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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 アテンション (第21章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

私たちのアテンションを最も必要としているのは、私たちが感じないようにしている部分です。その部分に気を配ったときに私たちは変化し、世界も私たちと共に変わるのです。
ーダン・エモンズ


 アクティブな原理としての「無為」を説明する例を、私自身の内なるモノローグから挙げることにします。ある朝、車を車検に出したのですが、当時妊娠中だった妻のステラに早起きして迎えに来てもらう代わりに、5、6マイル歩いて家まで帰りました。はっきり言うと、これは私にとって全く大変なことではありませんでした。歩くのは好きですし、履き心地のいい靴を履いていて、寒空でしたが晴れていたのです。しかし、歩いているうちに、「参ったな、これは時間がかかるな。どうやってこれを利用できるだろうか。そうだ、家に帰ったら、実際の自分よりももっと疲れてお腹が空いていることを少しだけアピールして、ステラは彼女のために私が骨を折ったと思うだろう。そうすれば、私に特別優しくしてくれるはずだ。」と考えはじめました。


 それは少し見えすいていると思ったので、もっといいアイデアを思いつきました。「平気を装って、お腹が空いても疲れてもいないと言っておきながら、さりげなくそうであることを見せよう。そうすれば、彼女のために犠牲を払ったことだけでなく、気丈にもそれを秘密にしようとしたことも認めてもらえるだろう。」


 この二つの計画がいずれも分離の習性(愛情の欠乏、巧みに周りを操作することとコントロールの必要性、そうしなければ自分のことだけを考えている「他者」に心理的な力の行使)であると私は認識し、実行しないことにしました。その時、プランCが生まれたのです。疲れを実際に隠しておくことにしよう。黙して耐えることにして、子どもだましのたくらみに参加することはやめよう。でも待った、それは良くないな。殉教者の役を演じることになってしまう。葛藤を大事にすることで、ステラからも感謝からも切り離されてしまうから、まだ分離の習性だな。プランDに移ろう。それら全部を乗り越えた誰かとなろう。そうすれば自分を認めることができるし、まだそんなことをやっている他の人たちを見下すこともできるかな?いやそれじゃダメだ!他の人たちがそれぞれの道を歩むことを、寛大に、ジャッジメントなく受け入れよう。


 残念ながら、私はすぐにそれも「分離」から来ているのだと気がつきました。なぜ私は、自分が良い人間であることを証明し、何らかの美徳の基準を満たすことにそれほどまでに苦心するのでしょうか?それも一種の欠乏に由来しているのです。「再会」の中では、自己への愛と受容が自然なことであり、デフォルトの状態です。肯定的な自己判断でさえもジャッジメントであり、それは条件付きの承認なのです。


 それがプランEを導きました。この機会に自分の分離の習性を冷静にじっくり振り返り、過去のものにしようというものです。私は、真剣に自分に取り組んでいる人、手元にある重要な仕事を妨げる自己憐憫、自己賞賛、ジャッジメント、他のくだらないことのための時間などはない人になるでしょう。おっと。ここで私は自分が好むような小綺麗な自己イメージを構築しています。さらなる分離ですね。


 おそらく最終の案として、私はこれらのプランすべてを理由として自分自身を恥ずかしく思うことができ、それによって、赦しを得ることができるのでしょう。少なくとも、私は自分自身に嫌悪感を抱いているのですから。実際には、この案を熟考しませんでしたが、お望みとあれば、ぜひ試してみてください。


 このような一連の気づきは、瞑想家の間ではよくあることだそうです。瞑想家はそのときに、自身のために何かを得ようとするエゴがいかに油断ならないかに舌を巻くのです。そうだ、いい考えを思いつきましたよ。エゴと戦ったり、エゴに嫌悪感を抱いたりすることを通り越して、少なくとも、何の見栄もなく目の前にある大きな課題に謙虚に取り組んでいるかのように、悲しそうに当惑した表情で首をかしげればいいのではないでしょうか。それが成熟しているということですよね?


 これらのプランすべては、15秒ほどの間に私の頭の中を駆け巡りました。結局、どれも実行しませんでしたが。(まあ、プランAは少しあったかもしれませんが、それはステラに聞いてみてください。)どれも実行しないというプランFを思いついたことが理由なのではないですよ。単にどれも実行しなかっただけです。通常の意味においての選択では全くなかったのです。


 古い物語のよりとらえがたい習性のひとつに、計画を実行することで自己改善を図ろうとする目標指向の企てがあります。古い物語の習性を後にするという目標に向けてでさえ、その方法を無意識に適用しているかもしれないのです。しかし、そうすると、さりげないレベルでその物語を再現し続けることになるのです。上記の私の説明を読み返すと、私がそれぞれのプランを拒絶したのは、それが分離の習性を表していたからであるかのような記述になっていますが、それは誤解を招く表現です。私は自分の動機を注意深く解析して、分離から来るものを確実に排除しているわけではないのです。むしろ、それぞれの選択がどのように感じられ、どこから来ているのかを明確にするために、分離との関連性に気を留めるのです。


 では、それを基準に選ぶのでしょうか?違います!「気分よく感じることを基準にして選択する」と言うのはほぼ正確なのですが、少し違います。そうすると、私が「気分よく感じることを選ぶ」という選択についての原則を提唱しているように映ってしまいます。以前の著作では、このような原則を提唱しました。それが喜びを味方にして自己拒絶の習慣を打破する方法だからです。それでもなお、この原則は、二つの選択肢を意識的に比較検討し、どちらがより良いと感じるかを評価し、意志の力で喜びを選択することを意味しています。


 いずれかの原則に従って私たちは選択していると考えたときに、自分自身を欺いているとしたらどうなるでしょうか?その選択が本当は別のところから来ていて、選択のために挙げている理由が実は正当化であるとしたらどうなるでしょうか?実は、まさにこのことを実証している社会心理学の研究がたくさん存在するのです。社会的服従、自己イメージ、信念体系との整合性、集団規範や世界観の妥当性など、無意識の動機が、多くの人が疑っているよりもはるかに大きな影響力を及ぼしていることは明らかなのです。(注1)


 これらの研究知見は、「人間の自動性」についての、あるスピリチュアルな教えと一致しています。つまり、ほとんどの(必ずしもすべてではありませんが)見かけ上の選択は、実際には選択とは言えず、ずっと以前になされた選択の自動的な結果であるというのです。このことは、私たち自身や世界を変えようとする試みをやめるべきだということを意味するものではありません。


 では、それについて私たちはどうすればいいのでしょうか?もし、あなたが私と同様に分離の習性を持っていて、それを変えたいとしたら?多くのパーソナル・エンパワーメントセミナーは、新しい自分を宣言し、個人の責任と選択を確約することで締めくくられますが、時が経つにつれ、多くの人は古い習性がその宣言がされた瞬間よりもずっと強いことに気づくのです。「私は今、永遠に私の子供たちに愛のある辛抱強さで応えることを選びます」または「わたしとは、勇気があってジャッジメントを持たぬ者です」とあなたは宣言するかもしれません。“お互いに責任を持ち合う”ワークグループに参加するかもしれません。そしてあなたは、自分がやめると誓ったことをそのまま実行していたり、古いパターンで生活していることに気づいたときに、深い悔しさや羞恥心を感じるのです。そこで、約束を守ることを改めて決意します。そして、しばらくの間、それを実行し、気分良く過ごせるのです。これは、ダイエットしている人とそれほど変わりません。意志の力、そしてやる気を起こさせるあらゆるテクニックは、根本的な何かが変わらない限り一時的にしか機能しないのです。その根本的なことが変わったときに、私たちは自分自身と意志の力を褒めるかもしれませんが、それは錯覚なのです。私たちは力を信用することに慣れています。それが意志の力が暗号化していることであり、それはつまり、敵を克服するためのある種の心理的な力です。そして、その敵とはあなた自身なのです。


 「私たちはどうすればいいのでしょうか?」という疑問に答える前に、なぜそれが大事な質問であるかを説明したいと思います。上記で私は取るに足らない例を取り上げました。もしプランAを実行するのが習性になっているとしたら、その結果は、チャールズ・アイゼンシュタインが妻に対してかなり幼稚な関係を持っているのと変わらないでしょう。皆さんも、奥さんが少しママになりすぎている夫婦関係を多くご存じですね。名前をあげなくていいですよ!確かにセクシーではないですが、この世の終わりというわけでもないのですから。しかし、ヒーラーやアクティビストなど、高い理想を持つ人たちが、私が描写したような些細なエゴの動機に無意識に左右されることがどういうことか考えてみてください。その人のアクティビズムには秘されたアジェンダが隠されているということです。その人のエネルギーは、相反して作用しています。


 私たちは誰に仕えているのでしょうか?私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界のために私たちは本当に尽くしているのでしょうか?それとも、承認欲求、アイデンティティの創造、自己承認、虚栄心、自己正当化といった私的なアジェンダを追い求めるための旗印に過ぎないのでしょうか?ネット上での政治的議論は、どのくらい「ほら、俺が正しいだろ!そして、あいつらは間違っているんだ。どうやったらああなるんだ。なんて愚かなんだ。あいつらはひどいだろ?俺は善良だろ?」という大喜利のようなものになっているでしょうか?大多数が利己的な目標に向かうことで、もし私たちのエネルギーが分裂しているのであれば、私たちが達成するものはそれらの目標となり、それ以外のことは特に何も変わらないのです。


 最後の段落を読み返していただいて、いかなる恥も憤りも非難も生じないような物語の中から読み返すことができるか試してほしいのです。承認欲求、虚栄心、自己正当化といった言葉を用いて、私がひどい非難を浴びせたように聞こえますね。では、これらのニーズがどこから来ているのか捉えていきましょう。それらは、しっかりとしたアイデンティティを形作っていく親密なつながりから切り離され、幼い頃に条件付きの受容と拒絶を通して、承認に常に飢えたままでいさせる根深い自己拒絶を選ぶ習慣を身につけさせられた、傷ついている人間からの反応なのです。分離の習性はすべて、私たちの現状を示す症状であって、二次的な要因に過ぎないのです。


 これが重要な問いであるという第二の理由は、個人のレベルで真実であることは、集合的なレベルでも真実であるということです。私たちの文明は、私たちが変えることができないように見えるパターンにはまり込んでいます。1992年のリオ・サミットの論争を巻き起こした声明を見さえすれば、そのことがわかるでしょう。組織や国家は、そのメンバーのごく一部しか支持していない、あるいは組織の場合は誰も指示していない政策を日常的に追い求めているのです。なぜこのようなことが可能なのでしょうか?確かに、その説明の一部は、財政的・政治的権力を行使するエリートの利益と関連があります。しかし、この権力は究極的には社会的合意に由来するものであり、支配者たちの超権力からではないことを思い出さなければなりません。さらに、地球温暖化や熱核戦争の危険性なども、エリートたちの利益にはなりません。それゆえ、私たちは自己欺瞞の領域へと戻ってくるのです。私が問うているのは、「国家、つまり人類という種全体が、どうすればその破壊的な習性を変えることができるのか?」ということです。そこで、私はこの質問を個人のレベルで調べているのです。なぜなら、自己と他者、大宇宙と小宇宙、部分と全体が互いを映し出している宇宙の中では当然そう予期できるように、この問いが集合的なレベルにも比喩的に、あるいはそれ以上の影響を与える可能性があるからです。


 私が散歩の後で、分離の習性から行動しなかったのは、しないように試みたとか、しないことを選んだことが理由ではありません(この特定の状況において、私が自己中心的なドラマ王のような振る舞いをしたときのことを告白したとは思っていないですよね?)それは、私がその習性自体とその下にある感情に注意を向けたことによるものだったのです。習性に注意を向けると、その強迫的な衝動が弱まります。習性の根底にある状態に注意を向けることがその原動力を奪います。私のすべての小さな計画の根底にある感情は、柔らかで無力な孤独のようなものでした。それらに基づいて行動するのやめようという意図すら持たずに、これらの事柄に注意を向けました。私はアテンションの力がその務めを果たすと信じたのです。もしかしたらその結果、私は結局プランAを採用したかもしれないでしょう。そのことを気に留めてはいませんでしたが。


 その代わりに、もし私が難儀な徒歩の旅から恩恵を得ようとする秘密の計画に気づき、そして何としても自分を止めようと決意していたとしたら、どうなっていたでしょうか?もし私が、罰(罪悪感、恥、自己処罰、内なる声による言葉での虐待「おまえは一体何を考えてんだよ!」)で自分を脅し、報酬(自己承認、自分は成熟していて、ボブおじさんよりもましだと言い聞かせるなど)で自分に動機を与えていたとしたらどうなっていたでしょう?どうなっていたであろうかをお伝えすることはできます。私はプランAやプランBを明らかなやり方としては差し控えたでしょうが、それでもなお、一見もっともらしい否定論拠を自意識に与えるようなやり方でそれを行ったでしょう。なぜなら、もし私の目標が単に自分の内なる裁判官の審査に合格することであったのなら、その裁判官と私の他の部分たちが共謀して無罪の判決を手配していたであろうからです。私たち人間の自己欺瞞能力については、詳しく説明する必要はないでしょう。もし動機が自己承認なのであれば、たとえそれが美しいすべてを犠牲にすることになったとしても、私たちは自己承認を確保するのです。


 これは只事ではないですよね?私のここでの目的は、あなたを怖がらせて変化させることでありません。できるものならきっとそうするかもしれませんが、これは怖がっている最中にできるような変化ではないのです。脅してやらせることはできるかもしれませんが、たぶん結果は上記の報酬と脅威のスキームと同じになるでしょう。そうではなく、この種の変化は、それが起こるべきときに起こるのです。


 分離の習性はアテンションに屈するだけでなく、その時が来れば、それらの死のために必要なアテンションも追い求めます。それらの習性がアテンションを集める方法の一つは、それらが気づかれるような、かなり屈辱的な状況をつくりだすことです。別の方法は、他の人がそれらを映し出すことです。私たちのジャッジメントを引き起こす誰かの中にある問題は、しばしば私たちの中にも存在します。その映し出しは直接的ではないかもしれません。例えば、些細なことにある人がいつも感じている不安は、大きな物事に注意を払わない自分の姿が映っているのかもしれません。しかし、通常、そのきっかけとなった人を通じて、注意を促す何かが自分の中に存在しています。隠された習性が姿を現すもう一つの方法は、スピリチュアルな教えや、特に物語を通して、私たちの目の前に鏡を差し出すというものです。


 分離の習性の物語やリストが、好奇心の意識を読者の皆さんの中にあるいずれかのその習性の下へと導くことを願っています。くれぐれも、それらの習性を力づくで止めようとしないでください。もしそうしたとしても、おそらくうまくはいかないでしょうし、自分を欺くことになるだけでしょうから。実際、分離の習性に気づいた時に、恥の気持ちや、悔しさ、心を入れ替えたいという願望で反応するのは分離の習性です。私たちはここで、より良い人間、より優れた人間になるための探究をしているわけではないのです。「良い人であろうとすること」は古い物語の一部なのです。それは、現代の子育て、学校教育、宗教に由来する、内在化された承認欲求を反映しています。善であろうとするための探究は、自己との戦い、そしてそれを反映している自然との戦いの一部なのです。


 ここにもうひとつのパラドックスがあります。それは、より良い人になろうとする探究をあきらめたときにのみ、私たちはより良い人になれるということです。その探究では、それが求めるもののうわべだけが達成できるのです。独善的な人ほどに悪事を行うことができる人はいないのです。(注2)ある面白い研究で、参加者に有機食品またはブラウニーのようなコンフォートフードのパッケージを見せました。有機食品を見せられた被験者は、コンフォートフードを見せられた被験者よりも、低い共感性を示し、より厳しい道徳的なジャッジメントを下しました。隣の人のように、自分もそのブラウニーを食べたいと正直に言うときに、あなたのジャッジメントは当然少なくなります。このような研究は、しばしば謙虚さを呼びかけるものとして解釈をされます。残念ながら、謙虚さはハードワークや意志の力で獲得できるものではありません。もしそうすることができるのであれば、謙虚であることを自分の功績とすることもできるはずです。謙虚さを求めて努力する人たちに対して慎重になってください。大抵、彼らが実現するのは、謙虚さの模造品であって、結局は自分以外の誰のことも欺けないのです。むしろ、明るく無遠慮である人の方が謙虚なのかもしれないのです。

 

 もしあなたが独りよがりであるという習性に気づいたら、何をすればいいかわかりますよね。それに注意を向けるのです。恥ずかしさや苛立ちの感情に注意を向けるのです。その感情を止めようと意図することなくです。習性やその基礎となる感情に向けるアテンションをできるだけ優しいものとしましょう。愛情深く、寛容で、平和な気持ちで。それがその一生の最後の段階にあり、まもなくこの世を去ることをあなたは知っているので、その習性が長い間の勤めを果たしたことに感謝することさえできるでしょう。


 さて、あなたは時々、かなり突然に、ある習性からの劇的な解放を体験することがあるかもしれません。宣言や意志の力の時間さえあるほどにです。それは、「もうこれをやめる時だ!」という間違えようのない気持ちがあなたの中に強く生じるときです。それは、止まってほしいという苦悩する気持ちではなく、自信とある種の完了状態を伴う、明快で直接的な知覚なのです。もしあなたがそのような感覚の恩恵に預かっているのであれば、タバコを下に置くことができるでしょうし、注目を集めるために行動する習性も、最後の一言をいつも言おうとする習性も、決して再び選び取ることはないでしょう。しかし、だからといって自分が隣の人よりも強い精神性の繊維でできているとは思わないでください。前言撤回します。さあどうぞ、それを想像してみてください。それを想像している自分に気づいてみてください。そして、内なる裁判官に「いい子だね」という評決を出してもらうために働きかけるすべての他のやり方にも注意を向けてください。


 「私たちはどうすればいいのでしょうか?」という問いに対する私の答えが、少し逆説的であることにお気づきかもしれません。私たちが「する」というカテゴリーに入れるものはほとんどすべて、それ自体が分離の習性であり、大抵が自己葛藤であり、さもなければ何らかのジャッジメントを引き出すものなのです。実際には、答えは「あなたはそれについての何かをすでにやっているのです。」なのです。これは、分離のマインドにとっては把握し難いことです。まるで、私が何もするなと言っているように聞こえます。そして、何もするべきではない時間は存在するのです。しかし、遅かれ早かれ、無から、葛藤のない最大エネルギーに裏打ちされた自然な衝動である「すること」が生じるのです。皆さんの中で、この本を読んだことでプロセスが動き出したり、以前から始まっていたプロセスが加速された方がいることを願っています。以前は目に見えなかったこと、あるいは自分の力を超えているように思えた事柄をやっていたり、やっていなかったりする自分に気づくことでしょう。


 講演で、何か実践的なこと、やるべきことを尋ねられると、まるで彼らが私に侮辱することをお願いしているように感じることがたまにあります。喫煙者が「タバコの習慣が私を死なせようとしているのですが、どうすべきでしょうか?」と尋ね、「タバコをやめなさい。もっとがんばってください。」と私が言うのを望んでいるかのようなのです。もはや何が問題なのかわからないという時代ではありません。1970年代はそうでした。当時はグローバルの環境危機について知っている人はほとんどいませんでした。また、人々が解決策を知らないという時代でもありません。それは1980年代、または90年代のことでした。今日、解決策は個人的なものから地球規模のものまで、あらゆるレベルで数多く存在しますが、どのレベルにおいても、私たちはそれを実行に移していません。そして、私たちが慣れ親しんできた手段では、それを実現することはできないのです。今やそれは明らかなことではないでしょうか?


 「私は何もする必要がない。私が求めている変化はすでに起こっているのだ。」という考えと共にしばらく座ってみてください。そうすると、あなたの中にも私の中のものと同じような感情が湧くでしょうか?軽蔑の感情、膨れ上がる憤りのようなもの、そして、あまりにも素晴らしいものへの密かな憧れでしょうか?軽蔑と憤りは、「これは自己満足へのレシピであり、それゆえ災いをもたらすものだ。どんなに微力でも、努力をあきらめたら、希望は一切ないじゃないか。」と言っているのでしょう。それらの感情はまた、私たちを無目的で知覚を持たない宇宙へと放り投げる世界観に由来する深い不安にも通じています。その力が支配する世界では、もしあなたが何かを起こさない限り、何も起こらないのです。決して手放したり、信頼することはできないのです。でも、ただそうしたいという願う密かな望みも存在しています。その望みは大丈夫なものとなるのでしょうか?それとも、私たちのイデオロギーが教え、私たちの社会が具体化した宇宙の敵意が私たちのもろさを不当に利用するのでしょうか?


 そうなのです、やらないこと、いやむしろ、やることを課さないことは怖いことなのです。私たちの多くは、幼稚園か、それよりもさらに早くから、本当はやりたくないことをやり、やりたいことを控えるように私たちを訓練する社会で育ってきたのです。これは、規律、労働倫理、自制と呼ばれています。少なくとも産業革命の黎明期から、それは重要な美徳だと見なされてきました。煎じ詰めれば、産業界の仕事のほとんどが、まともな人間であれば進んでやりたがるようなものではなかったからです。今日に至るまで、私たちが知っている社会を維持している仕事のほとんどは、それと同じです。将来の報酬に引き付けられ、懲罰に懲らしめられながら、私たちは仕事という厳しい必要性に直面するのです。もしこの仕事が本当に必要なものであり、人々や地球の幸福に貢献するものであるならば、これはすべて正当化できるでしょう。しかし、少なくとも90%はそうではないのです。(注3)私たちの革命の一部とは、仕事と遊び、仕事とアート、「しなければならない」と「やりたい」の再会なのです。


 「何もしなくていい」という教えへの居心地の悪さは、行うという規律がなければ、何もなされないという労働倫理を徹底的に教え込まれていることにある程度は由来するのでしょう。もし頭上に成績表が張り出されておらず、週末に給与が与えられず、このような仕掛けによって創り出された労働の習慣がなければ、ほとんどの人はその仕事を続けられなくなるはずです。好きで仕事をしている人だけが継続することができるのです。つまり、奉仕や貢献、あるいは意味があるという明確な感覚をもたらすような仕事に就いている人たちだけです。そのような世界への準備として、そして、そのような世界を準備するために、その世界に対応する習性を育んでいきましょう。どんな形であれ、仕事をしたいという衝動を信頼する練習をし、それが存在しないときには、起こりうるパニック、不安、罪悪感を通り抜けるためにお互いを支え合いましょう。


 あなたは、「何もしなくていい」の下にある居心地の悪さを、より美しい世界は実現できるという信念や、戦争屋や企業のCEOでさえもその世界に貢献したいと願っているのだという信念、あるいは、私たちの個人の選択が地球的な意味を持っているという信念に異議を唱える冷笑に似たものとして識別したかもしれません。すべては「分離」という同じ傷から来ています。あなたのことは信用できません。私のことは信用できません。彼らのことは信用できません。私が心の中でわかっていることは、信用できません。私たちの外側にある宇宙には、目的も、拡がりゆく全体性も、知性もありません。私たちは自分とは相容れない宇宙の中で孤独なのです。


 パラドックスと共にこの話題からお別れしましょう。あなたは何もしなくていい。それはなぜでしょうか?何もなされる必要がないからということではありません。それは、あなたはやる必要はないということです。なぜならあなたはそうするのでしょうから。あなたが可能だと知っているよりもさらに大きく、より賢明な方法で行動しようという止めようがない衝動がすでに動き出しているのです。私はそれを信頼するよう呼びかけているのです。あなたは、行動へと自身を動機づけたり、罪悪感を与えたり、駆り立てる画策する必要はないのです。そのようなところから起こされた行動は、命じられずに生じた行動よりも力不足となるでしょう。何をすべきか、いつすべきかはわかるのだと、自分を信頼してあげてください。


 私たちの自己強制の習性は非常に根深く、高頻度で非常に捉えにくいので、自分の行動がどこから来ているのかを区別する方法を身につけることが助けになるかもしれません。真っ直ぐに、作為的ではなく、奉仕したいという気持ちでやったのか、それとも、本当の動機は、自分自身や他の人たちに自分が良い人だと誇示するためや、仲間内での自分のメンバーシップ資格を確認するため、自己非難や他人からの非難を避けるため、それとも、倫理ある人としての義務を果たすためにやったのか、ときに私には明確ではないことがあります。しかし、私は前者の方がよりたくさんの喜びがあることに気づきました。与えたいという欲求は生命力の根本的な表現なので、ギフトとして行われる行為は、自分が十全に生きているという感覚をもたらします。それこそが、探し求めるべき感覚なのです。


 このアドバイスが自己啓発本にしか書かれていないと思っている方のために、私の友人でトランジション・タウン運動のリーダーであるフィリッパ・ピメンテルがこの原則をアクティビストの現場で適用した話を紹介しましょう。彼女は、ポルトガルで最も不景気な地域の一つで、25%の失業率を抱える経済不況に陥ったトランジション・イニシアチブに参加していました。そのグループは大きなプレッシャーに苦しみ、燃え尽き、自分たちのしていることはとうてい十分ではないと考え、危機とニーズの圧倒的な大きさに直面し、内側へと引きこもってしまうことを求めていました。


 ある日、彼らはグループが崩壊しつつあることを認めざるを得なかったと、彼女は話していました。主要部をなす情熱を持つ者たちは、長い議論をし、多くの時間を経て次のようなコンセンサスを得ました。

 

・お互いを気遣い、守り、誰かが不調になれば、他の者たちがその人を包むようにすること

・彼らの取り組みは、純粋な意図、寛容さから来るものでなければならないということ

・グループによってサポートされながら、各自が継続的に自己成長に目を向けていること

・すべての行動は、喜び、真の欲求、そして啓示からくるものでなければならないということ。自分たちを犠牲にしないことと誰かが最も緊急だと言っていることに基づいて行動の優先順位をつけないことを決めました。

 

 この最後の原則は、コアチームの一人がスワップに関する活動を組織していた状況に対応するものでした。この町が抱える膨大なニーズからすれば、ほんのわずかに過ぎなかったかもしれませんが、彼女は楽しみながら、間違いなく自分のコンフォートゾーンを拡張していたのです。すると、ネットワークの中で、このプロジェクトを批判する人が出てきました。非効率的だ。商取引だけではなく、中古品市場にすべきだ。その方がインパクトが大きいのだから。すぐに彼女は、「こんなことで本当に違いを生み出せるのだろうか?」と疑問を持ちはじめ、気を落とし、動けなくなってしまいました。フィリッパが言葉にしていたように、彼らはミーティング中に「この街には、ギフト交換、中古品市場、ファーマーズ・マーケットなど、様々なことが起こる必要がある。これらはすべて存在する必要があるんだ。私たちにすべてやることはできない。でも、全部をできないからといって、何かをすべきではないということではないんだ。」と気がついたのです。そこで彼らは、今自分たちをつなげるもの、自分たちに喜びを与えてくれることを選ぶことにしたのです。「これが、私たちが成すことができる物事の膨大なリストを見ていくときの、おそらく最も必要とされる第一の基準です。誰かが特定の活動を組織することに苦痛や疲れのサインを見せているときには、私たちはこう問いかけます。自分がやっていることにつながっていると感じられているでしょうか?それはあなたを幸せにしていますか?それとも、そのために犠牲を払う必要があると感じていますか?もしこれが“労働”と感じられたら、止まりましょう!」と彼女は話すのです。


 彼らの気分をよくすること、つながっていると感じられること、労働だと感じられないことだけをやることをする......それは、切迫性に駆られ、より効率的であろうとしたときよりも、仕事をこなす量が減るということなのでしょうか?いいえ。彼らはより多くのことを成し遂げることができるのです。「グループはよりまとまりが良くなり、その場で追い詰められたり、すべてのネガティブなことに私たちの責任があると感じることなく、自分の気持ちを表現する自由が存在するのです。ある意味、近くにいる人たちや自分自身と共にあることで、恐怖心なく、真の喜びと帰属意識を持って、自分たちの仕事に打ち込むことがずっと容易になるのです。どういうわけか、グループの周りの人たちがそれを感じ取ってくれて、いろいろな「状況」が取り除かれていくようなのです。グループに流れがなくなると、ある時点で物事が滞りがちになります。それ以来、私たちはより多くのことを、よりポジティブなやり方で行っています。」とフィリッパは言います。


 より多くを、もっとポジティブにやってみたいと思いませんか?思いきって労働と感じることをやめてみませんか?取り組んでいることに真の喜びと帰属意識をもって自分自身を捧げたときに、どれだけあなたはもっと大きな影響を及ぼせるでしょうか?


 労働に何か悪いところがあるわけではありません。仕事と遊び、仕事と余暇...こうした二極分化を問い直すときが来ているのです。それは決して怠けることを意味するものではありません。私が建設現場で働いていたとき、労働はときに非常に苦しいものでしたが、試練となることはほとんどありませんでした。自分と戦っている感覚や無理を強いている感覚はなかったのです。大きな努力をするべき時期、自分の能力を極限まで高めようとする時期はあるのです。しかし、苦心することが人生のデフォルトであってはならないのです。


 スピリチュアルの実践でも同様です。分離の習性を解き放つための私のレシピが、仏教の教えやマインドフルネスの実践とほぼ一致していることに気づかれたかもしれません。ああ、ついに、何かやることがある!これで私たちは皆、マインドフルネスへの英雄的な取り組みに乗り出すことができます。マインドフルな人(特にティク・ナット・ハンほどではないにせよ、少なくともほとんどのマインドフルな自分自身。ですよね?)に感心し、軽蔑やお高くとまった寛大さで、そうではない人たちを見ることができます。私たちはマインドフルネスという新たな目標に向かって、同じ心理的な装置のすべてを使うことができるのです。


 ここまでのところを読んで、この計画に少し疑念を抱いていただけたら幸いです。状況が私たちの気づきの境界の下にあった何かを新たに意識させたときに、マインドフルネスもまたギフトとしてやってくるでしょうか?マインドフルネスをギフトとしてとらえ、そのようなものとして大切にすることを強くお勧めします。そのギフトを完全に受け入れて、堪能してください。おそらく、マインドフルネスへの道は、意志を激しく奮い起こすようなものではないのでしょう。私たちは意志の行使を意志の力で達成することはできないのです。意志の働きもまた、ギフトとしてやってくるのです。



1. いくつかの例については、Jon Hanson and David Yosifon, "The Situation: An Introduction to the Situational Character, Critical Realism, Power Economics, and Deep Capture," University of Pennsylvania Law Review 152 (2003-2004): 129. を参照。

2. Kendall J. Eskine, "Wholesome Foods and Wholesome Morals? Organic Foods Reduce Prosocial Behavior and Harshen Moral Judgments," Social Psychological and Personality Science (March 2013).

3. 『聖なる経済学』で深く論じているように、ローカル、ピアツーピア、分散型、エコロジカルな生産方式が、いかに退屈でなく、より有意義な仕事を伴うかについて議論しています。例えば、使い捨ての商品を作る組立ライン作業と、よく設計された耐久性のある製品の修理作業の違いを考えてみてください。単作農業と小規模な園芸の違い。ホテルのメイドとなって、ベッド&ブレックファストを経営することとカウチサーファーをホストすることの違い。もちろん、退屈なタスクも存続しますが、1日8時間でも、週5日でも、年中無休でも、経済的に必要な仕事でもないときに、これらは別の性格を帯びるのです。


第20章 無為                  第22章 苦闘


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