【ニッポンの世界史】#24 世界史にとって、1970年代の「大衆歴史ブーム」とは何か?
1970年代の大衆歴史ブームの担い手は誰か?
まずは前回のふりかえりから。
1970年に高校の学習指導要領が改訂され、世界史A・Bが世界史に一本化されるとともに、「文化圏」学習がはじまったのでした。
改訂された新学習指導要領が実施されたのは1973年からのこと。
これに基づくカリキュラムと教科書により教育を受けることになったのは、1957年より後に生まれた高校生たちです。
1957年生まれは「ポスト団塊世代」ともいわれ、ギリギリ東京五輪の記憶があって、多感な時代に大阪万博を経験する世代ですね。
戦後間もない大衆教養主義の風を一身に受けた世代とは、かなり社会観も価値観も異なって当然です。
1960年代半ば頃まで歴史や文学、哲学が「価値あるもの」として憧れの存在であった時代。この教養主義の流行と1960年代末にかけての没落については以前あつかいましたね。
1950年に18歳であったとすると、1970年はじめにはすでに38歳を迎えていたことになります。
子ども世代のカリキュラムが変わるなか、親世代にあたる「戦後教養主義」世代は、こぞって歴史に関する「物語」を、現代の社会や組織、そして個人の生き方と結びつけながら語り始めます。
ではなぜこの時期でなければならなかったのか。
おそらくこれには少なくとも2つの背景があるでしょう。
一つは高度成長を成し遂げてきた自信、いまひとつは、国際化などの社会の変動期に対する不安です。
自信のあらわれとして、戦前・戦中、あるいは戦後まもなくの日本を描いた娯楽作品が多数あらわれます。なかには、それまでタブーであったような内容にきりこむものもおおくありました。
変動期に対する不安のあらわれとしては、激動の時代を才覚を発揮することで生き抜いた個人と組織との関係を描く作品の流行が挙げられます。
歴史に関する物語を通して、現代の日本を、そして自分自身をとらえかえす。そんな戦後教養主義のもっていた内省的なメンタリティが、歴史の位置付けを変化させ、さらに国内外の情勢の変化を受けて、歴史語りの対象が世界の歴史へと拡張されていく。
そうするなかで、1970年代の「ニッポンの世界史」の特質も変容していったのではないか。
ひとまずそんな仮説を立ててみましょう。
大衆歴史雑誌の発行
1970年代以降の大衆歴史ブームの火付け役となったのは、歴史をテーマとする雑誌群です。
もっとも早いのは人物往来社の『特集人物往来』(1956年1月創刊)で、1960年1月に『人物往来歴史読本』に改称し、しばらくは忍者ものやマニアックなネタが主でありましたが、1970年代に正史路線に切り替えると戦国武将、幕末を扱い部数を伸ばしていきました。1976年には『別冊歴史読本』、1980年には『歴史読本スペシャル』といった特別増刊も発行されています。
後続のものとしては、秋田書店の『歴史と旅』(1974)、中央公論社の『歴史と人物』(1984)があります。
いずれも専門的な学会誌とは一線を画し、流行している小説などを切り口に、戦国時代や幕末の梟雄、戦乱の推移などがクローズアップされました。
『歴史と旅』を例に挙げ、どのような内容が、どんな執筆陣によって書かれたものであったのか見てみます。
執筆には作家や在野研究者のほかに、第一線で活躍する日本史研究者も多く寄稿していることがわかります。
小説についての記事があると思ったら、硬派な中世の政治体制論に関する学説の紹介があって、さらに史跡をめぐる旅の記事あり、合戦の分析の記事もあり。
読んでいたことのある人ならわかると思いますが、歴史をエンタメとして面白く紹介する特集と、専門的な研究者による分析が横並び一線で ”ごった煮” のように同居するつくりになっていたわけです。
松本清張の想像力
1974年3月号の巻末では、「任那王朝と倭人国との関係」と題して小説家・松本清張(1909〜92)が「騎馬民族征服王朝説」で知られる歴史学者・江上波夫(1906〜2002)と日本古代について語っているのも目を惹きます。
『点と線』(1958)でデビューし、『小説帝銀事件』(1959)、『ゼロの焦点』(1959)、『砂の器』(1961)など、高度経済成長を生きた人々の不安を受け止めるような社会派のヒット作を連発した松本は、同時に『無宿人別帳』(1958)といった時代小説も執筆し、国民的作家となっていました。
そんな松本は1960年代末に日本古代史への関心を寄せるようになります。1973年の『古代史疑』では「魏志倭人伝」の謎に挑み、「邪馬台国」ブームをもたらしました。1976年からは『清張通史』(〜1983)も刊行しています。
なお、1974年には大和書房から古代史専門の雑誌『東アジアの古代文化』も創刊されています。
古代史ブームは「東アジア世界」の交流への想像力を掻き立て、奈良時代の仏僧・玄昉(げんぼう)のみた長安や奈良を描いた『眩人』という異色の長編小説も世に出しています(1977〜80『中央公論』連載、1980中央公論社刊行)。ここでみられる松本のゾロアスター教への関心(ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説)は、歴史学者・伊藤義教(1909〜96)の教えを乞いながら仕上げた推理小説『火の路』(1973〜74『朝日新聞』連載、1975文藝春秋刊)でも描かれていました。
古代日本にペルシアの影響が流れ込んでいるという同様のモチーフは、司馬遼太郎にもみられるもので(短編「兜率天の巡礼」という短編(『近代説話』第2集、1957年12月掲載))、古くは明治生まれの言語学者・佐伯好郎(1871〜1965)やギリシア哲学研究者の木村鷹太郎(1870〜1931)にまで遡ることのできるものです。
日本と西アジアを直結させる想像力によって世界史を描こうとする試みが、2010年代以降再び活性化しているところをみると、これはこれで別個でとりあつかうべき話題ではあります。
歴史小説の流行:「余談」と通勤との親和性
大衆歴史ブームを支えていた層には、サラリーマンだけでなく、企業などの組織で中堅以上を占める者も多く含まれていました。言うまでもなく多くが男性です。
当時人気のあった歴史作家は、先ほどの松本清張のほかに、なんといっても司馬遼太郎でしょう。
司馬という作家は、「余談」という形で、しょっちゅう作品にとびだしてきます。「余談」は関川夏央(1949〜)の言葉を借りれば「読者に歴史というものを忘れさせないための仕掛け」であり(関川『おじさんはなぜ時代小説が好きか』集英社、2006)、「物語ること」と「批評すること」を両立させる装置でもあります(オウ・ケンホウジェームズ「歴史と文学の間」)。
幻想的なファンタジーではなく、「歴史」をつよく意識させる姿勢が、教養主義をくぐった中年層の心を打ったのです。
司馬作品が1970年代にサラリーマン層にひろく読まれるようになったのは、通勤時に手に取りやすい文庫版が刊行されはじめ、歴史の教養に誘う「余談」の断片と、主人公への共感を誘う話の本筋の両者が組合せられた構成が、「テレビ」的な細切れ読書にフィットしていたからだと福間は指摘しています(福間『司馬遼太郎の時代』中公新書、2022年、172-173頁)。
代表作とあおがれる『坂の上の雲』(1969〜72)、『花神』(1972)、『翔ぶが如く』(1975〜76)が次々に書き上げられていきました。いずれも激動の時代に、才気あふれる個人の組織における苦悩と活躍を描いた作品です。歴史家の磯田道史が「非合理的な組織と化した日本陸軍を作った非常に合理的な人物との邂逅。それが「花神」という傑作を生みだした原動力だと思います」と述べるように、司馬にとって重要なキーワードは「合理性」です。そこには「不合理」へとずり落ちていってしまった日本軍兵士としての経験が強く刻み込まれています。
また、『真田太平記』(1974〜83)の池波正太郎(1923〜90)、『ふぉん・しいほるとの娘』(1978)・『ポーツマスの旗』(1979)の吉村昭(1927〜2006)、『黄金の日日』(1978)の城山三郎(1927〜2007)もこの時期にヒット作を世に送っています。それぞれに戦争体験を持つ作家たちは、作品のなかにそれぞれの戦争の記憶を投影させていました。
司馬遼太郎が「暗い昭和」のコントラストとして「明るい明治」を描いたように、戦国や幕末、明治期を扱っているようでいて、実は戦争の経験や現代日本をとらえかえす内省の契機が用意されているものも少なくありませんでした。
ビジネス的教養主義と「参謀」史観
しかし、その受け皿となる中高年の関心は、戦争に対する批判的精神というよりは、変動する世界経済を「日本的経営」でどのように生き抜くかという処世術や経営論のほうへと傾むいていきます。
1970年代は、これまでの職員・工員の二本立ての採用を改め、前者的な配置転換によって労働争議を防ぎつつ、正社員の雇用をなるべく維持しながら非正規雇用や下請けを契機の調節弁としていく「日本的経営」へのシフトがすすんだ時代です。
『不確実性性の時代』(ガルブレイス、1978)に対応し、これまで以上に柔軟なはたらきかたが求められる中、司馬の描く「変化を創造する」主人公の力を、男性サラリーマンたちは「変化に順応する力」と読み替えます。
もはやそこにはかつての「教養」の持っていた内省や批判的精神のおもむきはなく、「ビジネス的教養」というべきものに変わっていました。
あえて「実利」にむすびつかないものに対する学びを「教養」と呼ぶならば、激動の時代を型破りに生きた歴史的人物の姿を通して、一方では組織のなかでの昇進を夢見て「人格」を陶冶し、他方で組織の枠から龍馬のように抜け出してみたいという夢のはざまに、みずからの姿を重ね合わせる。そのツールとして、企業人は教養を求めたのではないでしょうか(福間『司馬遼太郎の時代』中公新書、2022年、196-97頁)。
そうした受け手の変化は、あるいは一方では、司馬遼太郎の作品を、ますますナショナリズムの発露に接近させていくこともなりましたし(これについては1990年代のところでまた述べることにします)、大衆歴史ブームの質の変化をもたらしていきます。
たとえば1978年には管理職層を読者層としていた雑誌『プレジデント』が、歴史人物路線へ転換し、6月号が「海軍式マネジメントの研究」と題して、戦史を通して現代の企業経営にとって有益な教訓をみちびきだそうという特集が組まれています。
このテーマは好評を博し、その後も1983年には新撰組の土方歳三や連合艦隊参謀・黒島亀人らをとりあげた特集「現代の「参謀学」」など、1990年代にかけて何度も企画されました。
同時に、大衆歴史ブームは「知を断片的に消費する態度」につながる側面ももちあわせていたという福間良明の指摘も重要です。
いずれにせよ、これら大衆歴史雑誌を入り口として、研究者や教員をこころざした者も少なくありませんでした。寄稿されていた教授の所属大学を志望校にし、実際に研究室に所属するにいたったという諸先輩の話もよく聞きます。
これらを支えていた専門知と教養知をむすびつける媒体であったといえます。
1970年代の大衆歴史ブームから「ニッポンの世界史」へ
このように1970年代には、中年男性を中心に歴史小説が読まれ、大衆歴史雑誌が部数を伸ばし、サラリーマンのみならず経営者もこぞって歴史を参照して企業経営や組織人の在り方について語るようになりました。
「企業のトップが歴史を語る」「歴史はおじさんのもの」というイメージが深まったのも、この時期のことからです。
しかし、いまだ人々は「世界史」のほうを向いてはいません。
参照される歴史の舞台がひろがっていくのは、1980年代以降にかけてのこと。中国、そして世界へと、段階的にフィールドをひろげていくことになります。
その下地がつくられたのが、今回の1970年代であったとみるべきでしょう。
では、中年のサラリーマンや経営者の男性が担った歴史的想像力は、どのように日本から抜け出て中国、そして世界にひろがっていったのでしょうか?
次回は、「大衆歴史ブーム」の想像力を、中国、そしてシルクロードを通り、さらにイスラム圏にまで橋渡しすることに貢献した、ある作家に注目してみたいと思います。
(続く)
その他の参考文献
・轟原麻美「司馬遼太郎「兜率天の巡礼」論 : 幻想小説に織り込まれる戦中・戦後への眼差し」『清心語文』21, 30-44頁
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