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4.1.4 イスラーム帝国の分裂 世界史の教科書を最初から最後まで

ウマイヤ朝はイベリア半島で第2ラウンドへ

750年にバグダードにアッバース朝が建てられると、661年に建てられていたウマイヤ朝の一族はダマスカスから、現在スペインやポルトガルのあるイベリア半島に逃亡。




難を逃れた君主は、756年にカリフではなくアミールという称号を名乗り、イベリア半島のコルドバに都を置き、ウマイヤ朝をなんとか存続させた。

この「ウマイヤ朝 ”パート2”」のことを、海外では例えば「コルドバのウマイヤ朝」、日本では「(こう)ウマイヤ朝」と言うよ。
ちょっとまどろっこしい言い方だけど、我慢しよう。お願いします。



でも、"パート2"とはいえ、ここからが「ウマイヤ朝」の腕の見せ所。

バグダードの最先端の文化をイベリア半島に持ち込んだウマイヤ家の君主(カリフではなく「アミール」)や官僚たちは、心機一転、コルドバで高度な文化を発展させていく。

ローマ・ゲルマン・キリスト教といった要素がイスラーム教のスタイルと絡み合った独特な姿は、二重の馬のひずめの形をした、紅白模様のアーチで知られる巨大なモスク(メスキータ)など、今でも街のあちこちで垣間見ることができるよ。

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アッバース朝のカリフは"絶頂"から"転落"へ

一方、バグダードを100万人都市に発展させ繁栄の絶頂にあったアッバース朝を率いるのは、ハールーン=アッラーシード(在位786~809年)だ。イスラーム世界の幅広い説話をあつめた『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』にも、彼の登場する話がある。




しかし彼が死ぬと、アッバース朝はハールーン「ロス」に。

広すぎる領土を実効支配することは事実上困難になっていく。



まあ単純に、広すぎるんだよね。領土が。



東方向を見れば、イラン高原だけでなく、アム川上流域のソグディアナにまで支配を伸ばしているし、西方向もエジプトやマグリブ地方(現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア。日の沈むところという意味)にまで進出しているんだから。

イラン人や、

ベルベル人にとってみれば、


イスラーム教の教えは時に「アラビア人の文化の"押し付け"」とも映る。

カリフはアラブ人ばかりなのも不公平だし、アラブ人の学者(ウラマー)ばかりが権威ある存在とされるのが、どうも...。



イランではサーマーン朝がアッバース朝から自立

そんなとき、イランで名のしれた名門一族であったサーマーン家が、875年にアッバース朝の名にイランの実質的な支配権を獲得する。

アッバース朝のカリフも認めざるを得ず、サーマーン朝は、現在のイラン北東部(ホラーサーン地方

から、アム川・シル川上流域

にかけてを支配できることになった。都は現在のウズベキスタンにあるブハラだ。

サーマーン朝には自力でアッバース朝に対抗できる勝算があった。
「ビジネス」だ。
サーマーン朝の領域の中には、見て分かるとおりシルク=ロードががっちりおさまっているよね。


北方の〈騎馬遊牧民エリア〉や、東方の〈オアシス商業エリア〉から「奴隷」や「畜産物」を輸入し、「穀物」「織物」「工芸品」などを輸出することで繁栄する。
特に「奴隷」ビジネスは大アタリ。主にトルコ系の騎馬遊牧民をイスラーム教徒の忠実な軍人奴隷にしつけ、商品としてアッバース朝を含むイスラーム世界に輸出したのだ。

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彼らはのちに「マムルーク」と呼ばれるようになり、イスラーム世界の国にとってなくてはならない軍事力となっていく。地方の領域を失って権威が低下し、直属の家来の数が減って困っていたアッバース朝のカリフにとっても必要不可欠な存在だ。
奴隷といっても、手柄を立てたり我が子同然に可愛がられたりする中で、持ち主から解放され、晴れて自由の身になる場合もある。黒人奴隷のようなイメージとはかなり異なることに注意しよう。

しかしながら、カリフの権威低下は止まらない。


エジプトでファーティマ朝が「カリフ」宣言

現在のチュニジアではんきを翻し、経済的に豊かなエジプトに移動して現在にまで続くカイロ(アラビア語でカーヒラ)という都を969年に建設したのは、アラブ人が主体となったファーティマ朝だ。



彼らは公然と、バグダードのアッバース朝のカリフに盾付き、シーア派の中でも特に急進的な一派であったイスマーイール派を掲げる。カイロのカリフは、後にアズハル学院という研究施設として発展。シーア派教義の研究が進められる。


そしてさらに君主は「自分こそがカリフである」と宣言、アッバース朝のカリフを真正面から否定するまでエスカレートするよ(ファーティマ朝君主のカリフ宣言)。

その後即位した第6代カリフハーキム(在位996~1021年)は、数々の奇行で知られ、シーア派のイスマーイール派の教義を厳しく適用、このときユダヤ教徒やキリスト教徒が弾圧されている。カイロ旧市街の北にある凱旋門の内側には、彼が建設させたモスク(ハーキム・モスク)があるよ。


イベリア半島で後ウマイヤ朝が「カリフ」宣言

さらに、イベリア半島を支配していた後ウマイヤ朝(コルドバのウマイヤ朝)の君主(アミール)も、「いやいや、自分こそがカリフだ」と主張したため、なんとイスラーム世界にはカリフが3人存在する状態となってしまう。

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カリフ1、カリフ2、カリフ3。


文字通り"分裂"状態だね。


イラン人のブワイフ朝がカリフの実権を奪う

そんな状況下で、イランのカスピ海南方で軍事勢力が932年国を建てて自立。
これをブワイフ朝という。

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ブワイフ朝は、支配をイランやイラクに広げるため、「スンナ派のお助け隊」であることをアピールしつつバグダードに入城。

アッバース朝のカリフに対して「スンナ派を守るから、私を「アミール(軍司令官)の中の第一人者」(大アミール)に任命してほしい」と迫った。


日本の歴史で喩えるならば、武士天皇に「征夷大将軍」とか「右近衛大将」といった位をおねだりするのに似ていると言ったら、わかりやすいかもしれない。


このときアッバース朝のカリフは、望み通りブワイフ朝の君主に「大アミール」を与えるんだけれど、結果的に大アミールに捕まえられてしまった。
悲惨な結末だね。
次のカリフも大アミールには、怖くて歯向かうことなどできなかった。


この一件によりイスラーム法」(シャリーア)を施行する権限はブワイフ朝に与えられることになった。

こうしてカリフは、法を施行することすらできなくなり、現実的な力の低下に歯止めがかからなくなっていったのだ。



しかし、逆に言えばここからがイスラーム世界が多様性を発揮していく時期とも言える。

「アラブ人」がイスラーム世界の中心であった時代は終わり、「イラン人」「トルコ人」「ベルベル人」など、多彩な民族がイスラーム教の信仰の下、活躍していく時代が訪れていくよ。





このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊