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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 通説 (第15章)

本の内容紹介、目次、著者チャールズ・アイゼンシュタインについて。

それこそ本当のところ、私たちに要求される唯一の勇気です。私たちに出あうかも知れぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気を持つこと。人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りない禍をもたらしたのです。「幻影」と呼ばれる体験や、いわゆる「霊界」なるものの一切や、死など、すべて私たちに非常に身近なこれらのものは、日ごとあまりにも生活から遠ざけられ、はばまれてしまったために、これを捉えようにも私たちの感覚が萎縮してしまっています。
ーリルケ
「若き詩人への手紙 若き女性への手紙」より 新潮社


 スピリチュアリティとアクティビズムの合流は、精神と物質のより幅広い再会を反映しており、私たちはその中で二つの領域を一つのものとして受け入れます。これは、私たちがスピリチュアルと呼ぶかもしれない現象を科学の言葉でごまかす主張とは異なります。精神の物質への還元を超えて、それは物質の精神への昇華なのです。


 この再会はまだ不完全なものです。”科学的に証明されていない”とレッテルを貼られた現象や非科学的とレッテルを貼られた因果律にこの本が言及していることにゾッとする政治活動家の方々がまだたくさんいるでしょう。彼らは科学の通説が同じ布地から切り取られ、他の支配的な制度がそうであるように、同じ目的のために尽くしていることに気づいていないのです。科学の通説は、経済、政治、組織宗教と同様に、「分離の物語」の維持に貢献しているのです。(注1)


 同様に、オルタネティブの科学パラダイムやテクノロジーに詳しい読者は、それらが人類を救うというアイデアに懐疑的な私にもどかしさを感じているかもしれません。従来の科学が不可能と呼ぶいくつかのテクノロジーを私は実際に体験していますが、この本でそれらを宣伝するつもりはありません。その理由は、繰り返しになりますが、これらが人類を救うのであれば、なぜそれがまだ成されていないのでしょうか、ということなのです。多くのテクノロジーは何十年前から知られていて、抑えつけられてきました。この抑圧が意識的であり計画性のあるものであると主張する文献を読んだことがありますが、私はむしろ、無意識的でありシステム的なものであることがほとんどだと考えています。(注2)幾千ものメカニズムによって、自分たちの神話やアイデンティティにそぐわないテクノロジーを抑圧してきたのです。また、私たちにそれらを受け入れる準備ができていなかったと言えるかもしれません。中央集権型ではなく分散型のテクノロジー、専門家から人々へと統制を解放するテクノロジー、そして、すべてのものの相互関連性を必然的に伴うテクノロジーに対する準備ができていなかったのです。私たちの準備不足を象徴しているのが、発明家たちが新しい奇跡の装置の特許取得を急ぎ、古い物語の構造の中に新しい物語の何かを封じ込めているということです。おそらく、これらのエネルギー、健康、時間、生命などの豊かさを実現するテクノロジーは、私たちが集合的に、寛大さ、貢献すること、委ねること、信頼を通して豊かさを自ら体現できた時に初めて、制限を超えて定着するのでしょう。


 私たちは今、大規模な変貌を遂げようとしています。私たちが「分離」のメンタリティでインタービーイングのテクノロジーを受け入れることは決してないでしょう。これらのテクノロジーは特効薬ではありませんが、最終的には私たちの癒しの一端となるはずです。ですが、私たちの認識や世界観の変化が先決なのです。 現在の岐路において、インタービーイングのテクノロジーの一番の重要性は、それらが何かすることができることにあるのではありません。それらが私たちが生きてきた現実という幻想に穴を開け、私たちも世界も、私たちが考えていたようなものではないと示してくれるということなのです。それらの意義は、パラダイムを破綻させるあらゆる出来事と同じなのです。

 私の国で気候科学の否定が広まっていることを調査すると、問題は非科学的な態度にあると今や信じることは簡単です。科学者の意見に耳を傾けさえすれば!残念なことに、同じような勧告が農作物の遺伝子操作や原子力発電、「反科学」という非常に幅の広いブラシで汚名を着せられないように言及することを私がためらうその他の疑わしいテクノロジーの文脈でもまた展開されているのです。上記の二つの例は、人為的な気候変動のように満場一致を享受しているわけではありませんが、マイケル・スペクターのような賛同者は、反対する者に非科学的の烙印を押すことを躊躇しません。ホリスティック医学、気功、バイオダイナミック農法、水の記憶、生物学的核化学、ミステリーサークル、超能力現象、オーバーユニティー装置、放射性廃棄物の浄化、サンタクロースなどに関する私の考えをいっそう非科学的だと考えるでしょう。ほら、私はうっかり秘密を漏らしてしまいました。


 古い物語に穴を開ける力が故に、私はこれらの”非科学的”な現象を探究することをお勧めします。それらが高揚感と軽蔑感の両方を招くことに気づくことでしょう。それらは「分離」の重さを和らげ、眠りについたままの驚嘆の念、神秘、潜在性に対する私たちの子供のような感受性が正しいものなのだと認めさせるのです。同時に、これらの認識が妄想ではないかという恐れを引き起こし、よって先に論じた皮肉屋の嘲笑を招くのです。


 心配しないでください。奇跡のテクノロジーが私たちを救ってくれるということに私の楽観的な望みを託すつもりはありません。テクノロジーが私たちを救ってくれるのであれば、すでにそうなっているはずです。私たちは地球上に豊かで持続可能な生活を送るためのテクノロジーを昔から有してきたのですが、それらを別の目的のために使ってきたのです。自然の保全、リサイクル、グリーンデザイン、太陽エネルギー、パーマカルチャー、生物学的廃水処理、自転車、修復可能性、耐久性、再利用可能性を考慮したデザインなど、まったく物議を醸さないテクノロジーを使えば地上の楽園に住むことが出来るのです。(注3)これらはすでに存在しているテクノロジーであり、ほとんどの場合、何十年、何百年前から存在しているものです。新しい奇跡的なテクノロジーは必要ないのです。しかし、これら既存のテクノロジーが約束することを取り戻すためには、別の種類の奇跡が必要なのです。それは社会的または政治的な奇跡です。それが森林破壊を食い止め、温室効果ガスの排出を削減し、ダメージを負った水源を修復し、すべての法的、社会的、経済的な障壁を取り除くために必要となることなのです。そのためには異なる通貨システムが必要であり、したがって経済的権力や特権の抜本的な再構築が必要であることは間違いありません。そのためには、武装主義とその背後にある信念体系からの全面的な脱却が必要です。小規模で生産性の高い労働集約型の農業に従事ずるために何百万人もの人たちが大地へと回帰することが必要になるでしょう。技術的に実現可能でしょうか?間違いありません。政治的に現実的でしょうか?難しいでしょう。


 いずれにしても、私たちが達成の仕方がわからない課題に直面していることは否定できません。政治的に現実的な提案は、目の前にある危機の深刻さの前では色褪せてしまうのです。ここに、先に述べた型破りで異端のテクノロジーの重要性があるのです。このようなテクノロジーを実現可能なものとする領域から排除する世界観はまた、世界を変えるために必要な行動から私たちを遠ざけるのです。どちらの場合も、「私たちの世界の物語」を侵害することなくしては起こり得ない何かに私たちは直面しているのです。


 私たちが知る科学は、自然を支配するための数世紀から数千年にわたるプログラムの中心であり、知識をかき集めようとするそのアプローチは、自然を「他者化」し世界を対象物へと変えてしまうまさにその様式であるにもかかわらず、科学志向の人々は、熱烈な環境保護主義者、公民権や同性愛者の平等、他の思いやりに満ちた立場の支持者であることが多いのです。これは一般的な原則を例示しています。つまり、新しい物語への私たちの入場は一様ではないということです。人生や思想のある領域では、分離の痕跡をすべて超越してるかもしれませんが、別の領域では何も疑わず完全に分離に従っているのです。そのことにはいつも驚かされます。ある人は、人種差別、性差別、階級差別、植民地主義などの制度について、内側と外側の両方で深い洞察を持っているかもしれませんが、西洋医学や、ある意味では科学そのものがそうした制度の一つであることを知らなかったりするのです。私が参加した従来の栄養学のカンファレンスで、人々は食料システムの腐敗を十分に理解し、それがどのように土地、健康、コミュニティを破壊しているかを理解していますが、学校のシステムが同様のことをしていることには気づいていなかったりするのです。食生活とテストの点数に関連する研究を引き合いに出して、「子供たちがもっと栄養を摂れば、学校の成績は上がるはずだ」と言って、授業中に注意を保ち、テストで良い結果を出すことが健康な子供の証であると思い込んでいるのです。しかし、学校というシステムが、外側からの報酬を得るために、権威への服従、受け身の姿勢、退屈さへの耐性を子供たちに植えつけるための条件付け装置であることに気づくと、幸福度を測る指標としての学校の成績に疑問を感じ始めます。健全な子供とは、学校教育や標準化に抵抗する子供であって、それに秀でる子供ではないのかもしれません。そうすると、人々がそのことを理解している教育会議に私は行くのですが、(そこで消費されている食べ物や参加者の健康状態から判断すると)、自分の身体とのつながりや食糧システムが教育システムと同様に腐敗していることは認識していないのです。それから、私がほとんどどこへ行こうとも、農業や教育、セクシュアリティ、政治などについてどれだけ革新的な議論をしていても、自分の健康に関することで一押しがあったときには、彼らは従来の医師の診察を受けるのです。


 長い間、これらの分野のアクティビストや他の多くの領域のアクティビストは、いくらかの問題があるにも関わらず、まるで基本的には健全なシステムの中の一つの異常な病気に対処しているかのようにそれぞれの個別のやり方で活動してきました。例えば、刑務所の改革のために活動している人には、有機農業のために活動している人と同じ大義の別の側面に取り組んでいることが一目瞭然ではありませんでした。幸い、この状況は現在変わりつつあります。すべてのシステムや制度が相互に関連しあっていることを人々が認識し、支配的なナラティブを保つ上でこれらのシステムや制度が共犯関係にあることを認識することで、忍び寄るような急進化が起こりつつあるのです。私たちが知るように、刑務所のシステムは、食糧システム、教育システム、医療システムにもまた組み込まれているのと同じ種類の考え方を拠り所としています。それらはすべて、同様の政治的な信念、同様の経済的メカニズム、そして同じ類の人間関係に依存しているのです。


 それらはまた同様の心理、つまり同様のあり方に由来(そしてそれに寄与)しているのです。だからこそ、私が言う「忍び寄る急進化」は、究極的には精神的な領域にも及んでいるのです。繰り返しになりますが、精神の領域とは、何か別世界のことを意味するのではなく、「私は誰なのか?」「人生の目的は何なのか?」などの根本的な問いに関与することなのです。


 より多くの人々が新しい物語へと今や多次元的に入ろうとしています。これまでは断絶されていた活動領域を越えての協力関係を構築し、かつては精神世界の探求者たちの独占領域だった探求の領域へと入っていっているのです。彼らはまた、自身が発見したことを組織や人間関係にも応用しようと努めています。私たちの世界の変容のために、人生のどの領域も無関係ではないのです。


 この章には、ほとんどすべての人に当てはまる何かが含まれているでしょう。物事が崩壊するときに、私たちは善と真実の保管場所として頼ることができて見慣れている何かしらの慣例を探そうとします。この時代に、それは存在しないのです。科学でもなく、教育でも、医学でも、アカデミアでも存在しないのです。スピリチュアリティにおいてでも、これまで見てきたように、分離の思考形態が蔓延しているのです。


 世界が崩壊していっていることに防御的に反応し、よりしっかりと世界にしがみつこうとするのはごく自然なことです。もしあなたの聖域の一つへの私の中傷にあなたが感情的に反応を示すとしたら、それは単なる意見を超えた何かが脅かされているのでしょう。鍼治療の有効性やミステリーサークルの信憑性について、私と意見が合っていないのかもしれません。それは単に知的レベルでの意見の相違なのか、それともあなたは少し怒りを感じているのでしょうか?その意見の相違には、どのような感情的な判断が伴っているのでしょうか?私が愚かなまぬけだとか?私が基礎科学に無知であるとか?私の希望的観測を無に帰すような反対の証拠を精査するのを怠ったとか?私の考え方は風変わりで、卑しくて、恥ずかしいものだとか?「このような考え方は人々に誤った希望を与え、実際に有効かもしれない解決策から目を逸らさせるだろう」というような論法であなたはその侮蔑を正当化するのでしょうか?もしそうだとしたら、あなたが腹を立てている理由は本当にそれなのか、それとも他の何かなのでしょうか?自分の考え方と矛盾するアイデアに感情的に反応するときに、大抵の場合、それが私の世界の物語を脅かし、一種の実存的な不安を生じさせるからだということが私には分かったのです。侵害されているように感じるのです。


 これのいずれも、私の型にはまらない発言にあなたが感情的に反応すれば、あなたが間違っていることが証明され、私が正しいことが証明されるということを意味するものではありません。これが意味することは、あなたの拒否反応が証拠や論理とはほとんど関係していないということだけなのです。証拠や論理は、自分の信念を正当化したり肉付けしたりするために私たちが使うツールですが、それらが自身の信念の源であると考えることで私たちは自分自身を欺いていることになります。このアイデアに私はまた立ち返るでしょう。なぜならそれが考え方の変化のプロセスを理解する上で重要だからです。そして疑いなく、私たちの世界が生き残っていく可能性が保たれるためには、多くの信念が変わっていかなければならないのです。


1. 組織化された宗教が、分離を教えない秘教的な核を内に秘めているのと同様に、私たちは制度としての科学と科学的方法そのものを区別することができるかもしれません、ということをここで述べておくべきでしょう。科学的方法には、検証されていない仮定(例えば、客観性:現実に関する仮説が現実を変えないこと、そして、時間と場所と実験者の変数が検証される仮説とは独立しているため原理的には実験を繰り返すことができること)が含まれていますが、究極的には、ある種の謙虚さ、つまり、意識的な自己の外から来る情報に応じて考え方を変えたり、拡大したりすることをよしとすることを意味しているのです。

2. 無意識の陰謀のダイナミクスについては、拙稿「シンクロニシティ、神話、新世界秩序」をご参照ください。
https://charleseisenstein.org/essays/synchronicity-myth-and-the-new-world-order/

3. 風力発電については、現在行われている方法では環境への深刻な懸念があるため、ここでは意図的に除外していますが、慣例的ではない小規模のデザインでは期待ができます。最終的には、解決策は現在の社会を維持するために、より多くの電力を生産することではありません。それは、より少ない電力しか使わない社会に変えることなのです。私たちのエネルギーの使い方はほとんど幸福感を高めるものではやはりないのです。


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