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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 苦闘 (第22章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。 

 正しいことをするための正しいときとはいつなのでしょうか?誰もがその質問に答えるための公式を提案することはできないでしょう。というのも、行動と静止から成るフェーズのリズムは、それ独自の知性を持っているからです。私たちが波長を合わせれば、そのリズムを聴くことができます。その知覚のための器官は、強い望み、ワクワクのうずき、あるいは流れの感覚、正しさの感覚、一致の感覚なのです。それは生きているという感覚です。その感覚に耳を傾け、信頼することは、実に深遠な革命なのです。もし私たちが皆、その感覚に耳を傾けたら、世界はどうなるでしょうか?


 このような深い自己信頼は、それと正反対である誰もがよく知る分離の習性、すなわち苦闘の習性を浮き彫りにします。古い物語の中では、人類全体が自然を征服し、超越することを運命づけられているように、個人としての私たちも、快楽や欲望、あらゆる身体的制限を含む、私たちが肉体と呼ぶ自然の一部を征服し、超越することを課されているのです。美徳は自己否定、意志の力、規律、自己犠牲によってもたらされるのです。自然に対する戦いが映し出すように、この自身に対する戦いはたった一つの結末しか持ちません。あなたは敗れるのです。


 自身との戦いの結果として生じる原則は、苦難を高みへ引き上げ、簡単に手に入るものの価値を引き下げるというものです。したがって、これは欠乏と感謝に欠けているという習性でもあるのです。あなたが瞑想の実践者で、誰かがあなたに「何をしているんですか?」と尋ねたと想像してみてください。あなたは、「そうですね、クッションに座って、呼吸に注意を向けているんですよ。」と答えます。質問した人は、「それだけですか?それの何が大変なんです?」と言います。気分を害したあなたは「ああ、本当に難しいんだよ!」と言うのです。困難であることが、瞑想の正当性を立証するのです。それをするためには、あなた自身の何かを克服しなければならないのです。ある種の苦闘に打ち勝たなければならないのです。


 瞑想の実践を探求すれば、苦闘のパラダイムはすぐに脇に追いやられるものだと私は気づきました。呼吸への集中を維持することは、強制することでは起きずに、なるがままにまかせることによってのみ起こります。実は、これはとても簡単なことです。物事を難しくする習性が邪魔をするのです。それにもかかわらず、私たちはしばしば「彼女は安易な道を選んだ。」という表現にあるように、「楽」という言葉を蔑称として使ってしまうのです。


 善は犠牲と苦闘によってもたらされるという信念は、何千年も前に遡りますが、たった幾千年のことです。そなたらが種を蒔けば、刈り取ることができるであろう。それは農業を特徴づけるメンタリティーです。古代の農民たちは、遠い未来の恩恵のために、体からの差し迫った衝動を克服することを学ばなければならなかったのです。畑を整え、雑草を抜くなどして自然を克服するのに大変な労力を要するのと同様に、遊びたい、歌いたい、歩き回りたい、作りたい、お腹が空いたときだけ食べ物を探したいという人間の本質を克服するのにも労力を要するのです。農耕生活には、こうした欲求を克服することがときに必要とされるのです。


 このプログラミングの深いルーツをたどっていくと、大袈裟な表現になってしまうのではないかと心配してしまいます。狩猟採集から農耕への移行は、ライフスタイルにおいても心理的にも、突然の断絶ではなかったのです。採食者たちは決して見境がないわけではありません。その瞬間に空腹ではない時にさえ、食糧の豊富な地域へと移動したり、狩りに出かけたりするのです。また、小規模農家は余暇を十分に楽しんでおり、その仕事がつまらなかったり、疲労困憊になるものであったり、不安に駆られるものであったりする必要はないのです。私たちの多くが知っているように、ガーデニングは楽しみでもあり、喜びでもあるのです。ですから、自己征服の価値観が定まっていった起源は、おそらく最初の「建造者」による文明と共に、後からやってきたのです。高度な分業、タスクの標準化、ヒエラルキー、その他の規制によって、規律、服従、犠牲、労働倫理といった美徳が必要とされていったのです。


 これらの文明は、分業、工程の標準化、それに伴う劣化、搾取、単調さを新たな高みへ押し上げた産業革命のための概念と組織の基礎を発達させたのです。そのときはまた、機械の価値が最大限に発揮されたときなのです。社会は何百万人もの人たちに実に困難なことを要求しました。私たちは未来のために現在を犠牲にすることを強いるために数々の制度を考案したのです。宗教はそうすることを説きました。死後の世界での報いのために、肉欲を否定し克服せよと。学校はそうすることを教えました。将来の外的報酬のために、どうでもいいような退屈な仕事ができるようになるよう仕向けたのです。そして何より、お金が私たちにそうするように教え、あるいは、より頻繁に、利息と負債という仕掛けを通じて、そうするよう強いたのです。利息は将来のさらなる報酬のために、目先の満足感(または気前の良さ)を見送るよう投資家を誘惑します。負債は、債務者に相当するものを強要するのです。


 これらの社会制度は、私たちの基本的な科学的パラダイムに含まれる苦闘を具体化したものです。生存競争を伴うダーウィン生物学の中だけでなく、熱力学第二法則の中で具象化されているエントロピーに対する絶望的で終わりなき苦闘を伴う物理学の中においても、私たちは敵意のある宇宙に住み、その中で私たちは自然の力に打ち勝ち、安全な領域を切り開かなければならず、無目的で無秩序なごちゃごちゃに私たちの設計を押し付けるために力を行使しなければならないのです。


 欠乏の習性と苦闘の習性がいかに絡み合っているかがおわかりいただけるかと思います。経済的なレベルでは、欠乏が犠牲を促し、強いるのです。心理的なレベルでは、(逆説ではありますが)自己克服を通じて自身を容認する必要性は、「私は十分ではない」という別の形の欠乏から生じているのです。そして、欠乏と苦闘の両方は、私たちの存在についての基本的な概念の中に暗に示されています。分離した自己は決して十分な状態にあることはないのです。恣意的で無慈悲な自然の力からのあらゆる脅威を防ぐのに十分な力はなく、ありとあらゆる不幸に備えるのに十分なお金はなく、分離した自己にとって完全消滅を意味する死に打ち勝つのに十分な安心はないのです。同時に、他の存在たちを犠牲にして、金、権力、安全を得ようとしている分離した自己は、本質的に悪なのです。自己征服、自己犠牲によってのみ、他の存在たちの利益のために行動することができるのです。このような悲惨さにさらされれば、私たちの永続的な犠牲が贖われる場所である異世界のスピリットの世界が魅力的となるのも容易に理解できるでしょう。


 この世界、分離の世界の中では、その犠牲は確かに永続的です。債務者はそれを生きています。投資家はそれを利用しています。小学生はそれを学んでいます。いつになったら、私たちはその妄想から目覚めて、人生を楽しめるようになるのでしょうか?


 その目覚めは深いものとなるでしょう。なぜなら、苦闘の習性は現代生活の中にあまりにも複雑に織り込まれており、私たちはそれを現実そのものとほとんど区別できないからです。もし自制心を働かさなければ、自分も社会も苦しむと当たり前のように思っているのです。食欲を抑えなければ太り、何もしないでダラダラする傾向を制限しなければ何もしなくなり、短気を好きなようにさせたら人に怒鳴ることになる、などなどです。欲望は信用してはならないのです!あなたの欲望が1ダースのドーナツを食べることだったらどうでしょうか?大酒飲みになることだったら?毎日昼まで寝ていたいとしたら?大声で叫び、レイプし、殺すことだったら?なるほど、あなたはある人たちよりも優れていて、そういったことをしたいという欲望がないのかもしれません。あるいは、あなたはもっと自制心を働かせているのかもしれません。肥満の人、中毒者、犯罪者、児童虐待者、殺人者よりもです。


 後の章で、特に欲望の奴隷となっている人たちとは自分は違っていて優れているとジャッジする習性を扱います。ここで私は、私たちの生活を破壊し、消費主義や強欲という形で、地球上の他の生命を破壊しているのは抑制されていない欲望であるという認識に正面から向き合いたいと思います。確かにそのように見えるかもしれません。しかし、内面化された「自然との戦争」や「支配の物語」にいかにうまく流れるように合致しているという理由が故にシンプルに、その見かけを疑ってかかるのが賢明です。自身への戦争を呼び起こさないような、欲望を理解するための他の道はないのでしょうか?


 あるとき、イギリスでの講演の後、若い女性が私に講演のために各地を飛び回っているのかと尋ねました。「そうです」と答えました。

すると彼女は、「それをどうやって正当化するのですか?」と尋ねたのです。

「どういう意味ですか?」

 彼女が飛行機での移動がもたらす二酸化炭素排出量について説明しはじめたので、ある時点でそれを遮り伝えました、「ああ、私はそれを正当化しません。生きていると感じられるから、自身に喜びをもたらすから、やっているんですよ。それが好きだからやっているんです。」と。私はさらに言いました。「もしあなたが望むのであれば、正当化の理由をつくりあげることもできますよ。私が飛行機に乗って話をすることによって発生する二酸化炭素の量よりも、ときには人々の人生の進路を変えたりもする、私が飛行機に乗り講演することによっての全体的な影響の方が大きいと信じている、と言えるかもしれませんね。もしかしたら、私の話を聞いて、税に関する法律ではなくてパーマカルチャーのキャリアを選ぶ人もいるかもしれません。エコロジー社会に貢献する生き方をする勇気を持つ人が出てくるかもしれません。でも、それが真実だと思っていたとしても、それが私の正当化理由だと言ったら嘘になります。本当の理由、真実は、好きだからやっているということなんです。」と。


 その女性は愕然としていました。「あなたは完全に非道徳的ですよ。」彼女は言いました。「その理屈なら、ただそれをやりたい気分だから、好きなことを好きなようにできますよね。動物の肉を食べることを正当化し、一過性の口先の快楽のために、生き物の命を犠牲にすることができますよね。殺人を正当化することもできますよ、もしあなたが「それをしたい気分だった」としたら。本気じゃないですよね。ただ望むままにやってくださいといってはいけないんじゃないですか!」


 「そうです、それがまさに私がやっていることですよ」と私は答えました。その会話はそれ以上続きませんでしたが、それを今再開します。「望むままにやってください」という表現が、自分たちが実は何をしたいのかわからないという認識へと導くことがわかります。そして、欲望の自然な対象物として私たちに伝えられてきたことがフィクションなのです。


 やりたいことをすること、あるいは心地よく感じることをすることのそもそも何が問題なのでしょうか?なぜ私たちは自制心を美徳とするのでしょうか?


 もし私たちが望むことが自分と他者にとって破壊的であるなら、それでは確かに、人々がただ望むことをするのを促すのはひどいことです。もしジャン・カルヴァンが人間の完全な堕落について正しかったとしたら、もし人類の進歩が本当に獣のよう野蛮な状態からの上昇であるとしたら、もし自然が根底ではそれぞれとすべてとの間での争いで、人間の本性がいかなる手段を用いてでもその戦いに勝つことだとしたら、もし人間が合理的な自己利益の冷酷な追求者であるとしたら、そうです、外側の自然を征服したように、内側の生物学的な自然を征服し、自分自身と宇宙の所有者となり、デカルト的な支配者となることで、私たちは欲望を制圧し、肉体を征服し、享楽を超越するのです。


 それが古い物語なのです。新しい物語の中では、もはや自然との戦いに身を置くこともなく、自身を征服しようとすることもないのです。誤った方向に導かれていたが故に、欲望がこれほどまでに破壊的であったと見いだすのです。私たちが欲しいと思っている物事は、しばしば本当に求めているものの代用品であり、私たちが追い求めている快楽は、その代用品が私たちの目を逸らさせている喜びに満たないものなのです。通常の視点からは、規律によってのみ、過食、ドラッグ、ビデオゲーム、見境のないネットサーフィンなど、私たちの周りにある誘惑に耐えることができるように確かに映ります。これらの物事は、私たち自身の生活とその先にあるものに対して否定できないほどに破壊的です。したがって、私たちが全く欲望を信頼できないように思われます。しかし、これらが私たちの真に欲しているものではないと認識したときに、私たちの目標は、欲望を抑制することではなく、真に求めていることや欲求を特定し、それを満たすことになるのです。それは決して些細な課題なのではなく、深淵な自己実現の道なのです。


 満たされていない欲求から欲望は生まれるのです。それが自己信頼の基本的な知覚なのです。「自然に対する戦い」やコントロールプログラムを映し出す「自己に対する戦い」の一つの表現として、自分の欲求を満たすことは許可するけれど、自分の欲望を”自分勝手に”満たすことは制限するというものがあります。それは古い物語の一部なのです。それは自己拒絶につながるだけでなく、ジャッジメントの精神にもつながります。私は自分の欲望を満たすことを抑制しているが、彼らはそうしていない。なんて自分勝手なんだ。彼らは自制しなければならない。規律を行使しなければならない。もし彼らがそうしないのであれば、もし彼らが単なる利己的な人間で規律を持ち合わせていないのであれば、なぜ、インセンティブやルール、報酬や罰によって、彼らが自分勝手に振る舞わないよう強制しなければならないのでしょう。私たちは、コントロールのプログラムを課さなければならないのです。


 新しい物語では、欲望の原動力となっている満たされていない欲求を探すのです。これは、個人の成長のためだけではなく、これから説明するように、社会変革のための強力な変容のためのツールです。私たちが満たされていない欲求に直接働きかけるとき、その欲求はもはや破壊的であった欲望の原動力とはなりません。その欲求に対処できなければ、欲望を駆り立てるボイラーは圧力をかけ続けることになります。中毒や表面的な欲望の充足は放出弁のようなものです。意志の力でそれをしっかり抑えつけると、圧力が高まり、最終的には暴飲暴食として、あるいは、もし欲望の古い表現が使用できない状態になった場合には、新たな中毒的行動として、爆発するのです。このことは、肥満手術を受けた人によく見られる“依存症転移”という現象を説明します。過食ができなくなると、飲酒やギャンブル、あるいは強迫的な買い物をはじめたりするのです。(注1)


 「自己に対する戦い」の無益さは、戦争全般の無益さを反映しています。戦いは常に、その状況を引き起こした深い原因を手つかずのままにしてしまうのです。唯一の例外は、国家やその指導者がはっきりと悪人である場合でしょう。もし彼らが救いようがないのであれば、武力が唯一の解決策となります。同様に、もしあなたの悪い行いが、あなたの中の生得の悪さ、生来のむき出しの堕落から来ているのであれば、唯一の解決策がそれを制圧することであることもまた真実でしょう。


 その論理は最終的には絶望へと至るのです。なぜなら、もしあなたがそれを制圧しようとして失敗したらどうなるのでしょうか?自分の中の堕落した部分が強すぎて、それを制圧しようとするどんな力よりも強かったらどうなるのでしょうか?自分の中のこの部分があなたの人生を動かしていたらどうなるのでしょうか?一見悪人に見える人たちが世界を動かしていたらどうなるのでしょうか?すべての中毒者が伝えてくれるように、はるかに強い力の前では、力では不十分なのです。欲望の力に打ち勝とうとするダイエッターの絶望と、世界を支配する消費の力に打ち勝とうとするアクティビストの絶望は、同じものなのです。私たちは皆、無数の異なる形で現れる同じ悪魔と苦闘しているのです。幸いなことに、暴力や強欲などの起源についての私たちの認識は間違っており、それゆえに、力による救済も間違っているのです。(注2)


1.  この現象については賛否両論あります。存在しないとする権威者もいれば、5~30パーセントの割合を示す人たちもいます。私が個人的に知っている肥満外科医で、術後に患者グループと会っている方は、この数字は90パーセントに近いと思うと話しています。


2.それを限定させてください。力には、あらゆるものと同様、適切な役割があります。私は、アルコール依存症から回復した人に、今日は飲まないという決意を捨てなさいと言うつもりはありません。また、銃を乱射する犯人や、進行中の虐殺を止めるために、武力の行使を控えるよう提案するつもりもありません。これらの解決策が問題の根源に到達していないことを理解すれば、真の癒しの場でこれらの解決策を適用する誘惑に駆られることはないでしょう。


第21章 アテンション              第23章 痛み



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