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『ゆめと悪夢と常識と非常識』

ゆめをみる。それも、悪夢をみる。
今朝はスカイツリーと並びたつような巨大な自転車をこいでいるゆめを見た。何しろ背が高すぎる。目の前でスカイツリーの観光客に手を振りながら、私は余裕で『634号むさしごう』をこいでいた。バッテリー付きの『634号』はらくらくすいすい進んで行く。ゆめという世界は常識と非常識がないまぜになって構築された世界だ。それを疑うことなく暮らしている非常識なゆめのなかの私がいる。

「そこは非常識を良しとしてくれないか」、そんな展開がおとずれることがある。ゆめのなかの私は『634号』に乗りながらブレーキを握り、赤信号で止まった。「その常識はいらなかった」、赤信号で止まった私の左足は空に置かれた。まだ非常識のチャンスはあったはずだ。空に置かれた足で、空を踏みしめればいいのだから。ゆめと悪夢の分かれ道だった。

私の重心は大きく左足にかかっていた。ここで現れたのは『常識』だった。空は私の足を受け止めるだけの『非常識』がなかった。「あ」、と呟いた私と『634号』は、そのままバランスを失って左に大きく倒れた。『634号』も、驚いたことだろう。「なんでなんでなんで」と擬人化した『634号』の声が聞こえた。ゆめの『常識』ほど恐ろしいものはない。いつまでも『非常識」のままで朝を迎えたかった。
ゆめと悪夢の別れ道は誰がどう決めたのだろうか。巨大自転車をこいでる時点で、もう、ほぼコケると決まっていたのだろう。それでもゆめのなかの私は気づかない。

悪夢から生還してきた私は冷や汗をたっぷりかいていた。これに似たゆめを私はたびたび見ているのだと思う。「は」っと目覚めた瞬間に忘れているだけだ。覚えているだけでも、巨大自転車。巨大一輪車。巨大ハシゴ。巨大樹。これらのゆめをたびたび見ている。そのどれもが、ほとんど結末は一緒だった。必ず「倒れる」のだ。それが、悪夢が私にみせる常識なのかも知れない。

もうひとつのゆめがある。このゆめはある程度現実に即したゆめだ。現実の私の非常識な行動が引き鉄になったゆめは、十年以上経っても私に悪夢を見せる。かつて私は恋した女に『詩混じりのラブレター』を大量に書いたことがあった。その量は非常識だったと思う。百枚はかるく超えていたのではないか。内容と文体は私がこのnoteに書いているトーンと変わらない。ユーモア(可愛げ)を入れたラブレターだった。でも、会うたびに数十枚わたすのは非常識だろう。それでも、その恋はいちおう実り一年ほどで枯れて終わった。

悪夢とはそのラブレターだ。ラブレターの山がいっせいに私にラブレターを朗読してくるのだ。一山ずつ朗読するならいい、それは常識だ。けれどこの悪夢は一山から二山から三山と輪唱するように、夜な夜な朗読会を開くのだ。「もう、ラブレターは捨ててくれ」と、すがる私にけんもほろろに山のようなラブレターは、私を無視して朗読会を止めない。

こんな悪夢を見ると、現実の私が別れ際に女に言った「ラブレターはぜんぶ処分してください」が、本当に守られているのか怪しいと思えてくる。ぞっとする。犯罪に抵触するような内容のラブレターではないと誓って言えるが、比喩的な恋の表現はただ一人の女の文章読解力を信じて書いたところもあった。なにより、女は村上春樹のファンだった。ある程度踏み込んだ性的表現を許容できる幅をもっていた女だった。私と女にとっての『常識的』なラブレターのやり取りが、世間の『非常識』である可能性はたかい。

女は私を捨てたのだ。私のラブレターも捨てるのが常識のはずだ。
そうだろう、女よ。私のゆめよ。ゆめのままでいてくれ。悪夢になってくれるなよ。


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