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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 不足 (第18章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

最も難しいこととは暗い部屋で黒猫を見つけることである、特にそこに猫がいないのであれば。
ー孔子


 周囲で古い世界が壊れていっても、あるいは私たちがそれを嫌悪して離れていっても、私たちは依然としてその世界から条件付けられたことを携えているのです。私たちは古き「世界の物語」によって徹頭徹尾、植民地化されてきたのです。その論理のもとに生まれ、その世界観に同化し、その習慣に染まっているのです。そして、これらすべては広く行き渡り、ほとんど目に見えないほどなのです。ドゴン族の長老の言葉が示唆するように、私たちは危機の根源にあることそのものを当たり前のことだと思って、すべての行動においてそれをなすすべもなく再現しているのです。



 ドゴン族の長老が、時間がないことを前提にした見立てに疑問を呈したように、叡知の伝統、先住民の世界観、聖なる物語は、「分離の時代」から私たちが背負っている荷物の一部を照らし出すのに役立ちます。私たちが新しい世界の見方に慣れれば慣れるほど、古い時代の重荷になるような習慣を取り除きたくなるのです。古い習性は、もはや私たち自身や私たちが目指す人物像と共鳴しないだけでなく、そのような習慣に囚われていると、そのイメージでの世界を創造せずにはいられないことを私たちは認識しているのです。分離の習性を手放すことは、単に自己修養の問題なのではないのです。それは、アクティビスト、ヒーラー、チェンジメーカーとしての私たちの実効性のためにも極めて重要なのです。

 これから述べるように、これらの見る、考える、行うの習慣を変えることは決して些細なことではありません。第一に、それらを可視化しなければなりません。第二に、そのような習性の中にはないやり方で変化を試まなければならないのですーしかも、私たちが変化を構想し、実現しようとする多くの方法は、征服、ジャッジメント、力のパラダイムに由来しているのです。第三に、経済的・社会的な手段だけではなく、私たちが変化させようとしている物事そのものを当然視している、巧みなメッセージの容赦ない連続によって、古い習慣を強化しようとする環境に対処しなければならないのです。

 債務削減と財政出動の議論は、経済成長を疑う余地のない善として当然視しています。移民制度の改革をめぐる議論では、国境と身分証明書という社会通念が当たり前のものとして扱われています。第三世界の貧困に関する統計は、お金が豊かさを測る良い指標であることが当然のこととされています。テレビで報道されるニュースの選択は、これらが最も重要で関連性の高い出来事であることを暗示しているのです。公共空間のあらゆるところにある「非常ブレーキ。誤用には罰則」という標識は、社会秩序を維持するための罰則をほのめかしており、どこにでもある監視カメラが、人々は監視されなければならないことをほのめかしているのと同様です。そして何より、社会でのルーティンの日常性が、このような生き方が普通であることを伝えているのです。

 多くの人にとって、分離の習性を最も強力に後押ししているのはお金です。通常、愛が呼び起こす行動は、私たちの経済的な自己利益に跳ね返ってくるものでありません。それどころか、そのような行動を度々妨げているものがお金なのです。それは賢明なのか?それは現実的なのか?経済的にその余裕があるのか?他の人たちにとっては、宗教的な教え、社会的な圧力、家族や友人のもつ恐れが行動を強いるものとなります。「何にもいいことにならないよ。」「安全じゃないよね。」「怪しいよね。」

 あなたは、古い物語がその中へと引き戻す力をおそらく経験したことがあるでしょう。調和、フロー、つながり、コンパッション、あるいは奇跡のような超越的な体験をし、それ以降どのように違ったあり方であなたが生きていくかが完全な明瞭さで見えます。それは人々がスピリチュアルと呼ぶような種類の体験かもしれないですし、高炭素のライフスタイルによる地球への影響を完全に理解するのと同じくらいありふれた体験かもしれません。それは、インスピレーションを与える本やセミナー、非暴力コミュニケーションのトレーニング、ヨガの哲学のコースなのかもしれません。その体験の後、数日から数週間、あなたははっきりと悟ったことに従って無理なく生活します。もしかすると、あなたの周りにいるすべての人を神の発露として見るかもしれません。しかし、しばらくすると明瞭でたやすかったことを自身に思い起こさせ、その体験を思い出すことに努力を要しはじめるのです。それまでは必要ななかった鍛錬が必要になってきます。それまでは明白で容易だったのに、すべてのものの中に神性を見出す訓練をしなければならなくなるのです。あるいは、妥協することで、また自分の車をもっと運転するようになるのです。人生がまた元通りとなるのです。

 ここで何が起こっているかというと、大抵、人々は自分自身だけでは新しい物語を保つことができないということです。物語はコミュニティの中でのみ保たれます。だからこそ人々は、支配的な「世界の物語」の心を蝕むような影響から守られ、スピリチュアルな着想に特化したコミュニティを設立しようとするのです。似たような価値観を持った人たちに囲まれていれば、ある程度、私たちも同じようにできるのです。

 どんなに強くても、何か内的なものに作用していなければ、社会的、あるいは経済的な外圧は私たちを古い物語にとどめておくことはできません。外的な何かよりも、私たち自身の習性が私たちを古い物語へと引き戻すのです、新しい物語を垣間見た後でも。これらの習性はあまりにも深く浸透しているがために、私たちがそれらに気づくことはめったになく、気付いたとしても、それらが人間の本性であると見なすことが普通です。これらの習性の多くは「不足の習性」「ジャッジメントの習性」「苦闘の習性」の3つのカテゴリーのいずれかに分類されます。続くいくつかの章では、これらの習性のいくつか、それらが由来する文化的・個人的なあり方、そしてそれらに取って代わりうるインタービーイングの新しい習性を明らかにしていきます。

 分離の習性の多くは馴染みがあるものであることに気づくでしょう。主流の宗教的な教えや一般に普及している道徳の中には、分離の習性への戒めが多くあります。それは、宗教も文化も共に、再会の種子を携えているからです。しかし、これらの教えは、支配的な神話や文明の構造と一致していないために、それらに従って行動するのは困難です。それらはしたがって、禁止事項や処方箋などのルールとなってしまい、自身を抑えつける分離の主だった習性の代行者となってしまっているのです。これを避けることは不可能です。自分を他人がいる世界の中の個別分離した個人として定義する物語に浸かり、その物語を実施強制するお金のような制度に囲まれていると、「黄金律」のような教えは確かに自然な人間の行動に反しているように思われます。分離した自己にとって、利己主義は奉仕に反するように思えるのです。

 私たちが生きてきた世界のルールと一致させようと試みて、宗教の権威者が宇宙を地上と天国、物質と霊性の二つの領域に分けたことは不思議ではなありません。そうです、彼らは折れたのでした。物質界は罪深く、その世界の一部である私たちの身体も罪深いですが、それとは別の何か、異なるルールを持つ世界が存在するのですと。それらのルールに従って生きるためには、物質界や肉欲の観点に抵抗しなければならないのです。


 これから説明する分離の習性に対して自己克服のプログラムを適用しようとするあらゆる傾向にも気づいてみてください。異なる道はあります。


 不足は、現代生活を定義づける特徴の一つです。世界では、5人に1人の子供たちが飢えに苦しんでいます。石油のような希少資源をめぐって私たちは戦争をしています。海からは魚を、大地からはきれいな水を枯渇させていています。世界中の人々や政府は、お金が不足しているがために生活を切り詰め、より少ないものでやりくりしているのです。私たちが資源不足の時代に生きていることを否定する人はほとんどいないでしょうし、多くの人たちがそうではないと想像することは危険だと言うでしょう。


 一方で、この不足のほとんどが人為的なものであることを見いだすことは難しいことではありません。食糧不足について考えてみましょう。ある試算では、先進国での生産量の50%とも言われる膨大な量が無駄になっています。膨大な面積の土地がエタノールの生産に充てられ、さらに膨大な土地がアメリカで最も多く栽培されている種である芝生に充てられているのです。一方、食糧生産に充てられている土地では、実際のところは労働集約的な有機農業やパーマカルチャーよりも生産性(単位労働力ではなく、1ヘクタールあたりの生産性)が低い、化学物質が多用され機械に依存した農法が一般的なのです。(注1)


 同様に、天然資源の不足もまた私たちのシステムの所産です。私たちの生産方法は無駄が多いだけではなく、生産されたものの多くは人間のウェルビーイングを促進するものではありません。保全、リサイクル、再生可能エネルギーのテクノロジーはまだ十分に発達していないまま放置されているのです。実際の犠牲を払わずとも、私たちは豊かな世界に住むことができるのです。


 おそらく、不足が人為的であるということがこれほど明らかになるのはお金についてでしょう。食べ物の例が示すように、この世界の物質的な欠乏のほとんどは、有形なものの不足なのではなく、お金の不足によるものなのです。皮肉なことに、お金は人間が無限に生み出すことができる唯一のもので、それはコンピューターの中の単なるビットなのです。しかし、私たちはそれを本質的に不足しているものとして創りだし、一部の人たちには過剰に、そして残りの人たちには不足を意味する富の集中を促す傾向があるのです。


 富があったとしても、不足しているという感覚からは逃れることはできません。2011年にボストンカレッジのCenter on Wealth and Philanthropy で行われた超富裕層への調査では、純資産2,500万ドル以上(平均7,800万ドルの超富裕層もいました)の世帯を対象に富に対する意識調査をしました。驚くべきことに、経済的な安心を実感しているかという質問に対して、ほとんどの回答者が実感していないと答えたのです。経済的な安心を得るために、どれくらいの金額が必要なのでしょうか?彼らは、平均して現在の資産よりも25%高い数字を挙げたのでした。


 7,800万ドルの資産を持つ人が不足を経験するとしたら、それは経済的な不平等よりもはるかに深い根源があることは明らかです。その根源は、私たちの「世界の物語」以外のところにはありません。不足は、私たちの存在論、自己認識、宇宙論そのものの中ではじまっているのです。不足の文化は、私たちを完全に浸しているがために私たちはそれを現実と勘違いしているのです。

 
 不足の中でも最も広く浸透し、生命を削っているのは時間です。ドゴンの男性が例示しているように、”原始的”な人たちは総じて時間の不足を体験していません。彼らは、一日、一時間、一分を数字として認識していないのです。時間や分という概念すらないのです。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは、ラダックの田舎町について「彼らのは、時間を超越した世界なのです」と述べています。私は、ベドウィン人が何もせずに時の流れが過ぎるのを見ているだけで心満たされているという話や、ピダハン人が地平線に船が現れ何時間かして消えていくのを見るのに夢中になっていたという話、先住民の人たちが文字通りに座して草が育つのを見て満たされていたという話を読んだことがあります。これが私たちには知られていない豊かさの形です。


 時間の不足は、すべてのものを測定しようとする「科学の物語」に組み込まれており、それによってすべてのものが限りあるものとなります。それは、私たちの存在を、一つの伝記的な時間軸の境界内、つまり分離した自己の限りのある期間の範囲に限定するのです。


 時間の不足はまた、お金の不足から招かれています。競争の世界では、いかなる時にも、優位に立つためにより多くのことをすることができます。いつでも、あなたは自分の時間を生産的に使うかどうかの選択権を持っているのです。私たちのお金のシステムは「あなたにとってより多いことは、私にとってはより少ない」という分離した自己についての根本原理を体現しています。物質的に不足している世界では、決して安心して休む(訳注:金銭的・時間的・心理的な)“余裕はない”のです。これは単なる信念や認識ではありません。今日存在しているお金は、一部の教えが主張するような、「単なるエネルギー」ではないのです。少なくとも、中立的なエネルギーではなありません。お金は常に供給不足なのです。私たちの現在のお金のように、お金が有利子負債として創られた場合、常に、そして必然的に、お金よりも負債の方が多くなるのです。私たちのシステムは、私たちの集合的な知覚を反映しているのです。


 「あなたにとってより多いことは、私にとってはより少ない」は、「分離」の決定的な原理です。それは競争の激しい貨幣経済では真実なのですが、かつての贈与文化の中では、それは真実ではないのです。その中で普及していた共に分かち合っていることが為に、あなたにとってより多いことは、私にとってもより多いことだったのです。不足という条件付けは、経済的な領域をはるかに超えて、羨望、嫉妬、競争相手の一歩前に常に行くこと、社会での競争などなどとして現れているのです。


 お金が不足していることは、同様に、愛や親密さ、つながりが不足しているということから引き出されているのです。経済学の基本原理がそう言っているのです。人間は合理的な自己利益を最大化するように動機づけられていると。この原理は、分離していることの宣言であり、残念ながら、孤独の宣言なのです。世の中の誰もが効用最大化者であり、自分のために行動していると。あなたは独りなのですと。少なくとも経済学者たちにとって、なぜこのことが真実のように思えるのでしょうか?孤独であることの認識と体験はどこから来ているのでしょうか?幾分かは、貨幣経済そのものに由来しています。貨幣経済は、元々の関係性の基盤から切り離されている、標準化された非人間的な商品で私たちを取り囲み、自分自身やお互いのために物事を行なっている人たちのコミュニティを仕事としてのサービスに置き換えていくのです。「聖なる経済学」で述べたように、コミュニティはギフトで紡がれています。さまざまな形のギフトが絆を創りだすのは、ギフトが感謝の気持ちを生み出し、お返しをしたい、あるいは恩送りしたいという気持ちを生み出すからです。対照的に、お金での取引は、商品と現金が交換されればそれで終わりです。それぞれが別々の道を行くのです。

 愛、親密さ、つながりの不足はまた、宇宙を感覚や目的、知性を持たない、一般的な構成要素で成り立っているただの事物であると見なしている私たちの宇宙観に内在しているものです。それはまた家父長制とそれに伴う所有欲と嫉妬心の結果でもあります。人間の世界の中に一つ豊かなものがあるとすれば、それが性的であろうとなかろうと、愛と親密さであるはずです。私たちはたくさん存在しているのですよ!ここではどことも違って不足が人為的であることが明らかなのです。私たちは楽園に住めるのかもしれませんよ。


 私は時に、二人が長い間見つめ合うことを伴うワークショップアクティビティをリードすることがあります。最初の違和感が薄れ、数分が経過すると、ほとんどの人は言葉では表せないような優しい親密さや、日常の交流を特徴づけるすべての表面的なポーズや見せかけを突き抜けたつながりを体験します。これらの見せかけは、私たちが思いたいよりもはるかに薄っぺらなものなのです。それらは、30秒以上の本質的な見るということに耐えられないですし、だからこそ、人の目を数秒以上見ることは失礼にあたるのでしょう。私たちが通常自分自身に許している親密さはそれで全部なのです。今、私たちがうまく付き合えている豊かさはそれですべてなのです。時に、そのアクティビティの後でグループに所見を述べます。「想像できますか?いつでもこのような至福の時間を手にすることができるのに、60秒もかからないのに、私たちは長年をそれ無しで過ごしているのです。毎日それを体験していたら、人々はまだ買い物したいと思うでしょうか?お酒を飲みたいと?賭け事をしたいと?殺したいと?」


 私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界はどれくらいそばにあるのでしょうか?それはすぐそばにあるというよりも、さらに近くなのです。


 基本的な生存のニーズ以外で、人間にとって、触れられる、抱かれる、身づくろいしてもらう、見てもらう、聞いてもらう、愛されること以上に重要なニーズがあるでしょうか?これらのニーズが満たされないことに対するむなしい埋め合わせとして私たちはどのようなものを消費しているのでしょうか?つながりのニーズを満たすために、どれくらいのお金、どれだけの権力、どれだけの他者へのコントロールが必要なのでしょうか?どれだけあれば十分なのでしょうか?前述のボストンカレッジの研究が示唆するように、どれだけあっても足りないのです。ガイアの苦難の原因は欲にあると次に考えた時には、このことを思い出してください。


 私たちの社会ではあまりに普通で気づくことがないような、他のさまざまな種類の不足に言及することができます。アテンションの不足。遊びの不足。聴くことの不足。闇と静けさの不足。美しさの不足。私は築100年の家に住んでいます。私たちを取り囲む一般的な工場出荷時には完璧に創られた商品や建物と、私の家にある必要性を越えて丁寧に手が入れられ、生命力を宿していそうな一晩中カチャカチャと音を立てている古いラジエーター、曲がった鉄製の器具、不規則なバルブやコネクターとの間には、なんというコントラストがあるでしょうか。小型のショッピングセンターや大型店舗、駐車場や自動車販売店、オフィスビルや分譲地開発など、それぞれの建物が費用対効果のモデルとなっているところを車で通り過ぎると、「5,000年の建築の発展の末に、これに行き着いてしまったのか?」と驚き入るのです。ここで私たちは科学のイデオロギーの物理的表現を目の当たりにしているのです。神聖さ、親密さ、愛、美しさ、そして遊びといった質に関するものを犠牲にして、測定可能なもの(面積や労働単位あたりの生産性)を最大化してきたのです。


 美しいものの不足を補うために、どれだけの醜いものが必要でしょうか?冒険の不足を補うために、どれだけの冒険映画が必要でしょうか?萎縮した自分の偉大さの表現を補うために、どれだけスーパーヒーロー映画を観なければならないのでしょうか?親密さのニーズを満たすために、どれだけのポルノを観なければならないのでしょうか?不足している遊びを補うために、どれだけのエンターテイメントが必要でしょうか?無限に必要なのです。これは経済成長にとっては良いニュースですが、地球にとっては悪いニュースです。幸いなことに、私たちの地球はこれ以上それの増加を許さないでしょうし、荒廃した社会基盤もそれを許さないでしょう。私たちは人為的な不足の時代をもうすぐ抜けようとしています。そこに私たちを縛りつける習性さえ解き放てればですが。



 不足に浸っていることから、不足の習性が生まれるのです。時間の不足から、急ぐ習性が生まれます。お金の不足に強欲の習性は由来するのです。アテンションの不足から見せびらかすという習性が生まれます。意義深い労働の不足に怠惰の習性が由来します。無条件の受容の不足から人を操る習性が生まれるのです。これらはいくつかの例に過ぎず、不足しているものに対する反応は個人が存在している数だけ存在しているのです。

注1. より詳細な議論と参考文献については、『聖なる経済学』の第2章と、拙稿『パーマカルチャーと不足の神話』を参照。


第17章 切迫感                 第19章 行為



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