見出し画像

「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 憎しみ (第26章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。


 怪物と戦う者は、その際自分自身が怪物にならぬように気をつけるがいい。長い間、深淵をのぞきこむと、深淵もまた汝をのぞきこむだろう。
-ニーチェ

 敵を人間として扱うことは、まだ「憎しみの物語」の中で生きている仲間たちにとってはチャレンジなのかもしれません。彼らは新しい見方を軟弱さや裏切りとして解釈しているのかもしれません。「よくもまあ、あの人たちを許せたものだよね?」


 平和に専心している退役軍人の友人は、彼の友人が他でもないディック・チェイニーの専属シェフを勤める機会があったという話をしてくれました。何百万人ものリベラルが、酷い人間で、無情で、不誠実で、悪巧みに長けた主戦論者と認識している男です。この見方が裏付けられることを期待していた私の友人は、チェイニーの下で働くのはどのような感じだったか友人に尋ねました。「素晴らしかったよ」と彼は答えたのです。「お手伝いさんをどう扱っているかで、その人の性格についてが多くわかりますよね。私がただの料理人であったにも関わらず、彼はいつも温かく、威厳と敬意を持って接してくれたのですよ。」

 

 これはディック・チェイニーの政治的見解や行動を支持しているということではありません。ここでのポイントは、他の人たちと同じように基本的な動機や恐れを持つ完全にまともな人間が、ある文脈ではひどいことをして、別の文脈では立派なことをしうるということです。


 悪い行いを個人の悪に帰するという誤りは、ある種の裏切りへと至る鏡のイメージとなっています。それは、チェイニーや企業のCEOが友好的で知的な人たちだから、彼らの見解もそれほど間違っていないと考えてしまうというものです。これは「環状環境主義」という現象につながるもので、ワシントンDCのビジネス界や政府関係者と長く密接に仕事をしてきた人たちは、彼らの世界観の多くを吸収し、さらに知らない間に、何が可能で、現実的で、正当なことなのかについての彼らのコンセンサスを吸収してしまうのです。私たちが奉仕するものに仕えていない人たちを中傷することなく、奉仕に忠実であり続けるという挑戦があるのです。

 もし問題が、実際に権力を握る卑劣な人物の欲と邪悪さにあるとしたら、それはいいですよね?それならば、解決はとても簡単です。単純にその人たちを権力から排除し、世界から悪を一掃すればいいのです。しかし、それは最初の農耕文明が悪という概念を生み出して以来私たちと共に存在し続けているさらなる悪との戦いに過ぎないのです。同じことを繰り返しても、さらに同じことが起こるだけです。今こそ、より深い種類の革命のときなのです。


 トランジション活動家のマリー・グッドウィンはこうコメントしています。「『悪』を根絶するという解決策は、私たちをかなり閉口させていると考えられる世界の諸問題の解決を、現在のパラダイム内で実行可能なタスクへと変えているのです。だからこそ、私たちはその解決策を全力で守るのです。今日の悪いニュースや災害のストーリーによる絶え間ない集中砲火によって人々は本当に圧倒されているのだと思います。そのすべてが、善と悪の戦いに、主に武力によって勝利することができます(と私たちには伝えられているのです)。」


 その解決策は多くの問題を一つの問題に還元し、私たちのより深い神話に異議を唱えない形で世界を捉えているので、安心を与えるのです。


 ひねくれているような形で憎しみを拒否することによって、私たちはある種の裏切りを犯しています。私たちは憎しみそのものを裏切っているのです。善と悪を戦わせる「世界の物語」を裏切っているのです。そうすることで、私たちはかつての味方たちからの軽蔑と怒りを買い、相手を執念深い敵以外の何かとして扱えるとは非常に軟弱でナイーブだと揶揄されるのです。


 優秀で辛辣な左翼、アレキサンダー・コックバーンのコラムを読んだことを思い出しています。そのコラムの中で、政治ジャーナリストとしての教育の中で彼を形成した体験を回顧していました。編集者は、コックバーンに、「あなたの憎しみは純粋ですか?」と尋ねました。コックバーンが多くのインターンに何度も尋ねていた繰り返しの言葉です。コックバーンの世界とは、偽善者や馬鹿な人間たち、金銭主義や強欲、大胆な嘘つきや意図的に残酷なリーダーたち、そして彼らに権利を与えるおべっか使いや手先の人たちの世界でした。コックバーンが敵対者を始末するときの機知と毒にある種の邪悪な喜びを感じていたことを私は告白しなければなりません。しかし、彼が提示する証拠や論拠とは別に、彼が串刺しにするカモや弁明者たちの中に自分が含まれないように、彼の世界観に同意しなければならないという心理的なプレッシャーについてもわかっていました。


 おそらく巧みさでは劣りますが、同じような熱情をもって、アレクサンダー・コックバーンが行ったのと同じことを右派の権威者たちも行っているです。さまざまな意見が飛び交う中、同様の心理状態が蔓延っているのです。私たちは名誉毀損的な攻撃を不当なもの、あるいは的外れなものとして認識していますが、私たちの信念に浸透している気質主義のせいで、攻撃を仕掛けることに抗えないのです。誰々は悪い人だから、私とは意見が合わないのだと。「悪い」という言葉には、さまざまな形容詞が使われますが、ジャッジメントが感じ取れます。私は自分の記事に対するコメントを読むのをやめました。個人的な誹謗中傷を読み通さなければならないからです。コメントする人たちは、あらゆる知的・道徳的な欠点を私に押し付けてくるのです。私がナイーブであると。私が実体験を持たないナルシストで愚かなヒッピーであると。私がステージを独占しようとする傲慢な白人男性にすぎないと。私が自分の議論の中で 些細な論理的欠陥を見落としていると。まともな仕事を見つけるべきだと。そしてもう一方では、支持者たちが、あきらかに私が持っていない、少なくとも他の誰よりも多く持ち合わせてはいないさまざまな聖人のような資質を私に投影するのです。

 それは心地よいですよね。問題は、一度台座に乗ってしまえば、次にいく場所が一つしかないということです。私のFacebookページでのちょっとした過失でも激しい批判を引き起こします。10代の息子とプロムデートの写真を投稿すると、女性を対象化していると批判されました(彼女を「プロムデート」と呼んだからです)。私が執筆中に膝の上で眠っている赤ん坊の息子の写真を投稿すると、電磁波に晒し、共感的なアテンションを与えていないという批判を浴びました。ここで私が言いたいことは、自分を擁護することではなくて、批判にそれなりの正当性があるということです。重要なのは、批判した人たちがときに「あなたのメッセージに疑問を抱かざるを得なくなった」とか「あなたの作品を良心の呵責なく支持することがもうできなくなりました」と言うことがあるということです。これは憂慮すべきことです:私は、例えば『聖なる経済学』の提案が誰かに受け入れられるかどうかが、私の個人的な道徳の純度の高さ次第になることは望んでいません。もしあなたが、私が聖人君子か何かだと思い込んでこの本を読んでいるのであれば、今すぐこの本を手放した方がいいかもしれないですよ。いつかFacebook上で、私が他の人たちと変わらないことを知り、あなたは裏切られたと感じ、私のメッセージを偽善者の戯言だとして切り捨てるかもしれないからです。私の価値に基づいてではなく、これらのアイデアの価値に基づいて、これらをよく考えていただければと思います。


 相手の人格への攻撃は、「人が悪いことを言うのは、その人が悪い人だからだ」という気質論の論説を活かした戦術であり、メッセージの発信者を非難することによって、メッセージの信用性を失墜させようとするものです。状況主義者は、この見解が誤りであり、この見解に基づく戦術が逆効果になる可能性が高いことを知っています。確かに、私たちは歴史の真実や世界の仕組みをあばき続けるべきですが、それらの真実に耳を傾けてもらいたいのであれば、その暴露を通常の非難という陰影に包んではならないのです。コントロールのロジックは、加害者を辱めることで彼らを変えることができると言いますが、実際には彼らの物語の中へとより深く追い込んでしまっているだけなのです。攻撃されたときに、私は自分を守ってくれる仲間たちを探します。「いいや、恥じるべきなのは環境保護主義者であって、君じゃないよ!」と。私たちは、延々と非難のメリーゴーランドを繰り返しているのです。


 「責任は、庶民の苦しみや環境の悪化に微塵も関心を示さない、多額の政治献金をする銀行家たちにある。」というような誇張した巧みな言い回しをわたしたちが使うとき、私たち自身がおかしいかのように彼らには聞こえます。銀行家たち自身も多くの人間同様に実は仲間や地球を大切に思っているのですから。もし彼らの心に届こうとするのならば、私たちの問題提起は、彼らに個人としての悪をなすりつけることを避けるのと同時に、問題についての力学を妥協なく説明する必要があります。それをどうやればいいのかについての公式を提示することはできません。適切な言葉や戦略はコンパッションから、つまり、銀行家であれ誰であれ、私が彼らの立場であれば自分もそうするだろうという理解から自然に生まれます。言い換えると、思いやりのある、効果的な言葉は、私たちに共通する人間性を深く理解することから生まれるのです。そして、それは私たちが自分自身に対しても同じことを当てはめている限りにおいてのみ可能となります。本当に、実効的なアクティビストになるためには、等しく内なるアクティビズムが必要なのです。


 非難や憎しみとは異なる物語の中に私たちが立っているときに、他の人たちをもその場所から退かせることができるのです。私たちの平和な心が状況を変え、憎しみが自然に生まれてくる物語を途絶えさせ、新しい物語を呼び覚ます体験を差し出すのです。


 ちょっと待ってください。私がこのようなことを言っているのは、私がナイーブだからなのかもしれませんよ。軟弱で甘やかされた育ちが、悪の現実とそれに武力で戦う必要性を見えなくしているのかもしれません。私が人間がお互いにし得る最悪の事態を直接体験したことがないというのは確かに真実です。ですが、韓国のアクティビストであり農民であった黄大権(ファン・デグォン)のストーリーを紹介させてください。(注1)ファンは、1980年代に闘争的な反帝国主義の抗議活動をしていました。それは戒厳令が敷かれていた時代の危険な活動でした。1985年に、彼は秘密警察に逮捕され、北朝鮮のスパイであることを自白するまで60日間拷問を受けたのです。その後、刑務所に入れられ、そこの独房で13年間を過ごしたのです。この期間の唯一の友だちは、同じ房にいたハエ、ネズミ、ゴキブリ、シラミ、そして刑務所の庭で出逢った雑草だけだったと彼は言っていました。この体験が、彼を環境保護活動家に、そして非暴力の実践者に変えたのです。自分が耐えてきたすべての暴力は、自分自身の中の暴力を映し出す鏡であると悟りましたと彼は私に語ってくれました。


 今、彼が活動する上で一番大切にしていることは、「平和な心を保つこと」なのです。最近のデモで、暴動鎮圧の装備を持った警察の列がデモ隊に向かって行進していきました。ファンはその警察官の一人に近づき、満面の笑みでハグをしたのです。警察官は茫然自失となり、その目には恐怖が浮かんでいたとファンは言っていました。ファンの平和な心の状態は、その警察官に暴力を振るえなくさせたのです。しかし、これが「うまく効く」ためには、その平和な心が真性で深いものでなければなりません。笑顔は本物でなければなりません。愛は本物でなければならないのです。もし、相手を操ろうとする意図、相手に恥ずかしい思いをさせようとする意図、自身の非暴力と対比して残虐性を際立たてさせようとする意図があれば、笑顔やハグの力は格段に落ちるのです。


  1. 私は、ファンがこうした経験を語るのを、あるカンファレンスや個人的な会話の中で聞きました。彼はまた、『野草の手紙』という投獄中についての手記を書き、韓国でベストセラーになっています。


25章 ジャッジメント           第27章 倫理的正義



スキやコメントありがたいです😊