし、認めようじゃないか。

第1条
 まず第一に、イングランドの教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。……


第12条
 いかなる軍役代納金も御用金も、わが王国の全体の協議によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。……

第13条
 ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを望み、また認可する。


しかし次のヘンリ3世(在位1216~72年)は、この大憲章マグナ=カルタを無視。
1265年にシモン=ド=モンフォール(1208頃~65年)というフランス系貴族の大反乱が起きた。王は敗北し、ジョンのときの高位聖職者・大貴族の会議に、州や都市の代表がプラスされ、イングランド王国について協議された。これをシモン=ド=モンフォールの議会という。

1295年にはエドワード1世(在位1272~1307年)が、シモン=ド=モンフォールの議会を整え、モデル=パーリャメント(模範議会)を実際に招集。

さらに14世紀半ば(今から650年ほど前)になると、高位聖職者・大貴族は「上院」、州と都市の代表は「下院」に分かれ、経済力を蓄えた「下院」議員の承認なくして法律の制定や新たな課税を決定することはできなくなったんだ。下院には、騎士出身のジェントリ郷紳(きょうしん))という人々が参加した。

彼らのルーツは、もともと「諸侯」の下っ端であった「騎士」。イングランドでは、騎士はしだいに地方(州)の住民をコントロールする地方の”名家”となり、都市の代表と並ぶ勢力に成長していったんだ。

このように、王の権力を制限するためのルール(「憲法」)が制定され、国政を身分別に話し合う「議会」が形成されていった背景には、社会の変化があった。
イングランドでは農奴が領主から解放される動きが早く、商工業も発達してお金を使った取引(貨幣経済)が盛んになっていた。

こうして〈王様が家来たちに土地を与え農奴たちに言うことをきかせる〉古いタイプの社会は急激に変化。
フランドル地方への羊毛輸出などによって”家来”たちのほうが、国王よりも財力を持つ例も出てくるようになっていったんだ。




フランスの場合


フランスではに987年にカロリング朝が断絶して以来、カペー家が王位についていた(カペー朝)。
しかし王といえども、北フランスのパリ周辺エリアを支配するのみで、国内には大所領を持つ大諸侯が割拠(かっきょ)する状況だった。

「伯」(はく)よりも、遠国に置かれた「公」の力が大きいね。



中にはイングランドの王に即位したアンジュー伯のような、すごい大諸侯もいたくらいなんだよ。


しかし12世紀の末(今から800年ほど前)になると、カペー朝のフィリップ2世がイングランド王のジョン王と戦い、プランタジネット朝イングランド王国がフランス西半部に持っていた広大な所領を奪うことに成功。


さらにルイ9世(在位1180~1223)は、南フランスでコントロール不能であった諸侯たちの討伐を開始。
その口実は、「彼らがローマ教会が異端とするアルビジョワ派(カタリ派)を信仰している」ということ。
実際にローマ教皇のお墨付きをいただき、アルビジョワ十字軍を展開した。
同じキリスト教徒どうしであるにも関わらず、異端とレッテルを貼ることで人殺しも許されるということになったのだ。


ルイ9世は、十字軍も指導して第6回十字軍ではエジプト、キプロス島、パレスチナ、ルイ9世がエジプトを攻撃した当時のエジプトでは、アイユーブ朝の君主が亡くなり、配下の軍人であった奴隷(マムルーク)が勢いを増していた。

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この混乱の中、ルイ9世もマムルークの捕虜になってしまう(奴隷軍人たちは、同年1250年に「マムルーク朝」を建国することとなる)。

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捕虜になったルイ9世


その後再びおこなわれた1270年の第7回十字軍で、ルイ9世は蔓延する感染症にかかって病死。
失敗したものの聖王(サン=ルイ、英語だとセント=ルイス)という称号を贈られている。



さらにその孫フィリップ4世は、なんとローマ教皇ボニファティウス8世を生け捕りにし(アナーニ事件)、ローマ教皇本部(ローマ教皇庁)をフランスに勝手に”お引越し”させてしまった(教皇のアヴィニョン捕囚)。



このときフィリップ4世が、国内の諸勢力を3つの身分にパッケージ化し、それぞれの同意を得る形をとった。
この身分別の協議機関を「三部会」という。

またフィリップ4世は、ローマ教皇と結びつきの強いテンプル騎士団を解体し、その富を没収することで財政基盤をかためている。テンプル騎士団は「武装した修道士」のグループ。


十字軍のときに獲得した土地や戦利品をお金に代え、イェルサレムの本部と各地の支店を結ぶ金融ネットワークを発達させ、大商人や国王にまでお金を貸すほどの”多国籍企業”として発展していた。一説によるとフィリップ4世は、借りたお金をチャラにするためにテンプル騎士団をつぶしたのだとも言われているくらいだ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊