「過労死の国」
今朝、お客様や友だちから立て続けにこんなDMが届いた。
疲れすぎている、過労で寝込んでいた‥‥
仕事では当然っちゃ当然だが、プライベートでもまあきく話だ。そんなこともあり疲れとの付き合い方、みたいなことをよく考える。
僕自身はここ15年、食中毒以外の「体調不良」はない。24のとき独立して、いわゆる“人の気を受ける”系の仕事をしているけど、皆勤賞かつ無欠勤だ。
そこで今回は、過労死に思うことと、僕なりの疲れのマネジメント術について、たらたらと書いていく。
過労死=Karoshi問題
Sushi寿司やNinja忍者、Sukiyakiすき焼きといった英語化した日本語に「Karoshi過労死」がある。
これは端的に、日本は他の多くの国に無い概念(=働き過ぎて人が死ぬ)を有するCrazyな国であることを意味する。多くの人にとって仕事は生きるための一手段のはずだ。それで死ぬ?手段の目的化ここに極まれり。過労死した人を揶揄する意図は勿論ない。
けれど、この概念のヤバさとはちゃんと向き合うべきだ。厚切りジェイソンもびっくりである
個人的にも(いい意味での)“ズルさ”をもつ人はかなり少数派だと感じる。基本的にほぼ全員マジメで従順だ。不良が足りない。一歩外へでれば互いをじーっと監視し、波風立てぬよう細心の注意を払い、自他境界を溶かして、みんなの意思はじぶんの意思。真夏もサウナもマスクをつけて「自粛」も「コロナ」をも乗り切った。たった一つの「お願い」で。
世界80億人いるというが、地球上唯一にして最強のお人好し民族が私たち「日本人」である。
コロナは、マスクは、教えてくれた。いかに我々が“権威の犬”であり、“空気に支配されている”かを。ここにいて疲れない方がむしろヘンなのかもしれない
‥とまあ「過労死の国」たる所以を概ね書いてしまったのだが、
ではどうすれば疲れとうまく付き合えるのか?その問いに対する自分の考えと意見を続けていく。
コロナ禍において一部の日本人は
“マスク警察”へ転生し、世界を震撼させた
今これらを見ておかしい!と思う人の中にはこの空気を作っていた当事者も相当数いるはず。あなたたち、狂ってます。ハレーションは多分100年消えません。反省しよく考えましょうね
やる気、根性、精神論を重んじる戦後の日本教育において「逃げは悪」「我慢は美徳」「世間体第一」など謎の観念が刷り込まれ
手段だったお金や労働はいつのまにか目的と化し、優先順位を見失い、過労でココロとカラダを病み、自死や病でいのちを落とす‥
控えめにいってイカれた文化「Karoshi 過労死」は爆誕した。(“Zangyo 残業”もあるようだ。流石にクールジャパンが過ぎないか)
そんな「空気の国」日本育ちの我々は、とにもかくにも“サボり”が苦手。だが、いざ少しサボってみると「たいして問題が無い」ことに気づける。
そりゃそうだ。一つ歯車が抜けたとて、会社も社会もとまらない。
高校時代、早朝に家を出る僕に調理師をしている母はほとんど毎日弁当を作ってくれた。心から感謝している。が事実として僕から「作って」と頼んだことはない。
母が体調を崩した時は代わりに500円とか千円を渡された。それでなにか問題があるかというと、ない。むしろ好きな物が買えてラッキーと思っていた。母が休んだとき、僕の「満足度」は変わらない(か時にちょっと上回る)。大抵のことも、こんなもの。
たぶん母にはどこかそうしなきゃ!そうあるべきだ!みたいな強迫観念まではいわないけど使命感的なモノに駆られていた部分があったと思う。あとは“まごころ”“思いやり”みたいなことだろうか。ただ、思いやりと自己満は紙一重である。
家族より早く起きて準備してご飯を作って、それを何年も何年も毎日続ける、到底自分にはできない相当大変な作業だなあという純粋な考えから(そして正直たまになくても平気なことから)、休んでも問題ないと本人にも伝えていた。それでもなんか休まない。
そういう勤勉プログラム的なものがあるのかもしれない。それに人生においてときに負荷をかけて“走る”ことも必要かもしれない。
けれどちゃんと自覚することも必要だ。その同一線上に「Karoshi 過労死」があることを。カラダはよくできていて、ちゃんとアラートを出してくれる。それを無視してしまったら、あまりいいことは起こらない。そしてなにより、あなたがすこし休んでも、取り巻く環境は変わらない。別になんとかなる。良くも悪くも。
重要なのは、休んでも平気と思えるか、あるいは先に述べた“謎の観念”を捨てられるか
つまりはほぼ自意識の問題である。ハッキリいってまわりの問題ではない。
程度問題であるし難しいが、とにかくカラダ壊すくらいなら、死ぬくらいならサボればいいし、飛べばいい。やすんで回復した方が、その後もまわりに貢献できる。
過労死の国における“サボる”&“頼る”重要性
お客様と話していると「腰が痛くても休めない」とか「夜中の3時まで働く」とか、シンプルに無理し過ぎだと感じる方もいる。
もはやバイオメカニクス云々とか姿勢がどうとかそういう次元の話ではない。それでも任せてくれた以上、結果を出さねばならないし最終的には出すのだが。
キャパを超えた状態に自覚的であり、かつ一時的であればまだしも、メドも際限もなく負担をかけ続ければカラダもメンタルも壊れるのは当然だ。
すでに“寝たきり”へ片脚突っ込んでいるような時ほど、慢性化した異常ほど、その状況を正確に捕捉できなくなる。どんどん解像度が下がっていく。逆につねに調子が良ければ些細な変化に敏感で、芽をつむこともたやすい。
冒頭の友だちも、真面目か不真面目かでいえばあきらかに真面目だ。自分でもいっている。
君マジメだからね〜と皮肉っているのも気づかないくらい真っ直ぐないわゆるイイヤツ。だからこそ心配だ。しばらくあってないし見たわけでもないが、会話の端々からも、どこがというよりなんとなく全体的に疲れ、けれどもそのまま仕事も家事もがんばっている様子が伝わる。
肉体は事情を汲んでくれるワケではない。やはりそれなりの反応をあらわす。
“過労死の国”では感覚がバグりがちだが、そもそも無理やガマンそれ自体は評価されることではない。どちらかというと体調管理のほうが重要な仕事にも思う。
それに意外とみんな知らないが、案外ひとは頼られるのが好きだ。以前引っ越しをしたとき2日前まで片付けも荷造りもなにひとつしていなかったが、同期と兄を呼び丸1日で家具の売却と掃除までを終え、翌日運んでもらい、僕は同期に焼肉をおごる以外ほぼ何もせずおわった。頼ったことに感謝してほしい
頼めば誰か助けてくれるしぼくも相談されればのる。もっと頼って、サボりましょう。持ちつ持たれつ、Take it easyってことですね。
悩みを〇〇〇〇〇にしない
過労で自殺した人の遺書にはよく
「どうしたらいいかわからなくて」
と書かれている。過労死には「判断力の低下」というプロセスがあるらしい。
判断力は、肉体的な疲労だけでなく、慢性的な脳のリソース不足になることでも低下する。
脳のリソースを奪うもの。ひとつは「悩み」だ。
悩みは、放置すると、永続的なデバフ(能力低下)状態になる。この状態は、きつい。ムダに疲れるし、鬱や過労死の一因になる。
僕は、悩みはない。なぜなら、悩みを悩みのままにしないから。
悩みというのは、かならず
A:解決すべき課題
B:ウンコ
このどちらかに仕分ける。
例えば「お金が欲しい」という悩み。コレはAの箱に入る。お金が欲しいなら、バイトする、給与交渉をする、副業する、転職する、くれる人を探す、等とるべきアクション(解決すべき課題)がある。それをする。
次に「死にたくない」という悩みについて、コレは、Bだ。人間はいつか死ぬ。死にたくないといった自分で解決もできないし、考えても仕方のない悩みは、ウンコみたいなものである。流して綺麗さっぱり忘れる。
すると悩みはなくなる。これライフハックね。
悩みはきちんと仕分けましょう。さすればあなたの脳には「余裕」がもたらされます。ムダに疲れることも、減ります。
それは課題?それともウンコ?
まとめ
疲れをマネジメントする上で
①頼る努力
②サボる努力
③悩みの仕分け
コレらは重要かもしれない。
特に日本人は②が苦手な気がする。変なところで、要らないマジメさを発揮する癖がある。欧米人を見習おう。あいつらスゲーいい加減じゃん。まあ“抜き所”をわかっているんだろうけど。
上がりすぎたハードルを下げて“休んでも平気”という成功体験を積めば、がんばり方も変わると思う。力を抜けるようになる。
僕が普段接する「立てません」「歩けません」「寝たきりです」みたいな腰痛や坐骨神経痛を抱える方に、まず何をするかというと、“脱力”できるようにすることだ。筋トレではない。がんばらせない。まず脱力。
力さえ抜ければ、そこからはどうにでもできる。自分もまわりもいまよりだいじにできる。
自分をだいじにできないひとは他人をだいじにもできやしない。
おまけ
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