見出し画像

「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 新しさ (第16章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。


 この新しい物語の新しさについて、少し立ち止まって考えてみましょう。結局のところ、古い物語の特徴の一つは、変化や目新しさ、常に新しいものやより良いもの、古い関係性や知識、伝統を軽んじる終わりなき進歩の冒険譚の中における最新技術の驚異を求めて古いものを絶えず捨てることの賛美なのです。新しいものへの執着はまた、既存の問題を”新しい”世界に入るときに置き去りにするため、それらを取るに足らないものとみなすある種の逃避主義となります。さらなる新規性がその前の新規性に由来する悲惨な予期せぬ結果から私たちを救い出すことを願って、私たちを救うテクノロジーに目を向ける人たちもいます。例えば、ナノテクノロジーが化石燃料テクノロジーによる気候への影響を覆させるだろうというようなことです。この野心には何の目新しさもありません。そこで私は、新しい物語が現代の”文明化した”社会に生きる私たちが慣れ親しんできたものの文脈においてのみ新しいということを明確にすることで、その懸念を未然に防ぎたいと思います。


 多くの読者は、「インタービーイングの物語」が、世界中の様々な先住民族や古代の叡知の伝統の世界観を反映していることに気づくでしょう。この本の中で表明されている原則は、どれも新しいものではありません。しかし、私は自分の信念を正当化する手段として「先住民の知恵」に訴えることには慎重です。第一に、それは先住民の多様性を過小評価し、先住民の信念体系の画一化を意味するからです。第二に、先住民の精神性の様々な要素がその文脈から引き剥がされ、様々な問題のある商品やアイデアのためのセールスの小道具として使われているからです。第三に、文明人と先住民をあまりにも峻別すると、私たちに共通する人間性が見えなくなり、先住民と呼ばれる人たちを表面的に価値あるものと評価しても、最終的には卑下するというある種の逆レイシズムを助長するからです。


 さらに、西洋文明の内部ででさえ、インタービーイングの教えはどれも新しいものではないのです。それらは、私たちの文化の中で、ある種の劣性遺伝子を構成していて、支配的であることは決してなく通常眠りについていますが、人類の様々な黄金時代に時折、部分的ではあるものの輝かしい表現に達したことがあったのです。それにも関わらず、私はこれを新しい物語と呼んでいます。いまだかつてそれが文明を生み出したことがないからです。その物語は私たちが慣れ親しんできた世界、つまりお金、学校、宗教、政治、その他の現代生活で具現化されている「分離」とは、鮮やかなコントラストをなしています。


 先住民族の精神性への高い関心は、ある文化の物語、儀式、聖なる信念を自分のものとして取り入れることや質を落とすことを含む文化的殺人の究極の形として批判することができます。しかしそれは、先住民族が失われた重要な知識をもっているという認識から来ているものでもあり、西洋の私たちが自分たちの儀式や神話、制度が衰退していく中で、ようやく耳を傾ける準備ができた知識でもあるのです。


 アインシュタインが「私たちの問題は、その問題をつくりだしたのと同じレベルの思考では解決できない」と言ったのは有名です。その通りです。しかし、私たちはどうすれば違うレベルで考えることができるのでしょうか?自分では違うと思っていても実際には新しい革袋に入れられた古いワインであるということと本当に違っているものをどうすれば見分けられるでしょうか?私たちの物語の外側にある知り方や在り方の術が注ぎ込まれることなしでは、同じ古い構成要素を入れ替え続けているだけで、私たちは永遠に古い物語の中で迷子となっているでしょう。幸いにも、「分離」の旅の途上で、「再会」のための三つの種、かつての、そして未来の時代からの知恵を流れ入れる三つの水路を私たちは密かに持ち込んでいるのです。ええ、三つ以上あるかもしれませんね。しかしここでは、三つとして私はこの物語を語ります。


三つの種

昔々、人類という種族は「分離」という長い旅に出ました。それは、地球上での破壊を目の当たりにした人たちが考えるような大間違いなのではなく、堕落でもなく、人類という種に特有の生まれつきの悪の表現でもなかったのです。それは目的を含んだ旅でした。「分離」という極限を経験し、それに応える中でギフトを発達させ、新たな「再会の時代」にそれらのギフトを統合するという目的だったのです。


 しかし、私たちは最初から、この旅には危険があることを知っていました。「分離」の中で道に迷い、二度と戻って来られなくなるという危険です。私たちが自然から遠ざかり、生命の基盤を破壊してしまうかもしれないと。私たちはお互い同士と大いに離れてしまい、裸のままにされ怯えた自我としてすべての存在による共同体に再び加わることが出来なくなるかもしれないと。つまり、私たちが今日直面している危機を予見していたのです。


 だからこそ、何千年も前に、私たちは「分離」の旅が極限に達した時に芽を出すようにと三つの種を植えたのです。三つの種、過去から未来への三つの伝承。世界、自己、人間としてのあり方の真実を保存し伝承する三つの道。


 あなたが3万年前に生きていて、これから起こるであろうすべてについての先見の明を持っていたと想像してみてください。記号言語、世界に名前を付けてラベル付けすること。農業、野生の家畜化、他の種や土地の支配。「機械化」、自然の力をマスターすること。世界がいかに美しく完璧であるかを忘れること。社会の原子化。人間が川の水を飲むことさえ恐れる世界。隣の家の人を知らない他人同士で暮らす世界。ボタンひとつで世界のどこをも破壊できる世界。海が濁り、私たちの肺を大気が焼く世界。こんなはずではなかったと思い出す勇気が湧かないほどに壊れている世界。それがすべて起こるということが見えていたと想像してみてください。そこから3万年後の人たちをどうやって助けるでしょうか?そのような広大な時間の隔たりを超えて、あなたはどのように情報、知識、援助を送るでしょうか?たぶん、これが実際に起こったことなのです。そうです、私たちは三つの種を思いついたのです。


 一つ目の種は叡知の伝統です。本質的な知識を何千年にもわたって守り続けてきた伝承の系統です。熟達者から弟子へと、世界各地でさまざまな叡知の伝統が密かに伝えられてきました。知恵の守りびとたち、スーフィー、禅師、カバラの実践者、道教の道士、キリスト教の神秘主義者、ヒンズー教のスワミなどが、それぞれの宗教の内部に潜み、世界がその知識を取り戻す準備ができる時が来るまでそれを守ってきたのです。その時は今であり、かれらはその役目を十分に果たしたと言えるでしょう。多くのスピリチュアル・リーダーたちは、ダライ・ラマでさえも、秘密の時代は終わったと言っています。あまりに早く明かされた知識は、勝手に取り入れられたり、悪用されたり、大抵は無視されたりしました。私たちが「分離」の領域をまだ覆いきっていなかった頃、私たちが自然の征服の拡大をまだ熱望していた頃、人類の上昇の物語がまだ完成していなかった頃、私たちは再会、つながり、相互依存、インタービーイングについて耳を傾ける準備ができていなかったのです。さらなるコントロール、さらなるテクノロジー、さらなるロジック、合理的な倫理観に基づきよりよく設計された社会、物質、自然、人間性へのさらなるコントロールが答えだと考えていたのです。しかし今、古いパラダイムは破綻していっています、そして、人類の意識はこの種が地球中に広がっていくだけの受容性の度合いに達しています。その種は放たれ、私たちの中で一斉に成長しているのです。


 第二の種は聖なる物語です。神話、伝説、おとぎ話、民間伝承、そして歴史の中でさまざまな形で繰り返しに表れる永遠のテーマのことです。これらは常に私たちと共にあり、「分離の迷宮」に迷い込んだとしても、どれだけ弱々しくもつれていても、私たちは真実につながる生命線を手にしていたのです。物語は、私たちの起源と行き先を知る自分の中の記憶の小さな輝きを育みます。分かりやすい形で真実を残しておくと、それが利用されたり歪められてしまうことを知っていたので、古代の人々はそれを物語の中に暗号化したのです。このような物語を耳にしたり読んだりすると、たとえその象徴的意味が解読できなくても、無意識のレベルで影響を受けるのです。神話やおとぎ話は、非常に洗練された精神的なテクノロジーなのです。各世代の語り部たちは、意識的に意図せずとも、無意識のうちに、隠された知恵を伝える物語から学んだその隠された知恵を伝承しているのです。


 分離と上昇のパラダイムに直接的に反することなく、私たちの神話や物語は現実に対する非常に異なる理解を密かにもたらしてきました。「ただの物語」という覆いの下で、直線的な論理、還元主義、決定論、客観性に反する感情的、詩的、霊的な真実を伝えているのです。道徳的な物語についてここで話しているのではありません。それらの多くのほとんどが真実を少し持ち合わせているだけなのです。二つ目の種を伝承するためには、物語に対して謙虚になり、自分の道徳的な目的のために利用しようとしないことです。物語は、現代の私たちよりも遥かに賢い人たちによって創られたのです。物語を語り、伝えるとき、その原型を尊重して、詩的な湧き上がりを感じない限りは変えないようにするのです。どの児童文学の中に真実の物語の感じが含まれているかに注目してみてください。最近の児童文学の多くはそうではないからです。真実の物語は、その物語の心象が心の中に留まるかどうかによってわかります。心に刻み込まれるのです。筋書きと一緒に他の何かが伝えられたという感覚を得るのです。目に見えない何かを。大抵、そのような物語には、作者にさえ知り得ない豊かな象徴的意味が含まれています。二つの20世紀の児童文学の比較が私の見解を明らかにするでしょう。「ベレンステイン・ベアーズ」の物語と「いじわるグリンチのクリスマス」を比べてみてください。後者だけが精神的な持続力を持ち、真の物語の精神を表し、元型的な象徴的意味に富んでいるのです。


 三つ目の種は先住民の部族で、ある段階で分離の旅から身を引いた人たちです。想像してみてください。旅の始まりに人類の評議会が集まり、一部の仲間たちが人里離れた場所に住み、分離を放棄することを志願したと。それは自然との敵対的で支配的な関係に入ることを拒否することを意味し、したがって、高度なテクノロジーの開発へと導いていくプロセスを拒否することを意味しました。それはまた、「分離」に深く入り込んだ人間に発見された時に、最もおぞましい苦しみを味わうことを意味していました。それは逃れざることだったのです。


 この第三の種の人々は、今日においてはその使命をほぼ終えています。彼らの使命とは、どう人間として在るのかの生きた手本を示すためにとにかく長く生き延びることにあったのです。それぞれの部族は、この知識の異なる部分、時には多くの部分を携えていました。それらの多くが、土地や動物、植物をどのように見て、どのように関わるかを私たちに示すのです。夢や目に見えないものとの関わり方を私たちに示してくれる人たちもいます。また、『コンティニュアム・コンセプト』のような本によって今広まっているように、自然な子供の育て方を守ってきた人たちもいるのです。言葉を使わずにどのようにコミュニケーションをとるかを示してくれる人たちもいます。ハドザ族やピラハー族のように主に歌でコミュニケーションをとる人たちです。直線的な時間の考え方から自分たちをどのように解放するかを示してくれる人たちもいます。彼らは皆、私たちが直感的に認識し、心から望む存在のあり方のよい手本となってくれているのです。彼らは私たちの心の内にある記憶を呼び覚まし、回帰したいという気持ちを目覚めさせているのです。

***

 ある会話の中で、ラコタ族の長老アロイシウス・ウィーゼル・ベアは祖父にこう尋ねたことを教えてくれました。「おじいちゃん、白人たちはすべてを破壊していっているよね。僕らはそれを止めるべきじゃないの?」彼の祖父はこう答えました。「いや、その必要はないんだ。我々は黙って待っているんだ。白人たちは自分の仕掛けたわなにかかって負かされるだろうよ。」長老はこの返答から二つのことを認識しました。(1) 「分離」が自らを滅ぼす種を抱えているということ、そして、(2) 自分の民の役割は自分自身でいることだということです。しかし、これは白人たちを当然の報いの中へと見捨てる非人情な態度なのではなく、「とにもかくにも自分自身であること」の途方もない重要性を理解しているからこそのコンパッションと助けようとする姿勢なのだと思います。彼らは地球とすべての存在の共同体が必要としている何かを存続させてきているのです。


 同様に、私たちの文化が先住民のものすべてに魅了されているのは、単なる文化的帝国主義と搾取の最新形態なのではありません。確かに、文化的支配の最終段階は、先住民のあり方をブランドやマーケティング・イメージへと変えることでしょう。そして確かに、私の文化圏にはコミュニティや真のアイデンティティから切り離され、ネイティヴという擬似的なアイデンティティを身につけ、ネイティブの文化、精神性、人々などとのつながりを誇りにしている人たちがいます。しかし、その根底では、生き残ったファースト・ピープルが私たちに教えてくれる大切なものがあると私たちは認識しているのです。私たちは彼らのギフトに惹かれているのです。現在という時にまで彼らが守り続けてきたその種に。この種を受け取るために、彼らの儀式に参加したり、動物の名前を名乗ったり、先住民の祖先を獲得したりする必要はなく、ただ彼らが守り続けたものを謙虚にみつめるだけでいいのです。そうすれば記憶が呼び覚まされるでしょうから。つい最近まで、自分たちの文化的優越感や傲慢さ、宇宙を支配しているかのような成功体験に目がくらんでいた私たちには、そのような見方は出来ませんでした。生態系と社会の危機の重なりが私たちのやり方の破綻を明らかにしている今、私たちは他の人々のあり方を見る目を持つことが出来るのです。


< 第15章 通説              第17章 切迫感 >






この記事が参加している募集

最近の学び

スキやコメントありがたいです😊