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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 行為 (第19章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 これらの不足の特色のすべては、私が呼び名を見つけることが出来ていない実存的な不足の一種であり、共通のルーツを持ち合わせています。それは存在の不足であり、「私は十分ではない」とか「人生は十分ではない」といった感覚です。それは宇宙の他の部分と相互存在する私たちの拡張された自己との分離から生まれ、その不足は私たちを決して休息させることがありません。それは私たちの疎外感、そして、生きてもいないし目的も持たない力と質量の宇宙へと遺棄されてしまった帰結なのです。決してくつろいで家にいるような気持ちになれず、自分たちのよりも偉大な知性に抱かれることもなく、拡がっていく目的の一部となることもない宇宙なのです。時間やお金の不足以上に、この実存的な不安が消費と支配への意志を駆り立てているのです。


 そこから生まれる主な習性は、常に何かしているという習性です。今、ここだけでは十分ではないのです。欧米ではほとんどの人たちが、テレビを見たり、ビデオゲームをしたりと、まったく生産的なことをせずに膨大な時間を過ごしていると異議表明するかもしれませんが、これは「やること」が置き換わったもので、「やらないこと」ではないのです。


 「やること」が悪いと言っているわけではありません。やるべき時と、やるべきではない時があり、「やること」の習性の奴隷になっていると、その区別がつけることが出来なくなってしまうと言っているのです。前に述べたように、やるべき時とは、あなたが何をするべきかわかっている時なのです。何をやるべきかわからず、とりあえず行動しているときは、おそらく習性で行動しているのでしょう。


 しかし、「やる」という言葉にとらわれすぎないようにしましょう。「やる」「やらない」という区別は、よくよく考えてみれば、明らかに破綻しています。おそらく例を挙げることで、私の言わんとすることが明らかになるでしょう。先日、世界各地から30人ほどのアクティビストたちが集まり、ローカリズムというテーマで一日かけて行われた会合に参加しました。私たちは皆、何らかのカンファレンスで講演したことがありました。その日は対話から始まり、1、2時間後には、どのように変化を生み出していくかについて、いくつかの深い問題に触れはじめていました。しかしそこで、私たち何人かが私たちは「ただ喋っているだけ」だと不快に感じたので(あるいは、より深い事柄に触れていることを私たちが不快に感じたのでしょうか?)、「何かをする」ためにタスク中心のグループに分かれました。グループ意識の一部は、「行動計画や声明など、何か形に残るものを生み出さないと、この日が無駄になってしまう」と信じていました。結果としては、午後が無駄だったと感じられて、午前が生産的だったと感じられたのです。何も成されなかったにもかかわらずです。おそらく問題だったのは、グループという存在が成熟する前に、「やる」ことを急いだことだったのです。私たちは急いで事をなそうとする習性から行動してしまったのです。繰り返しになりますが、それは計画を立てたり、タスクグループを作ったり、仕事を任せたり、直線的で段階的な思考をするべきではないということではありません。それは、これらをやるべき適切なタイミングはいつなのかということへの感性を身につける必要があるということです。


 私たちは迷路に迷い込んだ人のようなものです。必死に走り回り、何度も何度も同じ行き止まりに行き当たり、何度も出発点に戻ってきているのです。最後には、休息し、呼吸し、熟考するために立ち止まるのです。それで、一瞬にして迷路のロジックを理解します。そして、いよいよ歩きはじめるのです。その代わりにその人が「いや、休んでいる暇なんてないんだ。足を動かすことによってのみどこかにたどり着けるんだ。だから、足を動かす事をやめてはいけないんだ。」と言っているのを想像してみてください。私たちには、立ち止まること、空の状態、沈黙、統合の時間を軽んじる傾向があるのです。


 迷路から抜け出すには?ええ、さまよってみたり、探検することは助けになりますが、ある時点で立ち止まって振り返ってみなければならないのです。私の迷走にはパターンがあるのだろうか?そもそも自分がここで迷い込んでしまったことについて思い出せることはあるだろうか?ところで、この迷路は何のためにあるのだろう?おそらく、パニックになって必死に走り回ることや次第に無益な行動が増えていくことは初期の段階では必要なのでしょう。ですが、私たちの多くは今、別の方法を試す用意ができているのです。


 今日の地球の状況は、私たちが習性ー現在の極限状態を私たちにもたらしたのと同じような解決方法を何度も何度も繰り返すことーから行動するには惨憺たるものです。全く新しいやり方で行動するための知恵はどこからやってくるのでしょうか?それはどこからでもなく、虚空から、無為からやってきます。それが見えたときに、私たちはそれが今までずっと自分たちの目の前にあったことに気づくのです。それが遠い彼方に存在したことはないのです。それにもかかわらず、同時にそれは別の世界、つまり別の「世界の物語」の中にあるのです。「地平線のように遠く、そして、あなたの顔の目の前にある。」 という中国の諺がそれをよく捉えています。立ち止まったときに初めて、自分がすでにそこにいることに気がつくのです。これはまさに今の私たちが置かれている状況です。世界的な危機に対するすべての解決策は目の前にあるのですが、私たちの集団としての目には映らず、言ってみれば別の宇宙に存在しているようなものなのです。


 ある物語に囚われていると、私たちはその物語が認識できる物事だけしか行うことができません。多くの場合、私たちは自分が閉じ込められている(古い物語は終わりつつある)ことを自覚していますが、それに代わるものへの(私たちはまだ新しい物語に住まえていない)アクセスはできていないのです。社会団体や環境団体のリーダーたちは、資金集め、会員獲得キャンペーン、プレスリリース、白書といった枠の中で窮屈さを感じています。新たな侵害が迫ってきています。どうすればいいのでしょうか?また陳情を送ればいいのでしょうか?どのレベルにおいても、私たちの解決策はますます効果を失っていますが、私たちの物語は主流から外れているものを許さないのです。


 同じことが金融危機に対する金融当局の対応、より一般的にはどこの国の政府の対応にも言えるかもしれません。ほとんどの場所で、政治体制は、真の解決策がテーブル上にさえない無関係な議論の中へとますます身動きができなくなっています。米国では、軍備の増減、撤退のスケジュールなどは議論される中、世界中の軍事基地から撤退し、常備軍を完全に解体することを求める声はどこにあるのでしょうか?それは会話の中には出てきません。(注1)もちろん、それを会話に入れるためには、戦争やテロの原因、アメリカの外交政策の真の目的など、善悪についての私たちの概念に至るまでの深く根付いた世界の仕組みに関する神話を否定する必要があるのです。もしもこれらの神話に疑問を呈したことがなければ、軍隊を解散させる要求は笑ってしまえるほどにナイーブに思えるでしょう。


 同様に、農業政策に関する政治的対話のどこに、パーマカルチャーへの大規模な移行という考え方があるのでしょうか?それは、現在芝生があるところにつくる大きな菜園、農村部の土地の再活性化、人糞の堆肥化、土とのつながりを取り戻すことで得られるセラピー効果を含みます。それは、炭素を土へと戻し、河川の富栄養化を止め、帯水層に活力を与え、砂漠化を反転させることができるのです。そうすれば、仕事を探している何百万人もの人々に有意義な仕事を提供でき、燃料の使用量も大幅に削減できます。そして、より少ない土地でより多くの食料を生産し、野生の生態系を回復させることができるのです。


 このような主張を文書化することは、それなりに大変な事です。多くの権威者たちは、「この地球上の70億の人々を養う唯一の方法は、化石燃料を大量に投入することだ」と断定的に主張しています。この主張に反論するには、農業と食事に関する基本的な仮定を解きほぐす必要があります。熱帯地方で、1ヘクタールあたりトウモロコシの8倍のカロリーを生産でき、栄養と保存性に優れ、最小限の労働力で大量に採取でき、農薬を必要とせず、一度だけ植えればよく、干ばつに強く、ヤギや牛の飼料となり、野菜や養殖などを下にして覆う上層穀物として使えるマヤブレッドナッツのような作物を(何百もの中から一例を挙げていますが)考慮に入れた基本的な仮定がどれほどあるでしょうか。この(マヤブレッドナッツの)木は、トウモロコシを植えるために中米全土で伐採されたのです。(注2)

 明らかに、マヤブレッドナッツのような作物や、その他何百種類もの十分に活用されていない食物種への移行は、それに伴う文化的・経済的な変化なしでは起こりえません。食文化のグローバル化、産業化された食生活を煽るメディアのイメージ、農作業を卑しいものとする文化的な物語、農家を食品作物生産へと押しやる金融システム、既存の農法を当然視する規制、種子や農薬会社の金銭的利益、これらすべてが農業の現状に寄与しているのです。コントロールされた生息環境の上で均一な作物が育つという考え方そのものが科学的なパラダイムに基づくものであり、そのパラダイムは均一な構成要素から成っていて、私たちはその構成要素に秩序と構造を無理に強いているのです。

 それこそ、幾重にも重なる多くの物語を変えていかなければならないのです。ですから、私たちの革命が、自己と世界に関する私たちの基本的な理解に至るまでずっと、根底に至る遥かにまで行かなければならないと言っているのです。より優れた品種のトウモロコシ、よりよい農薬、遺伝子や分子レベルに至るまでのコントロールの拡張など、同じようなことを通じては、私たちは種として生き残ることはできないでしょう。私たちは根本的に異なる物語に踏み入れる必要があるのです。だからこそ、アクティビストは必然的に物語のレベルで活動することになるのです。差し迫ったニーズに対応したうえで、彼女は最も実用的で現場に出てくる活動さえもが物語を語っていることに気づくでしょう。それらの活動は新しい「世界の物語」から生まれ、新しい「世界の物語」に寄与するものなのです。

  1. もちろん非主流のものを除いてですが。私の知る限り、政府関係者が話している選択肢の一つではありません。

  2. ここでは、現在のパラダイムとほんの少しだけ相反する例を選びました。シャウベルガーに触発された水の利用法、ホメオパシー的な土壌改良、フィンドホーンで使われている手法、ミッシェル・スモール・ライトの自然界の神々に関するワークなどについても私は説明することができます。しかし、マヤブレッドナッツは受け入れても、水の知性や自然の神々は受け入れないという人たちは、私の話の続きも疑うかもしれませんねー共謀罪のように。でも、でも、私は実際にはそんなことを信じているんでしょうかね?冗談はさておき、本当のところはそれらを信じたいのですが、そのような物語にさらに実質的に住まうためには助けが必要なのです。自然界の神々に嘆願した際には、ウッドチャックに庭の野菜を全部食べられましたし。


第18章 不足                 第20章 無為


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