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心地良い物語と <人の形をした人> : 映画版「キャッツ」1

映画版「キャッツ」は、私たちが普段、いかに「気持ちの良い映像」ばかりを見させられているかに気付かされる、前衛映画だった。

ストーリーの存在しない詩を舞台として成立させるため、グリザベラというキャラクターとわずかな「舞台装置」を付与した舞台版「キャッツ」。その舞台を映画に据え置くため、映画版「キャッツ」では様々な工夫が凝らされている。

その様々な工夫は、少しずつ外れていく技術的制約の中で、私たちがこれまで見たことのない映画体験をもたらしてくれた。

この映画でもっとも混乱する部分は、猫が人間の、人間が猫の形をしていると<ではなく>、常に画面上に不在の人間が描かれているところにある。舞台では省略され、猫「であり」人間のシンボル、アレゴリーと解釈もできたジェリクルキャッツたちは、ある台詞回しでは人間のように、ある場面では猫のように私たちに語りかけ、私たちは猫のメイクをし、猫の演技をする人間たちの上に、人と猫とを重層的に鑑賞してきた。

しかし、この映画では、ヴィクトリアを投げ捨てる腕に、ゴミ捨て場に、パブに、またその建物のサイズに、人間の存在が示唆されている。ということは、今ここで歌い、踊っている、猫の特殊効果を加えられた人間は、映画の中では完全に人間ではないらしい。この奇妙な出で立ちの生き物は、その生き物がどうやら演じているように、猫なのである。

しかし、その猫から視線を外した先にある巨大な建物:日中は人が生活しているであろう建物 からは、人間の存在が理解できる。この世界にはおそらく、私たちの住む世界と同じように、人が存在している。そしてその人は、おそらく人の形をしているのだ。人の形をした人の気配を感じるたび、私たちは目の前で乱舞する生き物の存在を捉え損なう。

乱舞と歌唱に没入し、奇妙な生き物が織り成す猫の物語を見、それが示唆する先にある人の物語を映画から読み解こうとすると、巨大なゴミ箱の後景に張り付いた人の形が、その枠組みの足元をすくう。だとしたら、この生き物はなんなのだろう。この世界の人は一体何をしている? 不在の人への想像力は、私たちがいかに、人によって作られ、人によって鑑賞されてきた物語の中でたゆたってきたかを、穏やかに指摘する。

この映画は、人が作り出し、いつのまにか内に染み込んできた物語や映画の枠組みを明らかにする。そしてその先にある、未だ見たことのない感覚に混乱し、私たちはこの映画について語る言葉を失うのだ。


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