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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 快楽 (第24章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 それでは、アテンションが個人あるいは社会のレベルで痛みに働きかけるツールなのであれば、私たちはどのように快楽に働きかければいいのでしょうか?快楽とは、特に私たちがニーズを満たすことによって得られる気持ちだということを思い出してください。ニーズが強力であればあるほど、快楽はより大きくなります。この原則に従うには、まず私たちのニーズが妥当なものであり、美しくさえもあると受け入れることが大切です。そして、ニーズだけではなく、欲望もまた、満たされていないニーズから来ているのだと受け入れることです。息を止めると、あなたの酸素へのニーズが呼吸をしたいという思いを生みます。退屈な仕事に長く留まれば、あなたの成長したいという欲求が、制限を突破したいという気持ちを生むのです。社会はその解放されたいという欲求を閉じ込めたり、酔っ払うことやビデオゲーム、バンジージャンプなどの取るに足らないことに向かわせようとしますが、真の自由が持つあふれんばかりの豊かな広がりに次ぐこれらの快楽とは何なのでしょうか? 


 快楽を信頼することは、私たちの言語の一部となっているほどの深い規範や信念に異議を唱えることです。”困難”と”善”、”楽”と”悪”を同等とみなすことについてはすでに述べました。”利己的”や”快楽主義”といった言葉が蔑称であるという事実も、同じ基本的な信念を物語っています。しかし、インタービーイングの論理は、私たちの最大のニーズの中に、親密さ、つながり、与えること、そして自分よりも大きなものへの奉仕というニーズがあることを教えてくれます。そして、これらのニーズを満たすことが、私たちの最大の喜びの源でもあるのです。


 快楽と欲望は、生物を食物、暖かさ、セックス、その他必要なものに向かわせる自然の誘導システムです。私たちは自然の摂理の例外なのだと想像していませんか?私たちはその誘導システムを卒業して、快楽がもはや味方ではなく敵であるような、より高い領域へと移行したと想像していませんか?そうではないのです。それは「分離」の思考形態なのです。快楽による誘導システムは、私たちの中でも働いています。それは、食べ物、セックス、シェルターといった動物の基本的な欲求にとどまりません。あらゆる形で、私たちのニーズや欲望を満たす方向へ、つまり私たちの潜在能力開花に向かって私たちを導いているのです。


 その誘導システムから遠く引き離されている私たちにとって、何世紀もの時を経て、再びそれを信頼することは、存在するいかなる些細な快楽をも、意識的に意図的に満たすことと共に、自己信頼の習慣を構築することなのです。識別する力のための筋肉が強くなれば、それを使ってより大きな喜びを選ぶことができるようになり、それはより深い欲望の充足に相当します。快楽主義が、いつもかすかに破壊的な雰囲気を漂わせているのにはそれなりの理由があるのです。たとえ表面的なものであっても、快楽を選択し、その選択を受け入れ、祝うことは、「世界の物語」を根底から覆すプロセスを起動させることなのです。やがて、表面的な快楽は退屈で満足の得られないものとなり、私たちが喜びと呼ぶ快楽へと私たちは移行していくのです。


 この道を歩むことは、コントロールのプログラムの核心を突くことであり、その物語の影響を受けている誰しもの直感に怒りを引き起こします。快楽をむやみに追求した結果のイメージが浮かぶのです。レイプ、性的虐待、過食、ヘロインを打つこと、麻薬を吸うこと、スポーツカーやプライベートジェット機…サディストにとっては、拷問することや殺すことでの快楽もありうるのです。もちろん、チャールズ、あなたは本気で快楽原則を提唱しているわけではないですよね。もちろん、節度をもって、バランスをとって、自制心をもって調整されなければならないですよね。


 そうでしょうか。ひとつの理由として、どれだけの人たちが快楽原則を本当に追求したことがあるのかと問いかけてみましょう。決定の前に立ち止まって、「自分にとって本当に心地のいいことは何だろう?今、どんな行動をとれば、本当に自分への贈り物になるだろうか?」と正直に熟慮する人がどれだけいるでしょうか。私たちにとってほとんど未知となる快楽への献身を私は提唱しています。快楽という言葉はそれにふさわしくないかもしれません。喜びという言葉を使うべきなのでしょう。ただ、快楽と喜びは、前者が後者の邪魔をするような別々のものではなく、むしろ連続したつながりの上にあることを強調したいのです。真の喜びやつながりを感じた瞬間、死期が迫った愛する人の枕元でのひととき、何十年も続いた敵意を溶かす赦しが起きた飛躍的な瞬間を思い浮かべてください。森の中で牡鹿と出逢い、数メートル離れて立ち、お互いを見つめ合ったときのことを思い出しています。そして、今朝、学校に送り出したときに、8歳になる息子のフィリップが、長い時間、そしてあどけなく私を見つめ、突然、「パパ、愛しているよ。」と言ったことを思い浮かべているのです。このような瞬間を皆さんも体験したことがあるでしょう。つながりの喜び、分離が瞬間的に霧散したときのことです。クッキーを貪ったり、ポルノを見たり、怒りを爆発させたときの気持ちと比較してみてください。何が最も心地いいかに基づいて、あなたは何を選びますか?どれが自分への最高の贈り物なのでしょうか?


 利己主義や自己抑制についての私たちの概念が覆されてきたことがわかりますか?「再会」への導きから私たちを切り離してきた犯罪の非道さに気づくことができるでしょうか?


 私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界は、より多くの快楽と共にある世界なのです。もっと触れ合い、もっと愛し合い、もっと深く見つめ合い、よりたくさんの挽きたてのトルティーヤとまだ陽光によって温かいトマトがあって、もっと歌い、もっと踊り、もっと時間を忘れ、建築物の中にもっと美しさがあり、より多くの自然のままの景色があり、新鮮な湧き水にあふれる世界なのです。20年かけて山を通過する旅路を経て大地から湧き出る本物の水を味わったことがありますか?


 これらの快楽は、どれもそれほど遠くにあるものではありません。新しい発明を必要とするわけではなく、多数が少数に従うわけでもないのです。しかし、私たちの社会は、それらすべてを欠いています。私たちのいわゆる富とは、私たちの貧しさを包み隠すものであり、欠けているものの代用です。それは私たちの真のニーズのほとんどを満たすことができないので、中毒性のある代用品です。いくらあっても足りないのです。


 私たちの多くはすでに、差し出されている表面的な代用の快楽の本質を見抜いています。私たちにとってそれは退屈で、嫌悪感をも抱かせるものです。それらを拒絶するために快楽を犠牲にする必要はないのです。より大きな喜びよりも小さな快楽を選ぶという、深く染みついた習性を犠牲にさえすればいいのです。この習性はどこから来ているのでしょうか?それは分離の世界を構成する必要不可欠な鎖です。なぜなら、世界を貪り続ける機械を作動させ続けるために私たちがこなさなければならないほとんどのタスクは、まったく気分がいいものではないからです。そのようなタスクを続けるためには、快楽を否定するよう訓練されなければならないのです。


 産業革命の初期の労働者たちを工場で働くように仕向けるのは非常に難しいことでした。生物としての有機的なリズムは機械の単調さのために犠牲にされ、自然や子供たちの音、静寂さは粉砕機の騒音のために犠牲にされ、自身の時間に対する個人の主権は、時計の時間のために犠牲にされなければならなかったのです。したがって、教育や道徳のシステム全体は、自己否定を中軸として構築されたのです。その中で私たちは今も生きているのです。


 遊び、祝い事、神秘的なこと、ユーモアの要素が織り交ぜられていない革命には用心しましょう。もし、それが主に激しい闘争であるのなら、それは全く革命ではないのかもしれません。決して闘争が必要とされる時期がないとは言いません。しかし、変革のプロセスを主に闘争の観点からとらえることは、変革のプロセスを旧世界の何かに還元してしまうことになるのです。それはプロセスの他の部分を軽んじることなります。例えば、懐胎、待機時間、内側に向かうこと、呼吸、空、観察、傾聴、栄養補給、内省、遊び心に満ちた探究、未知なるものなどです。これらの事柄は、私たちがこの地球上でもう少し活用できるものなのではないでしょうか?


 快楽への感受性と識別力を回復させることは、各個人にとって特有で、それぞれのペースとリズムに従って進行する長いプロセスとなり得ます。それは、英雄的にすべての恐怖を克服し、自制心を軽視し、注意を怠り、すべての制限を突破することではありません。そのような超越には、古い物語の匂いがします。恐怖は、一部のスピリチュアルの指導者たちが私たちにそうだと考えさせるような一番の敵ではありません。罪やエゴのような古い厄介者の代わりに征服すべき新しい敵ではないのです。恐怖が成長を制限することは真実ですが、それはまた、その内側で成長が起こるための安全地帯を境目でくるむものなのです。成長がその境界線に突き当たったときにだけは、それを突破するときが来ているということなのです。ですから、探し求めるべき感覚は、少し時代遅れだと感じる恐怖の感覚とあなたが踏み出す準備ができている新しい一歩の感覚なのです。そう考えると、あなたが感じる恐怖は、ひどい恐れではなく、高揚感が伴うものであるべきです。


 同じアイデアを、他の人たちとの関係にも応用して、新しい物語へと人々を招き入れるようと努力することもできるかもしれません。セールスマンは、満たされていないニーズを掻き立て、それを満たすことができるように見える製品と関連づけることの力を理解しています。満たされていないニーズを見据え、それを本当に満たすものを人々に提供することができれば、どれだけより強力なのでしょうか。私たちは、他の人たちの中にある満たされていないニーズや表現されていないギフトを感知する練習をすることができます。そして、そのニーズを満たしたり、それらのニーズが満たされる機会を創りだすことができるのです。ここに、ヒエラルキー色の薄い世界でのリーダーシップのあり方の半分が存在しています。リーダーとは、他の人たちが自身のギフトを発揮する機会を創りだす人なのです。


 他の人たちのニーズを満たすということは、その人たちの快楽や喜び、幸せに仕えるということでもあります。これらのニーズが何であるかの私たちの理解が深まるにつれて、私たちが満たそうとするニーズは進化していきます。もちろん大抵は、それらのニーズを見出すための私たちの能力は、私たち自身の内側でそれらのニーズが満たされていることに依拠しています。インタービーイングの世界の中では、そうであると予見されるように。


 この哲学が、一般に快楽主義と呼ばれるもの(私たちの快楽主義への反射的な軽蔑は、自己否定の症状だと思いますが)といかに異なっているか、おわかりいただけていることを願っています。私は、もっとタバコや酒やカジュアルなセックスにふけりなさいと言っているのではありません。私は、「あなたが本当にしたいように、これらのことを自由になさってください」と言っているのです。完全な許容と罪の意識なしにそれらを行うときに、それらが私たちが本当に望んでいたものではないと、あるいはその欲望がその充足と共に何か他のものに進化するということを見つけるかもしれません。

 何年か前に私は、リタリンと生活の中にある男性たちとの強迫的な行動から離れようとしていた女性に(専門家としてではなく)カウンセリングしていました。彼女は元恋人に1日に何十回、何百回も強迫的に電話やメールをするのです。彼女は私にますます頻繁に電話をかけてくるようになり、「私のことをおかしいとは思わないわよね?」「この依存症から抜け出して、普通の生活を送ることは本当に可能なのかしら?」と尋ねるようになりました。それから、「私は電話かけすぎているのかしら?他の人たちみたいにあなたのことも遠ざけてしまっているのかもしれないわね。」と。


 私は彼女に伝えました、「あなたの最高の幸福のために本当に役立つときに電話をかけてくるあなたを信頼していますよ。本当にかけたいときと思ったときにいつでもかけてきてください。」と。その後、彼女はあまり電話をかけてこなくなりました。彼女がかけたいときに電話する許可を与えることによって、私はまた、潜在的に彼女が本当にそうしたくはないときには電話をかけないことに許可を与えたのでした。

 
 通常、破壊的な快楽を求める行動は、真の欲望の表現としてではなく、溜め込まれた欲望の噴出として起こります。カトリック神父の小児性愛スキャンダルは、否定された健全な性的欲求がいかに別の出口を見つけるかを示しているのです。同じことが、より一般的にも当てはまるのです。創造性、奉仕、親密さ、つながり、そして遊びへと向かう私たちの衝動を抑圧することの結果はいかなるものでしょうか?私たちが快楽主義と呼ぶものは、その抑圧の症状なのです。その症状を抑圧することで、その欲望のエネルギーをさらに破壊的な出口へと向かわせるか、そのエネルギーがガンやその他の病気として表現されることになります。その代わりに、私たちは症状から原因を辿ることができるのです。暴飲暴食や悪習にふけった後に真摯に自分に問いかけてみてください、「今、自分はどう感じているのだろう?」と。それは、本当のニーズを満たしたのでしょうか?滋養のある食事がそうであるように、満腹感と幸福感を後に残したでしょうか?それともまだ空腹感が残っているでしょうか?二日酔いは?麻薬の影響下でもまだうずいている傷は?その感覚にアテンションを向けるのです。自分を止めるためのトリックとしてではなく、あなたの人生における快の量を増やすことを意図した誠実な探求として。アテンションの力は経験全体を統合し、そうすることによって、その行動の内面化された連想の中に不快な後遺症をも含むようになるのです。それはもはや他の快楽よりも優っているとは見なされなくなり、渇望は衰えます。アテンションの力は、自制の力よりもはるかに大きいのです。


 以前の章で、私が飛行機での移動をいささか薄っぺらく非正当化したことに疑問を持たれているかもしれません。ジェット燃料の燃焼や、さらに広く見れば、消費の影響に関する情報の重要性を否定しているわけではありません。例えば、私たちが購入するすべての電子機器には、コンゴ、ブラジル、エクアドルといった場所から、生態系と人体のおぞましい犠牲によって採掘されたレアアースが使われているのを知るのは重要なことです。私たちには、その痛みを統合する必要があります。私たちがそうした時に、異なる選択を取りはじめるのです。「やりたいことをやる」の結果が自然と変わっていくのです。


 アテンションの範囲を広げたときに、私たち自身を広げることができます。私たちが食べているものが私たちであり、アテンションを向ける対象はすべてある種の食べ物となります。力に基づく世界観にによって条件づけられている私たちにとって、誰かが変わるために、新しい情報だけで十分だと信頼するのは新しいことです。私たちは、その情報を何らかの感情的なプレッシャー、非難、罪の意識の植えつけでバックアップしたがります。この本全体で主張しているように、これらは逆効果です。その情報への抵抗を引き起こしてしまうのです。私は、情報を送り入れるためのある種のトロイの木馬として、ユーモアと愛を使うことを好みます。その情報が一旦内側に入れば、その効果は発揮されるのですから。


 さて、この章に書かれているすべてが間違っていて、私が意志薄弱で、入り組んだ心理的な合理化によって自分の無規律を正当化しているだけだという可能性を考えてみてください。確かに、自己鍛錬、自制、節制を洗練させることを課する尊いスピリチュアルな教えはたくさんあります。特権のある環境に生まれ、古くから伝わる禁欲主義の精神的伝統に疑問を抱く私は一体何様なのでしょうか?一方で、同じく由緒あるタントラの伝統は、仏教、ヒンズー教、道教のどれにおいても表現されていて、私が言っていることと多かれ少なかれ一致しています。どちらが正しいのでしょうか?この問題を解決するような論理を示したり、この問題に決着をつけられる権威に申し立てることも私にはできないでしょう。おそらく、タントラと禁欲主義の二つは一つのものなのでしょう。快楽を信頼することでの私の生活の結果は、外側から見れば、かなり禁欲主義にように見える場所によく至らせていることを私は知っています。私は、「老子」36章の真理を目の当たりにしているのです。「何かを縮小させようと思うならば、まずそれをいっぱいに拡大させると良い。何かを弱めようと思うならば、まずそれを強くさせると良い。何かを衰退させようと思うならば、まずそれを繁栄させると良い。」非常に多くの場合、求めていると思っていたものが実現できたときにのみ、それを求めていなかったのだと気づけます。そのサイクルを体験することで、私たちは他の人たちのサイクルを速めるのです。私たちの物語が、他の人たちが望んでいない何かの中で迷い過ごす時間を短縮するのです。時に、私たちがその領域を探索することが、他の人がその領域に行くのを防ぐのに十分だったりします。人間の集合的な旅では、その完成と充足のために「分離」の領域の一つひとつは探索されなければならないのです。


 ですから、好きなだけお酒を飲んでいいという絶対的な許可を自分に与えることによって、私は結局ほとんど飲まなくなったのです。甘いものを好きなだけ食べてもいい自分に言い聞かせることで結局、自制していたときよりもはるかに少ない量しか食べられなくなりました。そして、買い物を自由にしていいという許可は私を古着屋へと導きました。これは、私がこれらの行動を止めるために自分を律したからなのではありません。これらの行動が実はあまり心地よくはないという事実を、多数のレベルにおいて統合したからなのです。そうすれば、親指を目に突き刺すのを控えるのと同様に、意志の力は必要とされないのです。もし私の目に痛みの受容体がなければ、控えるのは難しいかもしれません。同じように、その前、最中、後のすべての経験を統合していなければ、その習慣を止めるのは難しいことなのです。


 私たちの社会は、あらゆる行為から生じる痛みはどうにかして避けることができるという信念を広めています。気分が悪いのですか?何かをして気を紛らせましょう。タバコを吸ったらいいですよ。さらに気分が悪いのですか?映画でも観てください。まだ気分が悪いですか?お酒を飲んでみてください。二日酔いですか?薬を飲むといいですよ。延々と結果をどうにかしようとする習性は、以前の解決策によって引き起こされたダメージの結果を避けようとするテクノロジーによる解決の精神に類似しています。しかし、根本にある傷はまだそこにあるので、すべての解決策が尽きたときに、最終的にはそこでも痛みは待っているのです。ですから、禅宗ではこう言われるのです。「凡夫は結果を避けるが、菩薩は原因を避ける。なぜか?菩薩も結果を避けようと手を尽くそうとするだろうが、それが不可能であることを知っているからだ。」あらゆる手立てが尽きたときに、最後に待っているのは痛みなのです。そこが私たちの社会が今いる場所なのです。


 菩薩の視点から、私たちは特定のルールに基づく宗教の教えを解釈し直すかもしれません。おそらく、十戒は「十の兆候」を意味するのでしょう。殺さず、盗まず、両親に尊敬の念を持つなどしている自分に出会ったときに、あなたは自身が神の近くにいると知るのです。


 快楽、欲望、活力、喜びに焦点を当てることは、社会的、政治的なレベルでの活動にも指針を与えます。私たちの様々なやり方を変えるように促す差し迫る破滅的な勧告の中で、私たちはより美しい世界を創ろうとしているのであって、さらに犠牲を増やしながら現在の世界を維持しようとしているのではないことを思い出しましょう。私たちは、ただ生きながらえようとしているのではありません。私たちはただ破滅に直面しているのではなく、輝かしい可能性に直面しているのです。私たちが人々に提示しようとしているのは、より小さい世界ではなく、犠牲に基づく世界でもなく、楽しむことがより少なく、もっと苦しむ世界ではないのです。私たちは、もっと美しく、もっと喜びにあふれ、もっとつながりがあり、もっと愛に満ちて、より充実し、もっと高揚していて、より自由な時間があり、もっと音楽にあふれ、もっと踊りがあり、もっと祝い事にあふれる世界を提示するのです。あなたが今までで垣間見た人間の生活の中で最も感動的な一瞬一瞬。それが私たちが提示するものなのです。


 そのビジョンをしっかりと保つことができれば、それを活動の根底にある意味として伝えることができます。人々は、「あなたは犠牲を払って、より貧しく生きなければならないのです。あなたは自分勝手だ。あなたの人生は恵まれすぎている。」という秘密のメッセージよりも、そのビジョンの方に好意的な反応を示すでしょう。彼らは、あなたが自分たちを攻撃しているかのように反応するでしょうし、ある意味でそれは正しいのです。より美しい世界のための奉仕者となるためには、私たちが犠牲にするのが、私たちが発見していく物事ほど優れてはいないと知らなければなりません。5,000平方フィートの家は、歩いていける公共空間のあるコミュニティほど幸福感をもたらさないということを信じなければなりません。便利なライフスタイルは、ガーデニングや自炊ほど幸福ではないと本当に思わなければなりません。より速く生きることが、より良い人生を送ることではないと本当に思わなければなりません。文明による飾り付けは、人間が本当に必要とするものの惨めな代用品であると信じなければなりません。もしこれらの信念が不誠実で、私たちが創ろうとしている世界の真の可能性を見ることができなければ、私たちの言葉はほとんど力を持たず、私たちの行動もやる気を欠いたものになるでしょう。だからこそ、「実行して体現すること」、つまり、説いていることを実践することが大切なのです。それは(善良であろうとするキャンペーンとなる)偽善を避けるためではありません。それは、新しい物語に完全に住まい、体現することで、私たちが喜びと効力と共に奉仕することができるということなのです。



 

<第23章 痛み             第25章 ジャッジメント>


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