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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 精神 (第14章)

本の内容紹介、目次、著者チャールズ・アイゼンシュタインについて。

別の世界は存在するのですが、それはこの世界の中にあるのです。
ーW.B. イェイツ

 
 皮肉屋の読者は、私が“スピリチュアリティ”を、「分離の物語」の寒々として気落ちさせる領域からの逃避策として披露していると思うかもしれません。そうではありません。なぜなら、残念ことに私たちが通常スピリチュアリティと考えているものそのものが「分離」の主要な構成要素だからです。それは科学によって提示されている荒廃した物質主義が本質的には正しいことを認めています:神聖さ、目的、感覚は物質自体に内在的に備わっているものではなく、物質世界の一般的な原子の構成要素の中に見つけることは出来ないと。これらのものは、代わりに別の非物質的な領域、精神の領域に存在していると、スピリチュアリティは言うのです。


 それが前提であることを考えれば、スピリチュアリティの目標は物質的な領域を超越しスピリチュアルな領域へと上昇することになります。ある種の反物質主義として、「あなたはあなたの身体ではないのです」という教えや「自身の波動を高めましょう」といった願望を吹き込むのです。私たちの環境の破壊が反物質主義(物質世界の価値の低評価と俗化)によってももたらされていることを考えると、これらの教えを再検討したいと思うかもしれません。”高い”波動の何がそんなに特別なのでしょうか?ファゴットはフルートよりも美しくはないのでしょうか?岩は雲よりも神聖ではないのでしょうか?地は天よりも神聖ではないのでしょうか?優れていることは劣っていることよりも良いのでしょうか?高いことは低いことよりも良いのでしょうか?抽象的なものは具体的なものよりも優れているのでしょうか?理性は感情よりも優れているのでしょうか?純粋であることは煩雑であることよりも良いのでしょうか?男性は女性よりも優れているのでしょうか?


 (そして、それらの質問すべてをただ台無しにするために、私はこう付け加えるかもしれません:非二元性は二元性よりも優れているのでしょうか?あるものが別のものよりも優れているという考えへの批判でさえ、「より良い」という概念を暗黙のうちに認めながら、そのコンセプトを用いているのです。)


 物質から精神への抽象化、神々の居住地の天界への移転、家父長制の出現がすべてほぼ同時期に起こったことは偶然ではありません。それらすべては、社会階級、分業制、自然の力をコントロールする必要性を伴い、最初の大規模な農耕文明を連れ立って起こりました。動植物の家畜化からはじまった自然の征服が明確な美徳となり、神々が自然の擬人化ではなく、自然の主となりました。軍隊や建設プロジェクトに標準化を課し、会計や資源の分配において抽象的な尺度体系を開発してきた建設社会は、整然とした予測可能な動きを持つ天を神性の中枢として当然見ていたのです。それを反映するようにして、司祭、貴族、王などの上流社会階級は、土壌や人間関係の煩雑さとは無縁になり、神殿や宮殿の中、そして、外出しなければならないときには地面より高い輿の上で守られたのです。同時に、善悪の概念も生まれました。性欲、反抗心や怠惰と同様に、洪水、雑草、オオカミ、イナゴなどのような自然と人間の性質に対するコントロールという進歩的な強制を犯すものはすべて悪でした。物質的な世界の欲望を超えて自分自身を高めるために必要な自己鍛錬は、スピリチュアルな美徳の要となったのです。

 
 「人類の上昇  (The Ascent of Humanity)」の80ページに及ぶ章を一つの段落での概要としてまとめてみましたが、複雑な議論が陳腐な言葉の羅列へと還元されていないことを願います。ここでの大切な点は、私たちのスピリチュアリティに関する概念は非常に深い起源を持っており、それが私たちの文明の他のすべてのものと共通のルーツを共有しているということですー驚くことに、科学とさえも。支配的な制度が崩壊していく中で、私たちの精神性もが変化していくことは驚くべきことではありません。それはすでに進行中なのです、主流宗教の中で長い間埋もれていた秘教的な核心部分が大衆意識の中に現れつつあるのです。


 非物質的な領域の存在を証明しようとする試みには、膨大なエネルギーが費やされています。最近の例を挙げると、少し前のベストセラー「プルーフ・オブ・ヘヴン」の中でのエベン・アレクサンダーの臨死体験についての説明では、彼の体験は深い昏睡状態にあった彼の脳とは無関係に起こったに違いなかったと主張しています。この本が示唆しているのは、このことが彼の体験が極めて重大だった理由だということです。批評家たちはすぐに彼の結論に反論するために集まり、少なくともいくらかの皮質機能がないことを証明する方法はないと主張し、それに続く偽の記憶や作り話と合わせて、唯物論的な脳に基づいた説明を提示しています。しかし、批評家たちも著者自身も、この本の本当の重大性を見逃していると思います。本が指し示しているのは意識の超物質的な源なのではなく、古典的な物理学、化学、生物学の見解では存在し得ない性質を持つ物質そのものに対する私たちの浅はかな理解なのです。彼の体験の”スピリチュアリティ”とは、それが何であったかにあるのであって、それが何を証明するかにあるのではないのです。


 なぜ私たちは物質世界から逃れようと必死なのでしょうか?それは実際にそんなに寒々しいものなのでしょうか?それとも、それはむしろ、私たちが物質世界を寒々しく”させた”ということではないでしょうか:その鮮やかな神秘を私たちのイデオロギー的な目眩しで不明瞭にし、分類上の区分によってその無限のつながりを切断し、舗装道路でその自然発生する秩序を抑制し、品物の売買でその無限の多様性を減少させ、私たちの時間管理によって永遠性を粉々にして、私たちのお金のシステムでその豊かさを否定したのではないのでしょうか?もしそうだとしたら、物質の牢獄からの救済のために非物質的なスピリチュアル領域に懇願しているのであれば、私たちは見当違いなのです。


 アクティビストがそのような企てに慎重であることは正しいのです。聖なるものが物質の外側にあるとしたら、なぜ物質を気にかけるのでしょうか?魂への関心が肉体への関心の反対であるならば、なぜ肉体の世界、社会的・物質的世界を改善しようとするのでしょうか?宗教がマルクスにとってそうであったように、スピリチュアリティは、大衆のための鎮痛剤、私たちの地球に迫っている非常に現実的で物質的な問題から目を逸らすものとなっているのです。


 一方で、何千年ものの聖なる教えを、夢想家たちの空想であると、そして、過去数百年のスピリチュアリティを機械的で目的のない宇宙という無情の真実とうまく付き合うのことのできなかった人々の戯言であると片付けてしまうのは実に傲慢なことでしょう。彼らは、近年まで人間の経験の全次元において居場所を持っていなかった科学的世界観の痛ましい欠陥を改善しようとしているのです。科学の通説に沿わない現象は存在しないと布告されました。自然界のほぼ完全な説明として科学を受け入れる人にとっては、これらの現象を説明する唯一の方法は、超自然的なこととしてそれらを説明することでした。


 別の言い方をすれば、もし科学の宇宙が内在する知性を持たないことを認めるのであれば、そこにある知性は何であれ、物質的な宇宙の外側から来ているはずです。「インテリジェント・デザイン」の教義は、この種の考え方の典型的な例です。生命としての秩序は、生命のない物質や無目的に働く力から自然発生的に生まれることはあり得ないのですから、外部の作用(神)によってデザインされたに違いありません。しかし、秩序、美しさ、組織化に向かう動きである知性を物質に内在する性質であると受け入れるならば、そのような外部作用は必要ありません。


 私が従来の科学的唯物論を擁護しているように聞こえるかもしれません。全く違います。宗教の道をたどって、私たちが目にする知性には超自然的な起源があると言う代わりに、科学はそれをある種の幻想、見えない力の偶発的な副産物で、内在する何かではないとして、それを完全に否定しようとしています。したがって、制度としての科学は、物質固有の知性や目的を示唆するいかなるパラダイムにも敵意を持っているのです。


 様々な異端の科学理論とそこから派生したテクノロジーを調べる中で、なぜこれらの一部が体制からそれほど極端な敵意を引き出すのか知りたいとよく思っていました。敵意を招くものには共通点があることが分かったのです。先に述べたように、それらの理論はすべてあらゆる点で宇宙には知性があると暗に述べているのです。例えば、水の記憶について考察してみましょう。純粋な水はもはや単なる無意味な分子のごちゃ混ぜではなく、水の”サンプル”はふたつとない個性を持っています。私たちがそうであるように過去のすべての影響を保持していて、それらの影響を触れ合うすべてに伝えることができる個体なのです。もしくは、”適応変異”を考察してみましょうー遺伝子の突然変異はランダムなのではなく、生物や環境が必要とする変異に向かって選択的に進んでいくという理論です。この種の目的性は科学の通説に反するものです。宇宙にはそれ自身の知性や目的があると暗に示すような理論は、自然の征服者としての特権的な立場から人類を転落させる恐れがあります。私たちの知性は、より大きな知性の一部となり、そうして私たちはその知性を理解し、それに協力しようとするのです。


 物質に内在する秩序や知性を匂わせるいかなるものに対する科学の敵意は今変化していっています。科学のエッジの周り全体で、新しいパラダイムが育ち、それがかつて精神へと追いやられた特性を物質の中に戻しているのです。それを精神と物質が再結合していると見ることもできるのです。


 この再会の一つの側面が、アクティビズムとスピリチュアリティの融合なのです。あるワークショップで、若いウォール街デモのアクティビストが、彼女の”意識”とスピリチュアルの道への関心を伝えたときに、昔ながらのマルクス主義者である彼女の父親がいかに愕然としたかを話していました。左翼にとっては昔から、スピリチュアリティの匂いがするものは、特権階級の贅沢か、手元にある真の務めから気を逸らすもの、または問題の正しい分析を不明瞭にする幻想のいずれかなのです。


 彼女の父親がどうしてそう考えるのかが理解はできます。今や長い間、ハンズオンのアクティビストたちはいわゆるスピリチュアルな求道者たちを嘲ってきました。「瞑想のクッションから立ち上がって何かしなさいよ!あなたの周り全方位に苦しみがあるんだ。あなたには手があり、脳があり、リソースがあるんだ。苦しみに対して何かしなさいよ!」と。もし家が燃え落ちようとしていたら、あなたはただそこに座って瞑想し、顕現の力によって鎮火させるために冷たい滝を心に思い浮かべるでしょうか?ええ、比喩的な家は今ここで私たちの周りで燃え落ちようとしています。砂漠が広がり、珊瑚礁が死滅し、先住民の生き残りたちが一掃されていっているのです。その最中にいるあなたが、宇宙の音オームについて思いを巡らせているのです。この情景の中では、スピリチュアリティはある種の逃避なのです。


 この強力な批判に、スピリチュアルな人たちは同様に強力な再答弁を示しています。「あなた自身への深い取り組みなしに、自分自身に内在化された抑圧をあなたが成すすべての中に再び創り出してしまうことをどのように回避することができるのでしょうか?」私たちはたびたび、彼らが変えようとしている団体の中に私たちが見出しているのと同じように、社会変革のアクティビストたちの中に同様の権力乱用、同様の組織的機能不全を見ています。もしこれらのアクティビストたちが勝利を収めたとしたら、彼らが創り出す社会に何か違いがあると期待できるのでしょうか?私たちが自分自身の変容に取り組まない限り、私たちは変容させようとしている文明の産物のままとなるでしょう。


 システムを変えることはもちろん、私たちは思索の習慣、考え、そして行いを変える必要があるのです。一方のレベルが他方を強化するのです。私たちの習慣と信念が私たちのシステムの精神的な土台を形成し、それがまたそれと一致する信念と習慣を私たちの中に引き起こすのです。これが政治活動家とスピリチュアルの指導者が同様に思い違いをしている理由なのです。前者が「あなたの信念やライフスタイルの選択に関わらず、現実に生死に関わる欠乏へのシステムによる強制が何十億人もの人々を圧迫し続けているときに、自分自身の欠乏にまつわる信念を変えることに焦点を当てることは軽薄で自己中心的な逃避なのです。」と言ったときに、そして後者が「ただ自分自身に取り組みなさい、そうすればあなたの周りで世界は変わっていくでしょう。問題を社会、政治システム、企業などに投影することで真の個人的な問題から逃れてはならないのです。」と言ったときに思い違いをしているのです。


 この二つの陣営は同盟関係としてあるべきで、実際にどちらの陣営ももう一方の陣営なしではうまくいかないでしょう。感謝、寛容、信頼に足を踏み入れ、恐怖に基づいた思考をある程度後にした人たちが多ければ多いほど、社会政治的な雰囲気は、インタービーイングの価値観を具現化するような抜本的な改革を受け入れるものとなるでしょう。そして、これらの価値観を具現化するようにと私たちのシステムが変われば変わるほど、個人での移行も人々にとってより容易になるでしょう。今日、私たちの経済の状況は「欠乏している!」と私たちにわめき散らし、政治の状況は「我々対奴らだ」と叫んできて、医療の状況は「恐れろ!」と叫び声を上げてきます。合わさって、それらは私たちを孤立させ、変化することを怖がらせているのです。


 中間レベルの家族、コミュニティや地域のレベルでも、私たちの社会的・物理的な状況は分離を強化しています。孤立した箱の中の核家族の中で生活し、生活必需品を見知らぬ人たちから調達し、生活の糧を周囲の土地に全く依存しないことは、世界に対する人々の基本的な認識の中に分離を少しずつ植え付けているのです。だからこそ、このような状況を変えようとする努力は、精神的な取り組みであるといえるのかもしれません。


 その一方でまた、世界に対する人々の基本的な認識を変えようとする努力は政治的な取り組みなのです。どのような人たちが乱雑に開発された郊外に仮住まいを得ているのでしょうか?どのような人たちが安全への欲求以外に何の欲求も満たさない仕事に就いているのでしょうか?自分の国が不当な戦争を次から次へと遂行しているときに、消極的に傍観しているのはどのような人たちでしょうか?答えは、恐怖心の強い人たち、疎外されている人たち、傷ついた人たちなのです。それが、愛、つながり、赦し、受容、癒しを広めているのであれば、精神的な取り組みは政治活動であるという理由なのです。


 それがすべての人がすべてのレベルに取り組む”べきである”ということを意味しているわけではありません。私たちはそれぞれユニークなギフトを持っており、それはそのギフトに最も適した取り組みに私たちを引きつけるのです。健康でバランスの取れた人はほとんどの場合多数のレベルで世界に関わりますが、個人、友、家族の一員、コミュニティや地域の一員、自然生命圏の住民、国家の一市民としてあることで、私たちが相対的な内向きと外向きのフォーカス、アクションと静けさ、表現と身を引くことというフェーズを経験していることもまた真実なのです。


 わたしたちが柔軟性に欠ける自他の区別をもはや持たないときに、世界は自身の鏡となっているということを認識するのです。自身に取り組むためには世界の中に在りながら取り組む必要があります。そして、世界の中で実質的に役に立つためには、自身に取り組む必要があるのです。もちろん、これまでも政治的に活動するスピリチュアルの実践者や、深い精神性を持った政治活動家は存在していましたが、今や一方の領域のもう一方への誘引は抑えつけられないものになってきています。ますます多くの社会活動家や環境活動家が、より私的なやり方でメインストリームの考えを拒絶しています。ウォール街デモのサポーターもまた、赤ちゃんとの触れ合いを大切にする育児法を支持したり、瞑想を実践したり、代替医療を利用したりするようになっているのです。ヒッピーたちと60年代の過激派たちが合流しようとしているのです。


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