女のいない男たち

2014年の短篇集。

「ドライブ・マイ・カー」
渡利みさきは車の運転をすることで、禅の境地に達するように(本文通り)主人公である家福の話をただただ受け止めていく。みさきだからこそ、家福は話せたのかもしれない。
僕はだいたいこういった「無為」でいられる登場人物にいつも心を惹かれる。おそらくそういう人に憧れているのだろう。
「相手を本当に見るためには自分を深く見つめる」というのはこの短篇集のひとつのメッセージになっているように思う。

「イエスタデイ」
主人公である木樽は「後天的に関西弁を完璧に習得」した関東人。変わった人物。
これは発達障がいの一種なのだろうか。しかしそんな木樽も何かを必死に求めている。
木樽はイエスタデイにこんな歌詞をつけている。
 昨日は/あしたのおとといで
 おとといのあしたや
(ところで嘉門達夫さんのイエスタデイの替え歌もありましたね)

「独立器官」
渡会医師も上記の木樽と同様に変わった人物。
なにかにつけ人生には「支払わされるものがある」ということかもしれない。
いわゆる著者の短篇小説によくある「事実に近い話を著者が聴き手(書き手)」となるパターン。いつもながら聴き手としても秀逸…。
渡会医師の助手が「どうか渡会のことを忘れないでください」と聴き手(書き手)に話し、この短篇が著されたという。『回転木馬のデッド・ヒート』からそうであるように、こういったことは著者にとって一つの役割と感じているのかもしれない。

「シェエラザード」
語ることで過去の記憶をよびおこし、それを味わいつくすことで乗り越えていく、という話なのだろうか。
その次の「木野」でも「記憶は何かと力になります」とあるし、一方で、見て見ぬふりをしてやりすごすとあとあととても苦しむことになる…というのもこの短篇集のメッセージかと感じた。

*****

一度通り過ぎたものについて「もう一度そこにあったものをしっかり見ておいで」と忠告してくれる人が知らないうちに目の前に現れているのかもしれない。

何かと悲しい読後感ではあったけれど、僕にとってはそういった忠告だったようにも思う。

「まえがき」を読むと、やはり象徴的な作品として巻末の「女のいない男たち」が短篇集を編む際に新たに書き下ろされている。

「共に傷つこう」と言ってくれているようにも感じた。

*****

【著書紹介文(単行本の帯の裏より)】
絡み合い、響き合う6編の物語
「ドライブ・マイ・カー」-舞台俳優・家福は女性ドライバーみさきを雇う。死んだ妻はなぜあの男と関係しなくてはならなかったのか。彼は少しずつみさきに語り始めるのだった。
「イエスタデイ」-完璧な関西弁を使いこなす田園調布出身の同級生・木樽からもちかけられた、奇妙な「文化交流」とは。そして16年が過ぎた。
「独立器官」-友人の独身主義者・渡会医師が命の犠牲とともに初めて得たものとは何だったのか。
「シェエラザード」-陸の孤島である「ハウス」に閉じ込められた羽原は、「連絡係」の女が情事のあとに語る、世にも魅惑的な話に翻弄される。
「木野」-妻に裏切られた木野は仕事を辞め、バーを始めた。そしてある時を境に、怪しい気配が店を包むのだった。
「女のいない男たち」-ある夜半過ぎ、かつての恋人の夫から、悲報を告げる電話がかかってきた。

(書影は https://books.bunshun.jp より拝借いたしました)

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