彼女の思い出/逆さまの森

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2週間ほど前に発売されたサリンジャーの新たな訳出本。本国アメリカでは出版されていないとのこと。

新潮モダンクラシックスのシリーズで、サリンジャーのこの装丁と訳者(金原瑞人さん)といえば、『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』に続いて2つ目という感じ。

※サリンジャー関連の過去の濃厚な投稿はコチラ!
https://note.com/seishinkoji/n/n5ab49194e02a

サリンジャーの小説は日本語で読みうるものはすべて読んでいる(+分厚い伝記みたいなのも1冊よんだ…と思ったけど、この投稿のあとにすべては読んでいないことが判明)ので迷わずこれもゲット。これらは『フラニーとズーイ』に代表されるいわゆるグラース家の物語でもなく、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に代表されるホールデン君ものでもない。

まず、金原瑞人さんの訳が読みやすい!これはいうまでもなく、村上春樹さんや柴田元幸さんのサリンジャー訳と同様にそう思うし、そうでない訳者と比べてもわかるという意味で。

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サリンジャーの小説は、少年から青年ぐらいの迷いや戸惑い、その混乱がありのままにみずみずしく描かれていていることが多い。戦争体験も小説によく表れている。今回の作品群もそう。
深刻であってもユーモアや、皮肉、皮肉への応戦、くすっと笑わせてもらいながらもそれぞれがそのままにまっすぐに一所懸命に生きているのが伝わってくる。この例えが良いのかわからないけれど、マッチョ系ヘミングウェイの『老人と海』といったものとちょうど対極にある感じ。

ホールデン君ものや、フラニーとズーイ、バナナフィッシュの一連の物語それぞれに感じることとして、無垢の描かれ方がすばらしいし、とにかく会話が良い!(金原さんがここは上手に訳してくださってるんですよね)

正直なゆえにわけのわからない方向に進んでしまうのはサリンジャーも一緒だったのかもしれない。

ちょっと最近、いやなことがあったんだけど(このnoteを書いている僕の話)サリンジャーの登場人物たちに会うと自分のことを許してあげられるような気持ちになる。小説を読んでいるというより、サリンジャーという人そのものがいつも浮かんでくる感じ。

9篇目の「逆さまの森」だけは100ページほどある(中篇ぐらい?)。天才芸術家(詩人…あるいは狂気の人)と正気の人(正気ゆえに何度も気を失ったりする)とのコントラストにさらにもう一人の奇妙な登場人物がそれぞれアンバランスに絡み合い、なんだかぞっとするような展開になっている。

サリンジャーっぽくなくて、カポーティの「無頭の鷹」の時のような読後感。
その読後感というのは、事態を真正面から受け止めるがゆえに翻弄されて、憔悴しきってしまうというもの。

本作の「ぼくはまた、あの脳といっしょにいるんだ」というセリフは、カポーティの無頭の鷹でいうところの「デストロネリさん」みたいな不気味な響きがある。

「デストロネリさん」…この字づらは相変わらず怖い…。僕の中で怖さナンバーワン。

話を戻して…、正気の人が最後まで正気でいると、それがひとつの軸となるように感じた。帰ってこられる場所というか。その底無し沼に僕も感情移入してしまい、やや変な話だが逆に正気でいる人がいることに安堵をおぼえたりもする。でも一方、狂気の人たちもきっといつもどこかへ帰っているんだろうとも思う。大差はないのかもしれない。

やはりそれぞれを解釈しようとすることではなく、そのまま受け止めてみようというのが大事な気がする。

最後、話は少し大きくなるけれど、サリンジャーという作家はきっとモノゴトをありのままにみようとした人だったのだろう。

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