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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 切迫感 (第17章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

は穏やかで広い、
簡単でもなく、難しくもない
しかし、小さな心は道に迷ってしまう
急ぐことで、心は遅れは取ってしまうのだ
ー僧璨

 1、2年前、フロリダで行われた講演会で一人の若者が私と対峙しました。私は、切迫感、英雄的努力、戦いのパラダイム自体が問題の一部ではないかと考えているということを説明していました。それは、自然の征服と同じように欠乏感と支配する行為と同じ場所に由来するものであり、そのような場所に由来すると、私たちはさらに同じようなことをよく考えもせずに創りだしてしまうかもしれないと。その代わりに、スローダウンし、時に何もしないことさえ試みるということを提案しました。革命的な禁欲主義という高いスタンダードを掲げる代わりに、ゆったりとした気持ちと遊び心の精神で人生に取り組んではと。その場所からはおそらく、私たちの創造的なエネルギーが文明にとって真に新しい何かをもたらしうるでしょうと。


 その男性は以下のように言いました(私自身の内なる批評家からの言葉で尾ひれがつけられています)。

 一瞬でさえじっと座っている提案なんてどうして出来るのでしょうか?今は行動を起こす大事な時なんですよ。私たちがこうして安心して座っている間にも、アメリカのエージェントが罪のない人たちを拉致して、拷問にかけていることをご存知ないのですか?私たちが話している間にも、巨大な工場式農場では動物たちが屠殺され、その排泄物が水路へと流されているのをご存知ないのですか?私たちの文化の物語を変えようとすることについてベラベラ喋るのは大変結構なことですが、世の中には飢えている子供たちがいるのですよ。その子供たちの一人が、民兵組織に家族を殺された土曜日の午後にあなたは何をしていたのですかと聞いてきたら、あなたは何と言うのでしょうか?目が覚めているすべての時を地球上の正義のために捧げていなかったら、どうやって自分の良心に恥じずに生きられるのですか?浪費できる時間はないのですよ。気ままにしている時間はありませんよ。座って話している時間も、映画を観ている時間も、遊んでいる時間もないのですよ。もしあそこの芝生の上で暴漢たちが若い女性たちを拷問したりレイプしていたりしていたら、私たちは物事について座って話したり、遊び心を取り戻すためのワークショップを開催したり、「思いやりの聞き取り調査」を設置したりしないでしょう。止めに入るでしょう。ええ、それが今起こっているのですよ、少しだけ目の届かないところで。それがあなたには見えないからこそ、何も起きていないかのように振る舞えるのですよ。申し訳ないですけれど、この話のすべては偽善に過ぎないと思います。あなたのライフスタイルは、現在進行形の地球の略奪にあらゆる形で加担しているのに、あなたは自分の言葉で罪の意識からどうにか自分を正当化できると想像しているんですね。フリをするのをやめ、腰を上げて、それについて何かしてくださいよ。


 この見解と私の友人であるシンシア・ジャーズが切迫感について尋ねたときのドゴン族の長老の見解を対比してみたいと思います。シンシアは、平和と生態系の癒しのための「地球の宝瓶」の儀式を導くためにマリに滞在していました。彼女は長老に、森林破壊や気候変動などの地球への脅威についてや、忍びよる権力が彼の部族や生活様式に与えている脅威について尋ねました。「何かしなければならないという焦りを感じないのですか?」その人物は脅威をよく理解し、世界のバランスの何かが崩れていることを知っていましたが、彼はこう言いました。「あなたはわかっていませんね。切迫感はここにはないのです。」


 友よ、この”原始的”なドゴン族の長老とフロリダの若者とでは、どちらが賢い者なのでしょうか?これもまた、時計やカレンダー、直線的な欠乏感に基づく思考を持つ文明人の方がよくわかっているケースなのでしょうか?ドゴン族を教育する必要があるのでしょうか?それとも、私たちの救済の鍵は、文明人である私たちが精通している存在様式の中には見つからないということなのでしょうか?先住民たちから学ぶべき重要な何かが私たちにあるということでしょうか?マルティン・プレヒテルが言っているように、この混乱から抜け出す唯一の道は、私たち自身の先住民の魂を取り戻すことなのではないでしょうか?


 もしも隣の部屋で虐待されている子供がいたとしたら、確かに私は今、この言葉を書いていないでしょう。体当たりで行動しているでしょうし、何をすべきかよくわかっているはずです。しかし、それを現在のマクロの状況に当てはめようとするのは誤った類推となるでしょう。なぜなら、地球規模では、私たちは何をすべきかわかっていないからです。


 もしも家が燃えているのであれば、私はコンピューターの前に座っていないでしょう。世界が燃えているのです!どうやって私はコンピューターの前に座っていられるのでしょう?それは、私が世界のための消化器を持っておらず、グローバルの911(訳注:北アメリカにおける緊急通報用電話番号)に電話をかけることができないからです。


 もし兄弟が飢えているのならば、私は彼に食べ物を与えるでしょう。世界中の何百万人もの兄弟姉妹が飢えているのに、私は彼ら全員に与えられるだけの食べ物を持ち合わせていないのです。たとえ持っていたとしても、食糧援助の経済性を学び、それが時に依存を生み出し、縁故主義や軍閥主義を助長し、地域の食糧生産を破壊するかを知ると、正しい対応とは、がはっきりしなくなるのです。マルクス主義者に言わせれば、食糧援助による飢餓の緩和は、問題の真の原因を覆い隠し、根本的な不正を永続させるに過ぎないのです。


 問題の真の原因とそれに対して何をすべきかがわかったとき、青年が言ったすべてが真実となるのです。その時こそが行動すべき時であり、おそらく至急行動すべき時なのです。しかし、私たちが真の原因を突き止めていないときや何をすべきかわからないときには、行動へと飛びつくことは逆効果かもしれないのです。青年の言葉は、実は彼自身にも当てはまるのかもしれません。熱狂的な行動の見せかけは良心を満たし、自分が解決策の一部であるかのような錯覚をもたらしますが、これらの行動は役に立っているのでしょうか?巨大な炎に向かって消化器を敢然と振り回している人を想像してみてくださいーそんな時には言葉や「行動」していないことが一番の行動なのかもしれません。助けを必要とする時なのかもしれません。そして、それがどんな種類の火かわからないとしたらどうでしょうか?電気、油、木?もし火事がそこここで起きていて、中にはより進行した火事があるとしたら?その家々のいくつかの中には子供たちがいるとしたら?そして、4分の3の人たちは自分の家が燃えていることさえ信じていないとしたら?火を消すことは絶望的で、それをあきらめて、代わりによりよい家を設計することのほうが役に立つとしたら?


 次から次へと問題を解決しようと躍起になっていることが、かえって火を煽っているのかもしれないのです。もしかすると、地球温暖化は私たちが急いでいることによって現れている熱なのかもしれないのです。


 結局のところ、なぜ地球温暖化は起こっているのでしょうか?化石燃料の燃焼、気候の恒常性を維持する森林や生物多様性への攻撃などの直接的原因があります。それでは、これらはなぜ起こっているのでしょうか?それは、労働効率(単位労働量あたりの仕事量を増やすこと)と経済効率(資本の短期的な収益を最大化すること)という効率の名のもとに行われているのです。そして、効率とは、より速く終わらせることの別名に過ぎないのです。


 (地球を救うための)善き急ぐことと(機械を使ってより少ない労力で物事を終わらせるための)悪しき急ぐことがあると思いたいかもしれませんが、おそらくどちらの急ぐことにも共通する根本的な考え方が問題なのです。この考え方は、本書の次のテーマとなる、分離の習性の一つなのです。


 行動すべき時と、待つべき時、耳を傾ける時、観察すべき時が存在します。その時初めて、理解と明晰さが増すのです。理解から、目的を持ったしっかりとした力強い行動が生まれるのです。


 けれども待ってください。マルクス主義者にとって、飢餓は資本主義の帰結であるという理解かもしれませんが、取るべき行動はそれほど明白ではありません。どうやって「資本主義を転覆させる」のでしょうか?マルクス主義者ではない人にとってでさえ、金融システムが飢餓、さらに言えば世界のほとんどの害悪に深く関わっていることは明らかです。では、金融システムを変えるためには、どのような「行動」が必要なのでしょうか?さらに、私が『聖なる経済学』で述べたように、お金のシステム自体が、「分離」と「上昇」という二つの神話という、より深い基盤の上に成り立っています。文明を定義づける神話を変えるにはどうすればいいのでしょうか?

 私が提案したいのは、私たちの行動が世界を現在の衝突進路から離れるのに明らかに失敗している理由は、全般的に、私たちが真の理解に基づいて行動してきていなかったからだということです。

 もし、1970年代初頭の絶滅危惧種保護法、大気浄化法、水質浄化法に続いて、さらに強力な法制度が国内外で制定されていたとしたら、私はこの本を書いていなかったでしょう。また、1960年代の人種差別や社会的不平等への目覚めが経済システムを変革していたとしたら、この本は書かれていなかったでしょう。また、地球温暖化についての科学的な認識が、1980年に化石燃料の消費量の速やかな反転を導いていたとしたら、私はこの文章を書いていなかったでしょう。地球と人々の破滅は、止まるどころか減速さえしていないのです。私たちが用いたどんな戦略や戦術もうまくいかなかったのです。消化器は炎を鎮火できなかったですし、屋根の上からの叫びは消防隊の多くを引き寄せなかったのです。

 新しい問題に慣れ親しんだ解決法をまず用いることはごく自然なことです。おそらく失敗のみが、想定したものとは問題の性質が異なるということに私たちを気づかせるのでしょう。いずれにしても、多くの人たちが、どうしたらいいのかわからないという場所にたどり着きあるのです。


 少し物事を単純化しすぎたかもしれません。真の理解、目的、創造力に目覚めるまで、私たちは人生の半分を無知文盲の無力感の中で過ごしているということではありません。むしろ、自分のやっていることを信じ、人生が多少なりとも意味をなし、自分の努力が身を結ぶことを願い期待する時に、私たちは段階を経ているのです。そして、時に実が結ばれることはありますが、その世界の中で成長するにつれて、自分の持つ様々な仮定に疑問を抱くようになるのです。自分たちのツールがうまく機能しなくなり、目標やその目標達成の可能性を信じられなくなるのです。私たちは休息のフェーズ、空のフェーズに近づいているのです。私たちに決して休息させることなく、怠惰さを非難し、経済的なプレッシャーによってさらなる忙しさへと仕向けるシステムの中に浸されている私たちは、このフェーズを受け入れるのに苦労しています。何かを常にしていなければならないと自分たちに言い聞かせているのです。時間が無駄になっているよ!


 これらすべては、行動することを否定したり、受け身になることを求めているわけではありません。この世界の中には、努力や緊急性を要する空間があります。私が述べてきたことは、出産のプロセスによく似ています。自身の子どもたちの出産に立ち会ったことからの理解によると、押し出すときが訪れたときには、押し出したいという衝動は抑えられません。これこそが切迫感の正体です。陣痛と陣痛の間に、お母さんは休んでいるのです。「今やめないで!努力しないと。もし次の衝動がまた起こらなかったらどうするの?気が向いたときにだけ押し出すのではダメだよ。」とお母さんに言っている自分を想像できますか?


 「自分の気の向くままに行動してはいけないよ。」「自分が求めていることを何でもしていいわけではないんだ。」「自制心を学ばないと。」「きみは自分の欲望を満たすことしか興味がないんだね。」「自分の喜び以外は何にも気にしないのか。」これらの勧告の中にジャッジメントが聞こえませんか?これらが、私たちの文明を動かしている支配する精神をどのように再現しているかがわかりますか?善は征服することで得られる。害虫を駆除することで農業は改善する。犯罪との戦いに勝つことで社会は安全になる。今日の散歩の途中で、学生たちが私に声をかけてきて、小児がんとの「戦い」に参加しませんかと尋ねてきました。力によって敵に打ち勝とうという数多くの戦い、聖戦、キャンペーンが存在しているのです。それらと同じ戦略を自分たちに用いても何ら不思議はないのです。このように、西洋的な精神の内側の荒廃が、それが地球にもたらしている外側での荒廃とぴったり一致しているのです。あなたは、別の種類の革命の一部になりたいと思いませんか?



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