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5.1.7 外部勢力の侵入とヨーロッパ世界 世界史の教科書を最初から最後まで

西ヨーロッパで民族移動が続いた

8世紀(今から1300年ほど前)から10世紀(今から1100年ほど前)までのあいだ、西ヨーロッパはいろんな民族がバタバタ慌ただしく移動し、落ち着かない状況となっている。

そんな中、人々の思い描く夢や理想も揺れ動いていた。


古代ローマ時代には、「人間」の美しさや力強さを前面に押し出したアート作品が制作され、人々の関心は現実的な政治や経済に向いていた。
また、都市の議会(参事会)の議員として功績を残すことや、ローマ帝国の軍人や役人としてローマ人らしく生きることが“立派”なこととされていた。

しかし、395年のローマ帝国の「東西分離」、476年の「西ローマ帝国の滅亡」など、長い混乱の時代を経たことで、人々の価値観は一変。

戦争・飢え・病気により無残に命を落としていく家族や友達を前に、不安やつらい“現実”を乗り越えるため、キリスト教の教会の人気が高まったのだ。

それとともにローマ風の価値観・人生観はしだいに「ダサい」ものに変化。
かつて名誉とされたローマの元老院議員や、都市の議員の持つ“ステータス”はガタ落ちとなったし、ローマの神々や政治家の彫像のような写実的なアートも下火になっていった。
大物政治家の私財によって整備されていた都市も、戦乱によって荒廃。有力者たちは都市から逃れ、“田舎”で自給自足暮らしを営むようになった。



みずから身の安全を守るには、ローマの軍隊を信頼している場合じゃない。
そんな状況になってしまったら、“民間の軍事組織”に頼るしかないでしょ。

そんなわけでエリアごとに武装した有力者が立ち並ぶ状況となったわけだ。
彼らは支配を盤石(ばんじゃく)なものとするため、有名な王や皇帝の“家来”となる道を選んだ。
ただ、“家来”といっても、王や皇帝が首を突っ込むことにはなかなかできなかった。

現代風の「国」と違い、ある程度広いエリアを統一的に支配する組織というものが存在しないわけだ。


で、そんなところに外部からイスラーム教徒が、フランス南部やイタリア南部侵攻してきた。
また、東方の乾燥草原地帯からは、騎馬遊牧民たちが攻撃を仕掛けてくる。



でもヨーロッパの人々は団結して追い払うことができず、そこをさらに付け込まれる形となってしまった。


ノルマン人(ヴァイキング)がやってくる!

8世紀後半からヨーロッパにたびたび侵入するようになったのは、北ヨーロッパの沿岸部で生活するノルマン人だ。

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彼らの住むヨーロッパ北部のスカンディナヴィア半島(現在のノルウェー、スウェーデン)やユトランド半島(現デンマーク)には氷河の削り取った入り江(フィヨルド)が多く見られる。


アナと雪の女王のお城が建っているところも、このフィヨルドだね。
緯度が高い割に、あたたかい海流のおかげで、たしかに寒くはあるけど割と温暖な気候となるのがポイントだ(西岸海洋性気候)。

夏の間は静かな港町で細々とした農業や漁業を営み、食料がなくなると貿易や略奪遠征に出かけることで生活を営んでいた。


船底が浅く両端がそり上がったヴァイキング船は、大会でも浅瀬でも縦横無尽に航行できる。
ヨーロッパ各地の川をさかのぼって沿岸の都市や集落をねらったのだ。

ノルマン人は、当時のヨーロッパ各地の記録では「ヴァイキング」(語源とされる「ヴィーク」は「入り江」という意味)という呼び名で現れる。
突如として川をさかのぼり、富を要求。
交渉が決裂すると教会や都市が襲われ、西ヨーロッパの人々に恐れられた。



ノルマン人が、現在の北フランスに建国

911年には、ロロ(860頃〜933年)というなんだか可愛い名前の指導者の率いるグループが、北フランスに上陸。



セーヌ川をさかのぼり、西フランクの国王に迫って、海岸周辺のノルマンディー地方を獲得した。
ロロは王の”家来“という形式でノルマンディー「公」の称号を名乗った。これをノルマンディー公国という。

ノルマンディー公国の中には、さらに地中海に進出しようとする者たちもいた。
地中海の物流ルートをねらい、イスラーム教徒たちの商業エリアであった地中海に拠点を築こうとしたのだ。
ノルマンディー公国の貴族は、ローマ教皇の“SOS要請”を受ける形で、12世紀前半に南イタリアとシチリア島のイスラーム教徒退治に乗り出した。
その功績をたたえられ、南イタリアとシチリアの支配を認められて建国されたのが、両シチリア王国(ドゥエ=シチリエ)だ。
「両」というのはナポリを中心とする南イタリアとシチリアの2エリアを指す呼び名だ。




ノルマン人がイングランドの王様に!

さて、ノルマン人たちが進出したのは南方向だけじゃない。
8世紀後半から、ゲルマン人の一グループ アングロ=サクソン人がブリテン島に建てていた7つの王国(七王国;ヘプターキー)も、しばしばノルマン人の侵入を受けるようになっていた。


七王国は829年に、そのうちの一つウェセックス王国の王エグバートによって統一。
これがイングランド王国だ。



9世紀末(今から1100年ほど前)にはアルフレッド大王(在位871〜899年)が、一時かれらを撃退したものの、1016年にはノルマン人の一派デーン人(現デンマーク地方のノルマン人)の王クヌート(カヌート;在位1016〜35年)がブリテン島を征服。
北海(ほっかい)周辺のブリテン島、デンマーク、ノルウェーをまたにかける帝国を建設した。
これをクヌート帝国(北海帝国)ともいう。


クヌートが亡くなると、ブリテン島にはアングロ=サクソン人のイングランド王国が復活。
しかしその後、今度はノルマンディー地方のノルマンディー公国が、大軍を派遣してブリテン島を乗っ取ってしまう大事件が起きたのだ。

ノルマンディー公のウィリアム(在位1066〜87年)が、イングランド王国の王様の位を要求し、即位。
フランスの“家来”が、イングランド王国の国王になったわけだ。



この“のっとり事件”のことをノルマン=コンクェストというよ。
イングランドの港に上陸して戦うノルマン軍の様子は、11世紀後半(今から900年ほど前)につくられたバイユーの刺繍画(なんと70mもある)に、生き生きと描かれている。



ちなみに、ノルマンディー公とその“家来”たちは、現在のフランス語の「古語」を話していたので、このとき以来、イングランドで話されていた英語の「古語」に、フランス語系の言葉がブレンドされた。英語のスペルと読みが一致しないのは、このときに外来語であるフランス語の「古語」を、たくさん取り込んだことに原因があるんだ。


イングランドに上陸したノルマンディー公はイングランド王ウィリアム1世として即位。
現在と違って国と国、国民と国民の違いはあいまいで、ウィリアム1世にとっては「新しい領土を手に入れた」という感覚しかなかっただろう。

もともとブリテン島にいたイングランド人たちは、“家来”としてウィリアム1世に従った。
「島国」だけに、その支配は強力。
支配層のノルマン人もしだいにイングランド人の社会に溶け込み、比較的早くからまとまっていくよ。


ノルマン人はアメリカ大陸に到達していた!

ノルマン人の中には、ブリテン島をさらに北西方向に進んでいったグループもいた。
折しも温暖化を迎えていた当時、漁業のできる海域や農業用の土地確保のために活動が活発化。
アイスランドやグリーンランドにまで到達し、さらに遠くは北アメリカ大陸にまでたどり着いた者もいた。
「アメリカ大陸を発見したのはコロンブス」とよく言われるけど、じつは約500年も前にノルマン人がすでに行ったり来たりしていたというのだから、彼らの航海技術の高さには驚かされる。



スウェーデンのノルマン人はロシアの「ルーツ」をつくった


一方、現在のスウェーデン周辺にいたノルマン人の一派は、リューリク(?〜879年)というリーダーに率いられ、ロシア方面へと移動した。

「ロシア」は現在、ユーラシア大陸の東西にまたがる巨大な領土を持っているけど、そのルーツは黒海・バルト海に挟まれたエリアだったんだ。


スラヴ人の一派である東スラヴ人が、狩りや採集のほか細々とした農業を営んでいた地域にあたる。古くから黒海とバルト海を結ぶ交易ルートにあたり、北からはニシンや毛皮・木材が、南からはアジアや地中海の産物が運ばれていたんだ。

その後7世紀にイスラーム教徒が西アジア一帯をまとめてからというもの、イスラーム商人も北方の珍しい産物を求めて取引をしにやってくるようになる。

そんな中、リューリクたちはバルト海への貿易ルートの拠点であるノヴゴロドという都市を征服。862年にノヴゴロド国を建てた。


……ヴァリャーグ人(★1)を海の彼方かなたに追い払い、彼らに貢物を納めず、みずからおのれを領し始めた。しかして彼らの間に正義なく、氏族は氏族に歯向い、彼らの間に内乱があり、みずから互いに戦い始めた。そこでみずから互いの間で決めた。「われらを領し、おきてに従って裁くような公を探そうではないか」と。しかして海の彼方のヴァリャーグ人のもとへ——ルーシ(★2)のもとへおもむいた。……ルーシに向かってチュージ、スロヴェン、クリヴィチおよびヴェーシの諸公はいった。「われらの地は広大であり、豊かであるが、そのなかには秩序がない。来たって君臨し、われらを領せよ」と。…
★1 本来ビザンツ帝国に仕えた傭兵。ノルマン人が多かったことから、ノルマン人の総称となった。
★2 スウェーデンのノルマン人、ルス(ルーシ)ともいう。
(出典:阿部重雄・訳『ロシア年代記』、江上波夫・監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、39頁)




それに飽き足らず、さらにオレーグというリーダーの率いる一派が南に移動し、キエフという拠点を獲得。ここに882年頃キエフ公国という国を建てた。

当時の記録によると、もともとここにいた東スラヴ人の一派が“仲間割れ”をしている中、外からやってきたノルマン人を君主に建てる形で建国したのだという。

ノルマン人たちの一派はルーシと呼ばれ、やがてノヴゴロド国やキエフ公国の人々もルーシと一体化していった。

キエフ公国はやがてこれらルーシたちの中心的な国家となるけれど、のち15世紀になると、この地域覇権は北部のモスクワの東スラヴ人たちに移ることとなる。
現在のロシアの直接的なルーツは、このモスクワを拠点とする人々。
彼らは自分たちは「ルーシ」の後継者だと主張したけれど、キエフのあるウクライナの人々は「いやいや自分たちがルーシだよ」と真っ向から対抗。
われわれにとってはわかりにくい違いだけれど、この“どっちがロシアのルーツか?”問題は、けっこう根深い問題だ。


このようにして北ヨーロッパからロシアにかけての世界にひろがったノルマン人は、しだいにキリスト教を支配のための宗教として受け入れるようになっていく。
ノルマンディー公国、ノルマン朝イングランド王国、両シチリア王国は、ローマ=カトリック教会を受け入れ、ノヴゴロド国、キエフ公国はギリシア正教を受け入れた。
現在のスウェーデン、ノルウェー、デンマークの国旗には「十字架」がデザインされていることからも、キリスト教と関わりがあることがわかるよね。

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“侵入者”であったノルマン人は、こうしてヨーロッパのメンバーの一員となっていったわけなんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊