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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 ジャッジメント (第25章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 欠乏と苦闘の構造がいかに蔓延し、深く根づいているかを考えれば、私たちが自らの心理にその痕跡を持っているのも不思議ではありません。どのように私たちは自分自身を解放するのでしょう?それらの支配力はあまりにも強大で、私たちがどのようにトライしても、さらにそれらの支配力だけを強化してしまうリスクがあるのです。例えば、私が「どのように私たちは自分自身を解放するのでしょう?」と尋ねたとき、そうするためには何か大変な努力、自己変革のための記念碑的な努力が必要だと思いませんでしたか?もしそれが困難なことだと考え、努力することへの覚悟を決めたり、またはうんざりして目を背けているのであれば、あなたは苦闘の習性の影響下にあるのです。



 そして、その習性への服従について悔しがったり意識過剰になったりしていますか?それとも、その習性から自由になるための”試験を通った”ことを誇りに思っていますか?いずれにせよ、条件付きの自己承認を与えたり否定したりすることで、あなたはまた別の分離の習性の中にいます。必要とされるだけの基準に達していなければ、あなたは十分ではないのです。自身に対する戦いの重要な要素となる自己ジャッジメントは、最も一般的な分離の習性の一つです。



 多くの人は、自分に対して厳しいこと、「自分自身の最大の批判者」であること、完璧主義者であることを打ち明けることに苦労を要しません。結局のところ、彼らは私たちの文化が美徳として掲げているもの、すなわち自身に対しての闘いを打ち明けているに過ぎないのです。自分よりも他人を厳しく批判したり、ジャッジしていることを認める人はいるでしょうか?それだと自分が偽善者であると露わにすることに等しくなるでしょう。



 残念ながら、自己批判している人というイメージにとって、他人をジャッジすることなく自分自身をジャッジすることは不可能なのです。毎晩一日を振り返って、自分が誠実であったか、環境保護の見地から配慮していたか、浪費していたか、倫理的であったか、欲深かったかを評価し、それに応じて自分を褒めたり責めたりするとしましょう。それで、あなたより正直ではなく、責任感がなく、倫理的ではないすべての人たちはどうなるでしょうか?彼らはだからあなたほど善良ではないのでしょうか?あなたが彼らに対してお高くとまるにせよ、非難するにせよ、「私はあなたより優れています」(あるいは、あなたには劣りますが、少なくとも誰かよりは優れています)という暗に示された信条を逃れることはできないのです。


 批判的精神とは何を意味するのでしょうか?批判的であるというのは、単に区別したり、好みを持ったり、比較したりすることではありません。それには道徳的な判断や、正誤や善悪を割り当てることが含まれています。この割り当ては様々な形を取っています。「すべき」「すべきではない」「責任を持っている」とその反対、正と誤、倫理的、道徳的、正当と認められる、妥当である、恥ずべき、その他の善悪の同義語などの言葉は、通常、ジャッジメント表現の中に表れるのです。


 ジャッジメントとは分離なのです。根っこのところで、ジャッジメントは「あなたは私とは違っているので、私とは違う選択をしています」と言っているのです。それは、「私があなただったら、あなたがしたことを私はしないでしょう。」と言うのです。「私が企業のCEOであれば、環境を破壊して、そのことについて公に嘘をついたりしないでしょう。」「もし私がそれだけ裕福であれば、スポーツカーや大邸宅にお金を浪費したりしないでしょう。」「もし私がそんなに太っていたら、ビュッフェの列に4回も並ぶようなことはしないでしょう。」私はもっと善良です。そんなに無知ではありません。そんなに無責任ではありません。そんなに怠惰ではないのです。少なくとも、私は開かれた精神を持っています。少なくとも証拠を検討します。少なくとも教育を受けました。借金を支払いました。配慮を持って食べています。それに向けてがんばっています。最低でも、私は努力しています。あの人たちはいったい何を考えているのでしょうか?


 これが「分離」の本質ですーもし私があなたの置かれている総合的な状況の中にいたのであれば、あなたとは違ったことをしているはずです。


 実験証拠の相当の部分は、この表明が誤りであることを示しています。実際には、もしあなたが彼の置かれている総合的な状況の中にいたのであれば、彼とまったく同じように行動するはずなのです。これから説明するように、この真実と自分を同調させることは、おそらく変革のためのエージェントとしての私たちの有効性を拡げる最も強力な方法です。それは、自分を他の人の立場に置くという思いやりの本質なのです。それはこう言います、あなたと私は一つであると。私たちは同じ存在であり、異なる目を通して世界を見ながら、宇宙の関係性の網目の中で異なる結節点を占めているのです。


 それはまた非常に受け入れ難いことでもあります。自分の子供がお腹を空かせていたら、窃盗に手を染めるかもしれないとは思えるようになるかもしれないですし、幼少期の私が激しい怒りに満ちていたのならば、公の物を無分別に破壊することも理解できるかもしれませんが、ひざまずいて泣きながら慈悲を乞う人々を一人ずつ射殺したアンデス・ブレイビクのように、私が77人を虐殺するようになるためには何が必要なのでしょうか?高さ300フィートのレッドウッドの木にチェンソーを突き刺せるようになるためには私に何が必要なのでしょうか?拷問する者、幼児虐待者、性奴隷の売買人、殺人者の立場に立つことは非常に難しいと私はここで告白します。しかし、私たちがこれらの人たちよりも優れているようなふりをしてはならないのです。彼らに対するジャッジメントは私たちの理解不足を反映しているだけで、私たちの存在の核心においては根本的な違いはないのです。

 私はここで、内在化された状況と外的な状況の総体が私たちの選択や信念を決定づけていると述べる社会心理学で「状況主義」として知られる立場について表現しています。それに対して、私たちの社会では多くの人たちが、比較的安定した気質や嗜好に基づいて自由意志を発揮して意思決定を行なっているとする「傾性主義」の見方を持っています。傾性主義者は、もし誰かが良いことをしたら、おそらくそれはその人が良い人だからだと言うでしょう。しかし、状況主義者は、いいえ、それは誤りで、”根本的な帰責性錯誤”であると言うでしょう。多くの念入りな研究が、(私たちの社会では)人々が常に状況的な影響を気質の影響へと帰しており、人々の行動に影響を与えている状況を常に過小評価していることが明らかになっているのです。誰かが意地悪なことを言ったときに、私たちの最初の衝動は、彼女が意地悪な人だと思うことです。彼女が歯痛だったことをあとで知り、私たちは判断を変えるかもしれませんが、最初の衝動としては傾性的な判断を下そうとするのです。


 それは偶然ではありません。傾性主義とそれに付随するジャッジメントの精神は私たちの「人民の物語」に埋め込まれているからです。あなたの立場であれば、私はあなたのようにはしないはずです。なぜなら、私はあなたと異なっていますし、あなたとは隔たれているからです。その上で、状況主義は、「私」は個人よりも大きく、その主体、行為者、選択者は個人とその関係性の総体であると言うのです。自己は独立した存在を持たないのです。世界との関係から取り出された自己は自分自身ではなくなっているのです。


 1960年代のミルグラム実験にまで遡る数十年に渡る研究は、もし私があのCEO、あの政治家、あの義理の兄弟、あの元配偶者、あの先生、あの中毒者、あの許し難い人間だったら、彼らがしたようなことはしなかったでしょう、という私たちの聖人ぶった信条が間違っているということを示しています。自身に問いかけてみてください。どんな人が、心理学的実験の一環として、罪のない被験者に苦痛を伴い、命に関わりさえもする電気ショックを与えるというのでしょうか?間違いなくよっぽどの悪人しかそんなことはしないでしょうね。もちろん「あなた」はそんなことはしないでしょうね!ええと実は、結論から言うと、「あなた」はそうするのです。少なくとも、スタンレー・ミルグラムの研究室では、適切な条件が揃い、適切な言い訳、適切な物語があれば、ほとんど全員がそうしたのです。「白衣を着たイェール大学の科学者が責任者なのだから、まさか間違っているはずがない。」「被験者はこれに志願したんだ。」「私は責任者ではなく、指示に従っただけです。」さらに広く見れば、科学の正当性で飾られた名門大学の研究室で、恐ろしい何かが起こっているかもしれないという考えは、広く流布している「世界の物語」とその社会の正当性や妥当性に関する同意とあまりにも一致していなかったがために、ボランティアたちは次々にそのつまみを最大に上げてレバーを引いていったのです。

 背景にあった疑問は、アドルフ・アイヒマンのような目立った特徴のない官僚とSSの将校や強制収容所の看守になる前はごく普通の生活を送っていた大勢の人々によってナチスのホロコーストが遂行されたという事実をどのように説明するかというものでした。”凡庸な悪”をどのように説明するのか?この問いにはあとでまた戻りますが、もし私たちが「悪との戦い」を手放すのであれば、何か他の種類のアクションを動機づけるような形で悪を捉え直すことができるようにならなければなりません。なぜなら、地球上で非常に恐ろしいことが起こっていることを否定することはできないからです。これらのことは止められなければなりません。私はここで、悪のように見えるものに目をつぶることを提案しているのではありません。そもそも悪を生み出している状況、つまり私たちを浸している物語に対して、さらに大きく目を開くことを提案しているのです。


 状況主義の視点は、何らかの形で、社会心理学の中では広く受け入れられています。ジョン・ダーリーとC・ダニエル・バトソンによる1973年の実験は、状況が持つ力のもう一つの例を提示しています。聖書にある「善きサマリア人」の話をご存知でしょうか。ある男が強盗に殴られ、道端でうめきながら横たわっていました。祭司は彼を通り過ぎました。レビ人(祭司の助手だったのかもしれません)も同じように通り過ぎました。最後にサマリア人が立ち止まって助けたのです。この話を語るときに、イエス・キリストは質問した者に、この三人のうちの誰が殴られた男の”隣人”であることを証明しましたかと尋ねました。イエスはサマリア人は善だとは言いませんでしたが、今日、この物語は「善きサマリア人」と呼ばれ、サマリア人が祭司やレビ人と違っているは、その道徳的な性質であるとほのめかされているのです。


 この実験では、神学校の学生たち(現代版の祭司とレビ人となる訓練を受けている人たちです。実験者たちにユーモアのセンスは欠けていませんね)が、キャンパスの向こう側で、「善きサマリア人の物語」について講義しなければならないと伝えられました。彼らは三つのグループに分けられ、一つのグループ毎に指示が与えられました。第1グループはこう伝えられました。「急いでください。訪問講義に遅れていますから。」と。第2グループは、「急いだほうがいいですよ。あと数分で訪問講義がはじまりますから。」と伝えられました。そして、第3グループはこう言われました。「そうですね、そちらに向かった方がいいですよ。講義はしばらくはじまりませんが、ここでやることは終わりましたよ。」と。


 講演会場に向かう途中、学生たちは玄関先でうめき声を上げながら倒れている男性(実は実験者たちの仲間)の前を通りがかりました。彼らは立ち止まって助けたのでしょうか?あなたが予想するように、どのグループに属しているかに依拠していたのです。たった10%しか最初のグループは助けませんでしたが、3番目のグループの60%が助けたのです。

 なぜ第1グループの人たちは”怪我をした”人のすぐ横を通り過ぎて、第3グループの人たちは立ち止まって助けたのでしょうか?明らかなことは、すべての善良な人たちが第3グループにたまたまいたからではなかったということです。この聖書の物語は、「急いでいなかったサマリア人」と呼ばれるべきなのかもしれません。そして私たちは、好んで非難したい人たちを非難することはできないのかもしれません。おそらく、世の中の諸問題は悪を征服することによってでは対処できないのでしょう。


 私たちの個人的な判断だけではなく、社会制度の多く、特に法制度は、傾性主義的な仮定に基づいています。私たちは通常、人は自分の行動を選択する責任があると仮定し、強要されて行った行為と自発的に選択した行為を区別しています。しかし、強要は状況的な影響の極端な例に過ぎません。私たちは、私たちを形作ってきた体験の総和のために非難されるべきなのでしょうか。


 同様に、契約法は、二人の当事者が自分たちの利益や好みについての理解に基づき、自らの自由意志で契約を結ぶことを前提としています。契約はある種の力を内包しているのです。それが言っているのは、「私はここで合意したことを実行するように、あなたに強制されることを許可します」ということです。日常生活の中で、時には「状況が変わる」ことを私たちは理解しており、状況が大きく変化した場合には、その人に約束を押し付けないようにしています。その約束した人とその人の生活の状況とを切り離すことはできず、生活の状況が変われば、その人も変わるということを認識しているのです。ある意味、約束を交わした人は、もう存在しなくなるのです。契約とは、この真実を否定しようとする試みなのです。


 明らかに、状況主義は選択の本質、自由意志、動機、道義的責任、刑事司法に計り知れない影響を及ぼしています。これらの問題や他の多くの問題は、ジョン・D・ハンソンとデビッド・G・ヨシホンによる、影響力があり学識の深さを示す論文「状況主義的性格:人間という動物に対する批判的現実主義の視点」および、その関連論文である「状況:状況主義、批判的現実主義、パワーエコノミクス、ディープキャプチャー入門」の中で探求されています。


 状況主義はまた私たちが直接的体験としてアクセスできる理解でもあります。突然、ある人の世界に入り込み、その人がどこから来たのかの理解、そして、その人が成してきたすべてが理解ができたという瞬間の体験をしたことはないでしょうか?もはやその他人は、ある種のモンスターではなくなり、他者でもなくなるのです。その人であることという体験が少しは理解できているのです。この洞察により、赦しが自然と生まれ、憎むことが不可能となるのです。それはまた、私たちが誰かを憎むときはいつでも、自分自身も憎んでいるということを示しているのです。



<第24章 快楽                 第26章 憎しみ>



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