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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 倫理的正義 (第27章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

人々をどう見るかが、その人たちをどう扱っているかであり、人々をどう扱うかが、その人たちがなっていくものである。
-ゲーテ

 世界の問題は悪であり、その解決策はそれを制圧することであるという共通の合意の下には、満たされていない自己承認への心理的なニーズが存在しています。私たちの政治的な議論の3分の2は、正しくありたいという欲求とと一致していたいというニーズを満たすことに向かっています。もし私に反対する人が、愚かで、ナイーブで、いかさまで、邪悪であるから反対するのだとしたら、私は賢くて、利口で、独立心があり、善良でなければなりません。肯定的なジャッジメントも否定的なジャッジメントも同様に、自身を暗黙の基準点としています(怠けているとは「私より怠けている」を意味し、責任感があるとは「私のように責任がある」ことを意味します)。


 なぜあなたは、自分の心を掻き立て、憤慨させるようなウェブサイトを実際に訪れたりするのでしょうか?どんな理由だとしても(例えば「情報収集のため」)、真の理由は、感情的な満足感や、自分が正しく、賢く、一言で言えば善良であることを思い出させてくれるからなのかもしれません。あなたは内輪グループの一員となれるのです。さらなる安心をあなたが得たければ、他の大勢の人たちと集まって、自分たちがいかに正しく、他の人たちがいかにひどく、理解しがたく、邪悪で、病んでいるかを語り合うオンラインのディスカッショングループや対面のグループをスタートさせるといいかもしれません。残念ながら、この満足感には依存性があるため、いくら得ても足るを知ることはないのです。(ここでの真のニーズは自己受容であり、提供される代用品は真のニーズを満たさず、満たせないのです)。まもなく誰もが、より正しくあることを欲するのです。つまり、グループ内の特定の人たちよりも正しくあろうとし、それが内輪揉めや炎上騒ぎへと陥るのです。


 あなたはさらにもっと正しくあることをまだ求めるかもしれません。そうであれば、市民的不服従に参加しに行って、逮捕され、警察に打ちのめされてみてください。あなたの苦しみを通じて、権力にある者たちがいかに怪物であるかをはっきりと見せつけるのです。彼らが私にしたことを見てください!


 抗議行動や直接行動がいつも、あるいは通常、独善に由来していると言っているわけではありません。それらはまた不正を許す物語を一時不通にする強力な手段でもあります。普通という顔の下にある醜さを暴くことができるのです。間違いなく、ほとんどの本格的なアクティビストたちは、純粋な奉仕と独善的なモチベーションの両方を持ち合わせています。後者の動機が存在する限り、結果はそれを反映します。自身を善良で正しく見せ、相手を邪悪に見せるというゴールをあなたは達成するのです。そして、世の中に存在する憎しみの量を増やすことになるのです。あなたに共感する人たちは、悪事をなす者たちに対して憎み、憤るでしょう。この憤りが十分に蓄積されれば私たち全員が立ち上がり、エリートたちを倒すことができるというのが、明言されていない希望なのでしょう。しかし、独善と戦争のイデオロギーに覆われた私たちが、彼らの代わりに何を創りだすというのでしょうか。


 好戦的であることには、社会を変えるという公言された目標の下に、倫理的に正義でありたいという目標があることを感じ取る中立的な立場の人たちを疎外するというさらなる欠点があります。人々が、怒れるフェミニスト、極端な菜食主義者、過激な環境保護主義者に敵意を示すときに、彼らは自分たちの「世界の物語」とそれが認める自己満足を単に守っているのではなく、自分たち自身を暗黙の攻撃から防御しているのです。社会変革のためであれ、家族がより健康的な食生活を送るためであれ、あなたのアクティビズムが敵意を引き起こすとしたら、それは内面の不和を映し出している鏡となっているのかもしれません。

 好戦的であることへの応答が敵意ではなかったとしても、好戦派は簡単に切り捨てられます。 彼のコミットメントは本当は大義へのものではなく、好戦的であることですものねと。


 アクティビストのスーザン・リビングストンから、カリフォルニア工科大でBP社とのバイオ燃料契約に反対するオキュパイグループのために書いた提案書についての手紙をもらいました。「提案は、討論集会に参加した一部の人たちの過激な態度に悩まされたからです。対立するコミュニティ、つまりBP社に生活が依拠している大勢の下級官僚、小口株主、フランチャイズオーナーたちへの配慮が感じられませんでした。彼らは何なのでしょうか?巻き添え被害者でしょうか?特に、ナイジェリアでのシェルの手による人的・環境的破壊を描いた『The Drilling Fields』を観た後では、私は、二兎を追って二兎とも得たいという一部の特権階級の学生たちの憤慨に応えて、BPだけを取り上げることをそんなに好んではいません。それでも、私たちはどこかからはじめなければなりません。特権があることによって、効果的な抵抗キャンペーンをはじめることができるのです。」と彼女は述べていました。


 このコメントの中で、スーザンは特権と好戦的であることの間に重要なつながりがあることを描写しています。好戦的であること、つまり戦争のメンタリティは、常に巻き添え被害を伴うのです。「大義」のためには、何かが常に犠牲にされなければならないのです。他者(”対立するコミュニティ”)を犠牲にするのはまた、エリート意識を定義づけるメンタリティでもあります。いかなる理由であれ、他者は私や私の階級、私の大義よりも重要ではないのだというのです。特権階級は、常に自分たち自身の(他の人たちの利益のためにも)善行のために他者を犠牲にします。彼らがときに彼ら自身をも犠牲にしたとしても、それはエリート意識を鎮めはしません。


 これは、給油所のオーナーたちの生活を維持するために、石油会社が今のようなことを続けることを許すべきだということではありません。ただ、すべての人が、切り捨てられるのではなく、目をかけられ、思いやられる必要があるということです。好戦派は、戦いを放棄することは悪者たちの思い通りにさせることだと考えます。世界が本当に善人と悪人に分かれているならば、それは真実なのかもしれません。しかし、さまざまな映画がそう伝えていたとしても、世界はそのようには分かれていないのです。それならば、戦うことに代わるような選択肢は、変化を生み出す上でパワーが落ちるものではなく、よりパワフルなものになり得るのです。


 多くの場合、独善性から成される行動は、敵対的な反応を引き起こすことによって、独善的な考えを正当化することにしかなりません。ほらみてください。あの人たちはひどいって言ったじゃないですか!直接行動、抗議行動、ハンガーストライキなどは、独善性がない範囲でのみパワフルになります。可能となるかもしれないビジョンに意図的に奉仕するときに、それらの行動は実際に強力なものとなるのです。それらは戦争行為である必要はなく、真実を語る行為でも、親切な行為でも、奉仕の行為でもいいのです。自分の行動が、愛に扮した戦争ではなく、本当にこれらの行為なのかどうか、どうすればわかるのでしょうか?オンラインであれ、街中であれ、自分の政治活動における動機が何であるかを見分けるにはどうしたらいいのでしょうか?そうですね、もしあなたが、活動にそんなに関わっていない人たちに対して優越感を感じたり、非難の感覚を持っていたり、活動を理解しない人たちに対して恩着せがましい寛大さを持っているのなら(だから、あなたは彼らの代わりに尊い犠牲を払わなければならないのですね)、自分自身が善良であることを証明しようという動機がほぼ確実に存在しています。そして、それがあなたが成し遂げることなのです。あなたは自分への賞賛で満たされた状態でお墓に入ることができます。墓碑銘に「ある人たちとは違って、問題ではなく、解決の一端を担ったのです。」と刻むこともできるでしょう。でも、いっそのこと世界を変えたいと思いませんか?



 富裕層、権力者、共和党、民主党、大型動物ハンター、食肉産業幹部、フラッキング業者、あるいはその他の人類の一部が悪である(あるいは恥ずべき、実に不快、むかむかさせるなど)とあなたが考えているかどうか自問してみてください。もしそうすることで、より有効な変革の担い手になれるのであれば、その信念を喜んで手放しますか?自分の信念体系のどれだけが、肯定的な自己イメージを維持するための巨大なゲームとなっているかを考察してみる気はありますか?


 もし私が描写したような考え方に嫌悪感を感じたり、その中で生きている人たちにジャッジメントを感じたり、それが自分に当てはまるかどうかについて身構えているのなら、あなたはその考え方から完全には自由になっていないのかもしれません。それでいいのです。その考え方は、文明が私たちほぼ全員に与えた深い傷に由来しています。それは、「私のことはどうなっているの?」という分離した自己からの叫び声です。私たちがその場所から行動し続ける限り、(彼らがそう見なす)悪との戦いに誰が勝とうが関係ないのです。世界がその死のスパイラルから逸れることはないのでしょう。


 多くの人たちが(私が唯一の人でないことを願います!)、ある秘密の目的を携えて倫理的または道徳的と思われる選択をしています。自分自身や他の人たちに自分の美徳を示し、自分のことを好きになって認めてあげることを自分に認可しているのです。この目標の不可分なパートナーは、そのような選択をしていない人たちに対するジャッジメントです。「私はリサイクルしているから良い人だ(一部の人たちとは違って)。」「私は菜食主義者だから良い人だ。」 「私は女性の権利を支持しているので良い人です。」 「慈善事業に寄付しているので私は良い人です。」 「社会的に責任ある投資を実践しているので私は良い人です。」「社会からの報酬をあきらめ虐げれた人たちと同じ道を歩んでいるので私は良い人です。」 「根や果実を食べて、炭素排出量ゼロで森の中に暮らしているので、私は良い人です。」 私たちは自分たちの独善性に気づかないでいますが、他人はそれを1マイル先から嗅ぎ分けることができます。私たちアクティビストや善良な人たちが招き寄せる敵意は、私たちに何かを語りかけているのです。それは私たち自身の暴力の映し鏡なのです。


 オードリー・ロードの言葉に向かい合ったデリック・ジェンセンは、かつてこう言っていました。「私は誰の道具を使っているかなんざ気にしないさ。」 奴隷所有主の道具を避ける理由は、ある種の道徳的汚れを避けるためではありません。その言葉は、権力を行使するものたちから距離を置き、圧政者たちと同様の方法を使うことを控えているということを皆に(特に自分自身に対して)はっきりと示すためでもありません。むしろ、それはこれらの道具が結局のところ効果がないということなのです。


 もし肯定的な自己イメージを構築することが私たちの行動の目的であるならば、それが私たちが成し遂げることです。それ以上でもそれ以下でもありません。私たちは、自分たちの優れた倫理観を祝しながら、光を見ようとしない人たちのことを残念に思い、犠牲を共有しない人たちに腹を立てて人生を歩んでいくのでしょう。しかし、私たちの周りでは世界が燃え上がり、私たちがもっと美しい世界に貢献しているということを疑いなくわかっているという、より深いニーズが満たされていないので、時が経つと共に私たちの勝利のわびしさはますます明らかになっていくのです。


 コンゴ民主共和国(DRC)について私が書いた記事に対して、ある読者から強烈な批判が寄せられたことがあります。軍事指導者たちについて私が言及したことで、白人の助けを必要とするアフリカの野蛮人たちという物語が強化され、欧米の企業や重役会議室の中にいる真の加害者の罪が不明瞭になったというのです。実際には、記事の最初の3分の1は、植民地主義、奴隷制、鉱業、グローバル金融といった諸問題の外的な起源についてに費やされていました。私は、現在の経済・金融システムの下では、常にコンゴのようになる国が存在すると書きました。そして、”偉大な白人の救世主”という考え方を明確に批判しました。では、その読者はいったい何に怒っていたのでしょうか?


 その後に続いたその読者との対話にその手がかりがあります。軍事指導者たちが被害者であり加害者であることに同意しますが、それと同じことがCEOや銀行家にも言えますし、大きな暴力によってDRCなどから採掘されたレアアースでできた携帯電話を使っている私たちにも同じことが言えるかもしれないですね、と私は返答しました。私たちは皆、被害者であると同時に加害者でもあるのです、と私は言ったのです。真の犯人はシステムなのです。ですから、真犯人を特定の腐った人間の集団とみなす戦略は見当違いであり、最終的には失敗に終わります。


 その返答は私の批判者を激怒させました。「携帯電話を使う一般の消費者と何百万人もの人々を不幸に陥れている重役会議室の軍閥の間に、倫理的な同等性を持たせるとはどういうことなんだ?こいつらは、晒し者にされ、裁判にかけられ、責任を取らされなければならないんだ。」


 そうか、私は思い当たりました。彼が怒っている理由は、私の記事が彼の正義の怒りを妥当であるとしていないからなのです。もちろん、重役会議室を含むあらゆるレベルにおいてシステムの仕組みは、明らかにされる必要があります。しかし、その取り組みが、彼らは非難されるべき人々であり、彼らを罰し、「責任を取らせる」ことが問題を根本から解決するという仮定から生じるのであれば、問題の核心は手つかずのまま放置されることになるでしょう。一時的、局所的な改善は見られるかもしれませんが、大潮、つまり憎悪と暴力の潮流は高まり続けるのです。


 一部の人たちは、「向こうにいるひどい奴らを止めなければならない」という物語を何らかの形で支持しないものを読むと、常に激怒するのです。彼らは「ナイーブ」といった蔑称を使ったり、権力者の悪事を見抜けなかった作家自身が売国奴、人種差別主義者、あるいはまぬけであると非難したりするのです。(この批判者は、私が有名雑誌のゲートキーパーが好むように、自分のナラティブを軟化させているとそれとなくほのめかしていました)。本当は、彼らは自分たちの物語をただ防御しているだけなのです。攻撃の激しさはまた、彼らの防御の個人的、感情的な側面を露わにしています。一部のひどい人間を問題として見ることは、自分自身を「良い人」のカテゴリーに入れ、自分自身が共犯であることを免責しているのです。したがって、この物語に対してのいかなる脅威は、自分自身の善良さや自己受容に対する脅威であり、それは生存そのものに対する脅威のように感じられます。ですから、非常に強い反応となるのです。


 一般的に、自分のことを悪であると信じている誰かから身を守る方法は、攻撃してくる側に対しても同じ罪を着せるというものです。オンライン記事のコメント欄を見てみてください。右翼と左翼のサイトでは表面的な意見は反対のものとなっていますが、根底にある物語は同じなのです。相手側は人間の良識という基本的な資質が欠けている、というものです。彼らは無知で、独善的で、愚かで、不道徳で、許しがたく、病気であると。これは政治に限ったことではなく、同様のことがあらゆる両極化した議論において起こっています。MITの『科学、宗教、起源に関する調査』の共同執筆者である物理学者(彼自身も無神論者である)マックス・テグマークは、宗教原理主義者だけではなく、無神論者からさらに辛辣なコメントが寄せられたことに驚いていました。彼は、「宗教と反宗教という両極の人たちが、討論のスタイルにおいてはやっかいな類似性を共有していることに驚きを禁じ得ません。」と述べています。(注1)


 明らかに、自分たちの側がより優れた人間であるという暗黙の主張がある中で、両者が正しいということはあり得ません。だからこそ、お互い同士を悪としてきた相手方と一堂に会し、お互いの人間性がはっきりと表されるような条件(深い傾聴やジャッジメントの一時停止など)を創りだすことが実を結ぶのです。イスラエル人とパレスチナ人、妊娠中絶を支持するアクティビストと支持しないアクティビスト、環境保護活動家と企業関係者は、「彼らは悪にすぎない」という都合の良い説明が効力を持たないということを学ぶのです。彼らは意見の違いを保持し続けるかもしれないですし、彼らの利益相反を生み出す大きなシステム群はそのままかもしれません。彼らはいまだ議論の相手となるのかもしれませんが、もはや敵ではなくなるのです。 


 論争の両側が相手側の敗北と屈辱を大いに楽しんでいるとき、彼らは実は同じサイドにいるのです。それは戦争のサイドなのです。そして、両者の意見の相違は、彼らの明言されていない、通常は無意識の合意、つまり「世の中の問題とは悪である」というものよりもはるかに表面的なものなのです。

 この合意はほとんどどこにでも存在しています。多くのハリウッド映画の筋書きを見てみると、ドラマの解決は、救いようのない悪者を完全に倒すことでもたらされます。『アバター』のような大きな構想の映画から『ライオンキング』や『シュガー・ラッシュ』のような子ども向け映画まで、問題の解決策は同じで、悪を制圧することなのです。重要なことは、子ども向け映画の他では、このプロットが最も多く登場するタイプの映画が「アクション」映画であることです。悪者を倒すことが、あらゆる政治的アクションの背景にあり、問題視されることなくプログラムされているような仮定となっているのも不思議ではありません。それが戦争の決定的なメンタリティであるということは言及するまでもありません。そして、「悪」というレッテルは「他」を生み出す手段でもあるため、自然、身体、人種的マイノリティなど、私たちが他としたあらゆるものとの関係を規定するメンタリティでもあると言えます。


 さらにとらえがたいことですが、西洋が考えるストーリーやプロットでは、ある種の戦争が、3幕や5幕という標準的な物語構造の一部として組み込まれており、その中で対立が生じ、解決されるのです。それ以外の構造で、退屈ではなく、プロットとして成立するものはあるでしょうか?そうです。ブロガーの"Still Eating Oranges"が指摘するように、日本語で「起承転結」と呼ばれる東アジアの物語構造は、対立に基づくものではありません。(注2)しかし、西洋の私たちは、ほとんど普遍的に、その中で誰かや何かを克服しなければならないものとして物語を経験します。これが私たちの世界観を彩っています。克服すべきものの本質である「悪」を、世界とその諸問題を理解するために構築する物語の基盤とすることがごく自然なことのように見えているのです。


 私たちの政治的論議、メディア、科学のパラダイム、そして言葉さえも、変化を苦悩、対立、力の結果としてのものとして見るように仕向けているのです。新しい物語から行動し、その上に社会を構築するためには、全面的な変容が必要なのです。それを実行する勇気が私たちにはあるでしょうか?もし、私が間違っているのだとしたら?悪の本質について、より深く探っていきましょう。


  1. マックス・テグマーク「宗教、科学、そして怒れる無神論者の攻撃」ハフィントン・ポスト(2013年2月19日)。

  2. "The significance of plot without conflict," posted on Tumblr, June 15, 2012.



26章 憎しみ第28章 サイコパシー



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