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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 無為 (第20章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

私たちが人生や世界で経験する問題(それが人間関係の問題や世界の飢餓であろうと)は、エネルギーの不足や断絶と、自分自身やお互い、地球、そして私たちを通して生命がどのように動き、進化しようとしているかを感じ取る能力の欠如から生じています。問題の核心は、行動するのかしないのかということや、「何かをする」ということなのではなく、何が実際に行動を起こさせるのか、ということなのです。
〜ダン・エモンズ


 新しい物語に入る前に、ほとんどの人は、そしておそらくほとんどの社会も、まずはじめに古い物語から抜け出すための道を旅する必要があります。古い物語と新しい物語の間には、何もない空間があります。それは古い物語からの教訓と学びが統合されていく時でもあります。その取り組みが終わることによってのみ、古い物語は完結するのです。そのとき、何もがなくなり、すべての万物が生じる元である妊娠している空(くう)が存在するのです。本質へと立ち戻ることで、本質から行動する力を取り戻します。物語と物語の空間に帰郷することで、私たちは習性からではなく、自由から選択することができるようになるのです。


 何もしない方がいい時とは、行き詰まりを感じた時です。この本の執筆中に、私はたくさんの「何もしない」をしました。数日間、私は結論を書こうとして、無駄な努力をし、以前書いた内容のつまらない焼き直しのような無味乾燥なものという結果になっていました。やればやるほどひどくなっていきました。そこで私はついにその努力をあきらめ、ただソファに座り、赤ん坊を胸にくくりつけて、何を書くべきかを見つけ出すといういかなる意図を持つこともなく、自分が書きあげた本の中を精神的に旅していました。その何もない場所から結論が現れたのです、自発的に。


 何もない場所を恐れないでください。私たちを捕らえている物語や習性から自由になりたいのであれば、それは私たちが戻らなければならない源なのですから。


 私たちが行き詰っていて、何もない場所を訪れることを選ばなければ、そのうち私たちはそこにいずれにせよ行き着くことになるのです。個人のレベルでは、このプロセスに馴染みがあるかもしれません。古い世界が崩壊していて、新しい世界がまだ出現していないのです。かつては永続的で本物だと思われたものがすべて、ある種の幻影だということが明らかになるのです。何を考え、何をすればいいのか、もはや何が何だかわからなくなるのです。自分が思い描いていた人生の軌跡が滑稽に思え、別の人生を想像することもできないのです。すべてが不確かなのです。あなたの時間軸は、数年から今月、今週、今日、もしかしたら今この瞬間にまで縮むのです。かつてあなたを守り、現実を濾過しているように見えた秩序の蜃気楼を失い、あなたは裸のようで無防備に感じているのです、ある種の自由も感じていますが。古い物語の中では存在しさえしなかった可能性が、たとえそこに到達する方法が分からなくとも、あなたの目の前に横たわっているのです。私たちの文化における挑戦は、その空間に身を置くことを許し、その間での時間が終わった時に次の物語が現れ、それを認識できると信じることなのです。私たちの文化は、私たちが前進し、実行することを求めます。私たちが後にする古い物語は、通常コンセンサスとなっている「人民の物語」の一部であり、それは大いに渋りながら私たちを解放するのです。ですから、もしあなたが物語と物語の間の聖なる空間にいるのであれば、どうかそこにいることを許してあげてください。旧来の安全の仕組みを失うことは恐ろしいことです。しかし、失うとは思いもよらなかった物事を失うかもしれないとしてさえも、きっと大丈夫だとわかるはずです。物語と物語の狭間には、私たちを守ってくれる恵みのようなものが存在するのです。結婚生活、お金、仕事、健康などを失わないということではありません。実際、これらのどれかを失う可能性は非常に高いのです。それは、それを失ったとしても、自分がまだ大丈夫だということを知るということなのです。火にも焼けず、窃盗犯にも盗めない、誰にも奪えず、失われることのない、もっと大切なものに近づいて接触している自分に気がつくのです。時にそれを見失ってしまうかもしれませんが、それはいつも私たちのことを待っているのです。それが、古い物語が崩壊している時に、私たちが戻りゆく安息の地なのです。その霧が晴れた時に、私たちは次の世界、次の物語、次の人生の段階についての真のビジョンを受け取ることができるのです。このビジョンとこの空(くう)の結婚から、偉大な力が生まれるのです。


 「古い物語の中では存在しさえしなかった可能性が、たとえそこに到達する方法が分からなくとも、あなたの目の前に横たわっているのです。」と書きました。これは、私たちが全体として近づいていっている場所についてのかなりうまい描写となっています。さまざまな形で古い「人民の物語」から離れた私たちは、人間の集合体の知覚器官なのです。文明全体が、物語と物語の間の空間に入る時、その結果、文明はこれらのビジョン、インタービーイングのテクノロジーと社会形態を受け取る準備ができるのです。


 文明はまだそこには到達していません。現時点では、ほとんどの人はまだ旧来の解決策がうまくいくと暗黙のうちに信じています。新大統領が選ばれ、新しい発明が発表され、経済が上向くと宣言されれば、希望が新たに湧くのです。物事がノーマルに戻るかもしれない。「人類の上昇」が再開されるかもしれないと。今日でも、無理に否定したり装ったりすることもなく、ただ荒れ模様の中にいるのだと想像することは可能です。新たな石油資源を発見し、経済成長のためのインフラを整備し、自己免疫の分子パズルを解き、テロや犯罪から私たちを守るためにドローンをもっと配備し、収穫量を増やすために作物を遺伝子組み換えし、太陽光を反射して地球温暖化を遅らせるためにセメントに白い塗料を塗りさえすれば、私たちはこの状況を乗り切ることができるのだと。


 これらの取り組みのすべてが、解決しようとしている問題よりもさらにひどい予期せぬ結果を生み出しそうだということを考えれば、何もしないことの知恵を見い出すのは難しくないでしょう。後述するように、このことは、アクティビストが妨害に徹するべきだということを意味しているわけではありません。何もしないことは、旧来的な行動の原動力であった物語の崩壊から自然に生じるものであり、それが故に、その物語の終焉を早めるためにできることをするようにと呼びかけているのです。


 1900年以降に書かれたものをほとんど読まないがために、明晰な頭脳が比較的無傷である私の同胞は、どのように転換が最終的には現れるかについてのビジョンを私に語ってくれました。官僚や指導者たちは、新たな金融危機に対してどう対処すべきか座って考えています。救済措置、金利引き下げ、量的緩和など、すべてのお決まりの中央銀行の政策が検討されますが、指導者たちはそれに対処する気になれないのです。「クソくらえ」と彼らは言うでしょう。「代わりに釣りに行こうぜ」と。


 ある時点で、私たちはただ立ち止まるしかないのです。ただ止まるのです、どうしたらいいかもわからぬままで。軍縮やパーマカルチャーの例で説明したように、私たちを堂々巡りへといざなう地図を持って、出口のない地獄絵図の中に私たちは迷い込んでいるのです。そこから出るには、地図を捨て、周りを見渡さなければならないのです。


 あなたの古い物語が終わりを迎えた時、あるいは終わりを迎えようとしている時、あなた自身も「クソくらえ」の症状を患ったことはありませんか?先延ばし、怠惰、中途半端な試み、流れにただ身を任せている状態ーこれらはすべて、古い物語があなたにやる気を起こさせていないことを示しているのです。かつて意味を成していたことが、もはや意味を成していないのです。その世界からあなたは身を引きはじめているのです。社会はその撤退にあなたが抵抗するようにと説得することに全力を尽くします。抵抗すると、うつ病と呼ばれるのです。集中したくないことに集中させ、どうでもいいことにやる気を出させるために、ますます強力なやる気を起こさせる手段と化学的な手段が必要とされるのです。貧困への恐怖が効かないのであれば、精神病のための薬物が効くかもしれないと。いつも通りの業務にあなたを参加させ続けるためであれば何でもいいのです。


 差し出されている人生に精力的に参加することを不可能にするうつ病(depression)は、集合的な表現もしています。真に迫ってくる目的や運命の感覚を欠いている私たちの社会は、泥沼化し、中途半端な状態で進んでいます。”不況 (depression)"は、私たちの集約された意志の装置であるお金として、経済的な意味でも現れ、停滞するのです。もはや壮大なことをするほどの意志はありません。インスリン抵抗性の糖尿患者にインスリンを投与するように、金融当局はどんどんお金を注入していますが、その効果はどんどん下がっているのです。かつて好景気の火付け役だったものが、今では経済が停止しないようにするのがやっとなのです。経済麻痺は確かにこの”止まること”の現れなのかもしれません。しかし、それは私たちの物語とその実現をきっぱりとあきらめさせるものであれば何でもいいのです。


 「何もしない」というのは万能の提案ではありません。それはある物語が終わり、物語と物語の間に私たちが入っていく時に特有なものなのです。私はここで「無為 (wu-wei)」という老子の原則から示唆を得ています。時に「何もしないこと (nondoing)」と訳されますが、「もくろみがないこと(noncontrivance)」や「強制することがないこと(nonforcing)」と訳すのが適切なのかもしれません。これは反射的に行動することからの自由を意味しています。行動すべき時に行動し、行動すべきではない時には行動しないということです。そうすることで、行動は物事の自然な動きと調和し、生まれたがっているものに尽くすのです。


 このことについて、私は老子の美しい一説からインスピレーションを得ています。この韻文は、非常に濃縮されていて、複数の意味と意味の重なりがあり、私がここで汲み上げようとしていることを際立たせている翻訳を私は見つけられていません。そこで、以下は私による翻訳になります。16節の後半部分ですが、既存の翻訳と比較すると、それらがあまりに違うことに驚かれると思います。


万物はすべてその根元に帰す。
根元に還ると、静寂がある。
静寂の中で、真の目的が戻ってくる。
これこそが本物なのです。
本物を知ることで、明晰さが生まれる。
本物を知らずの愚かな行いは災いをもたらす。
本物を知ることで、空間が生まれる。
空間から公明正大が生まれる、
公明正大から主権が生まれる、
主権から自然なるものが生まれる。
自然なるもの、それが「道」である。
「道」から永続するものが生まれ、
自己を超えて存続する。

(訳注)
上記は、チャールズによる英訳を私がさらに和訳したもの。下記は、岩波文庫版の蜂屋邦夫訳。

根元に復帰することを静といい、
それを命つまり万物を活動させている根元の道に帰るという。
命に帰ることを恒常なあり方といい、
恒常なあり方を知ることを明知という。
恒常なあり方を知らなければ、
みだりに行動して災禍をひきおこす。
恒常なあり方を知れば、
いっさいを包容する。
公平であれば王者である。
王者であれば天と同じである。
天と同じであれば道と一体である。
道と一体であれば永遠である。
そうすれば、一生、危ういことはない。


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