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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 痛み (第23章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 では、これらの満たされていない欲求とは一体何なのでしょうか?どのようにこれらの欲求を発見して、満たすことができるのでしょうか?人間の基本的な欲求の多くが慢性的に、悲劇的なほどに満たされないままになっています。これらには、自分のギフトを表現し、意義ある仕事をしたいという欲求、愛し愛されたいという欲求、人に真剣に見てもらって聞いてもらいたいという欲求、他の人たちのことを見聞きしたいという欲求、自然とつながりたいという欲求、遊び、探求し、冒険したいという欲求、感情的な親密さへの欲求、自分よりも大きな何かへ奉仕したいという欲求、ときに全く何もせずにただ存在したいという欲求が含まれているのです。


 満たされていない欲求は痛み、欲求を満たすことは心地よく感じられます。欲求、喜び、痛み、そして欲望間での関係がここにあるのです。満たされていない欲求が深ければ深いほど、私たちはより大きな痛みを感じ、それが生み出す欲望はより強くなり、それを満たすことでの喜びはより大きくなります。痛みと喜びは、私たちが本当に欲していて、本当に必要とするものを発見するための出入り口なのです。


 物語と物語の間の空間に入ったときに私たちが発見することの一つは、私たちが求めていると思っていたことを求めておらず、好きだと思っていたものが好きではなかったということです。私たちは自分の内面を見つめ、問いかけます。私は本当は何をしたいのだろうか?私はなぜここにいるのだろうか?何が私を生き生きとさせるのか?私たちのより深く満たされていなかった欲求はほとんど見えていなかったのです。そして、それらは長い間満たされていなかったので、私たちの物理的及び精神的なシステムはそれらを避けて作り替えられました。したがって、痛みは無意識化し、分散し、潜在化したのです。それがときに、満たされていない欲求が何であるかを特定することを難しくしています。人生の転換期には、その見えなくさせてきた物語が崩れ、人生において何が欠けているかが明らかになります。「何が痛むのか?」と、私たちは自身に問い、答えを見つけるのです。これらの答えは、つながり、奉仕すること、遊びなどの真の欲求を満たすことへと私たちを方向づけるのです。私たちがそうやって満たされていくことで、喜びと幸福が深まることがわかり、快楽はこの感覚のほんの代用物に過ぎなかったことを認識し、この感覚の方をはるかに望むのです。


 実は、それが真実だとも言い切れません。私たちの依存症や表面的な快楽は何かの代替物であるだけではないのです。それらはまた、その何かを垣間見せるもの、兆候なのです。ショッピングは、多くの人に豊かさやつながりの儚い体験を与えます。砂糖は、多くの人に自分を愛するという感覚を与えます。コカインは、自分が有能で強力な存在であることを知る瞬間を与えてくれます。ヘロインは、遍在していた痛みからの束の間の安らぎを与えてくれます。昼メロは帰属する感覚を生み出します。それは毎日目にする人たちの物語に巻き込まれることでちゃんと得られるのです。これらすべては、「分離」の状態を少しでも維持しやすくするための緩和薬であり、同時に「分離」をほどいていくための種を含んでいるのです。第一に、幸福や生気を感じる瞬間的な体験と、痛みや孤独を感じる通常の状態とを対比させることで、不満の種を蒔くのです。時間が経つにつれ、それらの緩和効果は減少し、破壊的な副作用は増大します。ドラッグが効かなくなるのです。私たちは投与量を増やします。やがてそれも効かなくなるのです。


 同じ力学が、現在私たちの文明を悩ませています。私たちは、テクノロジー、法律や規制、社会統制、医療介入の投与量を常に増やしています。当初、これらの方策は大きな改善をもたらしたように思われましたが、今では常態を維持し、苦痛を抑えるのにかろうじて事足りているだけです。最初の医薬品の処方は健康を大幅に改善しましたが、今では40億以上の処方箋が毎年アメリカ人に対して書かれており、際限なく新しい薬が人々を機能させ続けるために必要となっているのです。最初の機械は、それを導入した人々の生産性と自由となる時間を大幅に向上させました。今日、人々は次々とハイテク機器を購入しても、加速する生活のペースにまだついていけないと感じています。最初の化学肥料は作物の収穫量を劇的に増やしましたが、今では、農薬会社が土壌の悪化や農薬耐性などの問題にやっとの思いで対応しているのです。科学の黎明期には、観察される現象の複雑さをいくつかの優雅な法則に還元することで、現実を予測し制御する驚くべき能力を授かりました。今日では、「万物の理論」への実りなき探求の中で、かつてはシンプルだった法則を際限なく精緻化していき、私たちはより複雑で、より予測不可能な現象を発見しているのです。一方、悪化する生態系の大惨事が、私たちの見せかけのコントロールはまやかしなのだと突きつけているのです。


 軍事介入、政府の官僚機構、嘘と隠蔽、ティーンエイジャーをコントロールしようとすること、その他のコントロールに基づく緊急措置が短期的に劇的な解決をもたらす多くの状況について、私は同様の指摘をすることができます。その子供は自分の部屋に閉じ込められるのです。その独裁者は権力の座から追放されるのです。何かして気分良くなろうよ。一杯やろうよ。


 個人的なもの集合的なもの、いずれの場合も、措置によって根本的な病が覆い隠されます。どちらの場合も、措置が効かなくると、根本的な状態が表面化し、それに立ち向かう以外に選択肢がなくなるのです。それが私たちの社会に今日起きていることです。上記に書いたように、見えなくさせていた物語が崩れていき、何が欠けているのかが明らかになり、「何が痛むのか?」と自問しはじめるのです。


 個人の変容のワークについて語るときに、私は依存症とそれが組み込まれた物語の崩壊に伴って生じる痛みに十分なアテンションを注ぐことを提唱しています。(その“依存症”は、例えば自己イメージや、自分がいかに倫理的であるか、成功者であるかという考えなど、わかりにくいものであることもあります)。欲求を満たすのが心地良いのと同じように、満たされていない欲求は痛みます。痛みはそれへの注意喚起です。その欲求を満たすためのすべての代替物が出尽くしたとき、すべての緩和剤が効かなくなったときについに、分散し潜在化していた痛みが私たちを欲求へと導いてくれるのです。


 同じことが集合的なレベルでも起こっているのです。大衆社会の領域の中でアテンションに相当するものは何なのでしょうか?それは、私たちの地球で起こっていることについての物語を共有することです。もちろん、戦争や文明、商業や帝国がもたらす人的犠牲を社会に認識させようと、これらの物語を共有してきたアクティビストたちが常に存在しました。しかし、進歩や成長による、見えなくさせてきた物語があまりにも分厚かったのです。私たちは聞く耳を持てなかったのです。


 それが今や変わりつつあります。古い物語の免疫システム、つまり不都合な真実を視界の外へと追いやり続けるあらゆるメカニズムが劣化していっているのです。矛盾するデータが入ってくるたびに、その物語は弱まり、そして、自己強化のプロセスの中でさらに多くのデータが入ってくることが許されていっているのです。


 アテンションそれ自体が、私たちが講じるどんな改善への行動よりも癒す力を持っているように、地球で起きていることについての真実を語ることは、出来事の流れを変える力があります。繰り返しになりますが、何も行動を起こさないということではありません。その情報を消化することで、私たちが何者であるかが変わり、それによって私たちが何をするかも変わっていくのです。


 私たちは、偽りの覆いの下でのみ、地球を荒廃させ続けることができるのです。この地球上での私たちの生活様式によるひどい人工物が私たちの周りに散乱しているのに、どうして私たちは社会として何も行動を起こせないのでしょうか?私たちはなぜ明らかな奈落の底へと突き進んでいるのでしょうか?それは、私たちが盲目となり、無感覚に陥ってしまったからに他なりません。数字のゲームの裏で、銀行とヘッジファンドは大衆と地球から富を剥ぎ取っているのです。すべての利益計算書、すべての役員賞与の裏側には、露天鉱床、債務奴隷、年金カット、飢えた子供たち、破綻した生活、荒廃した場所などの破滅の跡があるのです。私たちは皆このシステムに参加しています。しかし、私たちが感じたり、見たり、知らない範囲においてのみ、私たちは進んでそうすることができるのです。愛による革命を導くには、私たちのシステムとその被害者たちの現実と再びつながらなければならないのです。イデオロギー、ラベル、正当化を取り払ったときに、私たちは自分がしていることの真実を自分自身に気づかせ、良心は目覚めるのです。目撃者となることは単なる戦術なのではなく、愛の革命にはなくてはならないものです。愛が他者を含むための自己の拡張であるのならば、私たちのつながりを明らかにするものは何でも、愛を育む可能性を持っているのです。あなたが知らない何かをあなたは愛することはできないのです。


 チェンジメーカーの一つの役割は世界の目となり耳となることです。オキュパイ運動の際に撮影された警察の残虐行為のビデオの力を思い出してください。従順に座っているデモ参加者たちの顔に唐辛子スプレーを浴びせるのを見たほとんど全員が気分を害したように、数字のベールの裏側を見た全員が、金融システムが世界に対して行なっていることに気分を悪くするのです。集団のアテンションを集めるためのアンテナとなることで、私たちはそのベールを剥ぎ取ることができるのです。たとえ加害者の一部が正当化と否認の中へとさらに深く後退したとしても、他の人たちは心変わりするでしょう。より多くの警察が発砲することを拒否し、より多くの権威者が自制を勧め、より多くの権力層の役人が仕事を辞め、内部告発し、内部から組織を改革しようとするでしょう。


 結局のところ権力とは何なのでしょうか?軍事力、監視システム、群集心理、メディア支配、世界のほぼすべてのお金など、権力層エリートたちが持つ圧倒的な優位性のすべては、人々が命令に従い、与えられた役割を遂行すること次第なのです。この服従は、共有されたイデオロギー、組織文化、そして私たちが役割を演じるシステムが道理にかなっているかどうかの問題なのです。道理にかなっているかどうかとは、集団としての認識の問題であり、私たちは人々の認識を変える力を持っているのです。


 

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