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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 現実 (第13章)

本の内容紹介、目次、著者チャールズ・アイゼンシュタインについて。

 どうすればいいのでしょうか?私たちが起こすことが出来ない事象、奇跡からなるこの世界はギフトの世界です。そこで生きるために、私たちはコントロールし、維持し続け、抑えるという古いやり方を手放さなければなりません。私たちはギフトの目を通して世界を見ることを学ばなければなりません。今日、私たちの多くは、古きと新しき両方の世界の同時に生きているのです。従って、私たちの奇跡の体験は場当たり的です。それらの奇跡は、物理的あるいは社会的な宇宙の法則に違反しているように見えますが、それはそれらの法則が分離した自己の認識から形成されているためで、予期されることなのです。


 ナイーブであることへの私の呼びかけにかかわらず、ここに注意書きも差し挟みたいと思います。なぜなら、この世界には不可能なファンタジーを追い求めるみたいなことが存在するからです。どのように私たちは、真の可能性に自身を捧げているときと、ビジョンではなく蜃気楼を追い求め、自身を欺いているときとを見分けることが出来るでしょうか?私はたまたま慰めとなっているファンタジーであれば何でもすぐ真に受けるような信頼を唱えているわけではありません。


 ”現実の創造”についての多くのニュージエイジの教えは、この世界で何かを”現れさせる”ためには、それに私たちの思考と信念を同調させなければならない、そうすればそれが表れると言います。私はここで皮肉を込めた引用符を使っていますが、これらの教えの一部は実際には非常に洗練されたものです。信念が実際に現実を創造している多くの状況を思い浮かべることは出来るでしょう。一つには、私たちの信念や物語には、世界で何かを成し遂げるために私たちが演じなければならない自分自身のための役割が含まれているということです。例えば、一輪車に乗ることは可能だという信念がなければ、その乗り方を学ぶために何週間もの時間を割くことは出来ないでしょう。音楽フェスが出来るという信念がなければ、それを実現するために必要なことを誰もやらないでしょう。「自分には出来る」と信じている時にだけ、トライしてみようとするのです。私たちの信念が変わるときに、私たちのモチベーションや認識も変わるのです。新しいことをしてみたり、新しいチャンスが見えてくるのです。


 信念を現実へと変換するためのこれらの世俗的な手段の域を超えて、作動しているさらに神秘的な何かを私は見つけました。人が世界観の中での深遠な変化を経験すると、ある種の魔法が本当に起こるのです。私が描写した世俗的な手段はおそらく、より一般的な原理の具体化です。現実の創造や引き寄せの法則についてのニューエイジの教えの問題点は、それらの抽象的議論の中にあるというわけではなく、それらの適用にあるのです。私には二つの主要な難点があるように思えます。第一に、自分の信念を変えることは、私たちが思いたいほどに簡単ではありません。通常、私たちは自分の意志の働きによって信念を変えることは出来ません。なぜなら、信念のあり方とは本性のあり方だからです。(注)信念とは脳の中の単なる蒸気ではありません。私のように、アファメーションなどを使って”制限的な信念”を変えようとしたことがある人は、「私は今、完全な経済的豊かさを経験している」とか、「あらゆる点で毎日、人生はどんどん良くなっている」と自分自身に向かって繰り返し唱えたとしても、あなたの一部が「ああ、そうだな。結果が出てきたら信じようじゃないか。」と考えていることに気づくかもしれません。事実、実際に結果が出なかったときに、あなたはその現実創造プログラム全体を一連のニューエイジの戯言だとして切り捨ててしまうかもしれません。でも実際のところは、あなたはその基本原理を証明することも、その誤りを立証することもしていないのです。なぜなら、あなたは偽の信念、もしくはせいぜい相容れない信念を心に抱いていたからです。あなたの一部はそれを信じていたかもしれませんが、それは実際に真実だと感じましたか?それは本当に起こり得ると感じられたでしょうか?


 これが第二の問題につながります:何が真実であるか、また起こり得るかを決めるのは私たちではないということです。ある教えは、私たちにビジョンを創造することからはじめることを求めますが、これが誤りなのです。はじめるための正しいやり方とはビジョンを受け取ることなのです。私はそれを”生まれることを望んでいるビジョン”と呼んでいます。自分たちでそれを創り出したのではないので、私たちはそれがそれ自身で存在していることを感じ取ります。疑いの気持ちがまだ私たちを悩ますかもしれませんが、その疑いの下には、何か見たことがあるという経験から来る認識があるのでしょう。疑いはこの本の中で私が言及した数々の傷から生じています:私たちの理想主義への繰り返される裏切り、私たちの精神の破壊、産業社会の容赦のない醜さによる影響などです。私たちは考えます、「もし私がただのばかだったら?もし私がそんな神の恵みに値しないとしたら?もし人類がそれに値しないとしたら?好機を逃してしまっていたとしたら?もし私のコントロールを超えた何かが偶然それを台無しにしてしまったら?」と。実際、(自分自身のためでも、世界のためのものでも)そのビジョンが美しいものであればあるほど、湧き上がってくる疑いの念はより痛ましいものとなります。生まれようとしているものの輝きは影を照らし、その影を癒やすかもしれない目覚めの光の下へとそれらを連れゆきます。私は、これらの疑いと自分がばかになっているのではという隠れた冷静な認識との違いに繊細になることを提案しているのです。


 変化を生み出すための最初のステップは、真実だと感じられるビジョンを受け取ることです。第二のステップは、そのビジョンが照らし出す傷や疑念を癒やすことです。それをしなければ、私たちは精神的葛藤を抱え、新しい物語とその傷に伴う古い物語の両方を同時に実行に移すことになります。第三のステップは、生まれようとしているものへの奉仕へと頭を下げることです。このプロセスは直線的ではありません。通常、私たちがそれを曖昧にしている疑いを癒やしていくことで、そのビジョンはますますフォーカスが定まり、その結果、私たちはより深くそのビジョンへの献身へと入っていくことが出来るのです。次に、より深い献身は、より深い傷と共に、そのビジョンの新しい次元を呼び起こすのです。

 
 私たちが真の何かに心身を捧げているとき、私たちがそれについて話すとき、私たちの言葉はパワーを帯びます。他の人たちもその現実を感じることが出来るのです。だからこそ、ある人たちは事柄について語ることで存在へと導く魔法のような力を持っているのです。彼らがこれこれのことが起こるでしょうと言うと、それが起こるかは皆がそれが起こるかを信じているかにかかっているとしても、誰もがそれが起こるだろうと信じるのです。


 誰かが真のことだと経験した何かに全力で尽力することが、非階層的な時代のリーダーシップの本質なのです。リーダーとは物語を保持する者であり、その物語の現実の経験が十分に深いがために他の人たちに代わってその信念を保つことが出来る人なのです。今日のリーダーの多くは、自分たちが公言していることを実際には信じていないので力がないのです。そのリーダーたちが他の人たちをインスパイアし信じさせることも出来るでしょうか?自分自身を信じていないがために、わずかな圧力にもすぐに屈し、中途半端な対策で手を打つのです。すべての核兵器の廃絶を要求しても、それが実現するとは本当は信じていないのであれば、限定的な核実験禁止条約に収めるでしょう。もしあなたがすべての伐採の中止を求めていて、それが可能だと信じていないのであれば、単なるスローダウンで落ち着くでしょう。


 生まれようとするものへの私たちの献身が深ければ深いほど、私たちの因果関係の理解を超えたことを成し遂げさせるシンクロ性のある出会いや思いがけない出来事が手配されるのです。「再会の時代」の主要な”テクノロジー”は献身であると言えるかもしれません。私たちは自分の時間、エネルギー、スキル、人生をギフトとして捧げ、信頼へと足を踏み入れ、自分自身のことを第一に真っ先に考える習慣を手放すのです。そのとき初めて、私たちはそのビジョンと完全に同調します。その同調から、とてつもない力が生まれるのです。広がった私たちの自己は、世界から切り離され、力によってのみ世界を操ろうとする個別の分離した個人よりも遥かに強力で恐れも少なく、慎重さと感嘆の気持ちを携えて、結集してきた驚くべき不思議な一致を見つめるのです。明らかに、これらは私たちがどうやって起こ”させる”かを知っているものではないので、ギフトの普遍的な法則を裏付けるように、それらはギフトとして起こるのです。与えることと受け取ることは最終的には釣り合った状態になるということです。


 変化を共創造するこの全体のプロセスは、信仰ではなく誠実さからはじまります。私たちはまず、私たちが真だと認識する何かを垣間見る必要があります。誠実さの一つの種は、私たちの妄想を認識し、目の前にあることを見ることです。これには痛みが伴うかもしれません。「自分たちが取り組んできたことが可能だとは本当は思っていなかったんだ。今までずっと、所属するために、自分と他の人たちに立派に映るように、それから絶望を避けるためにそれをやっていたんだ。」と認めることは屈辱的でした。しかし、さらに勇敢な誠実さの用い方があるのです。それは何が可能であり、何に価値があるかという大多数の見解に矛盾した真のビジョンを信じることです。自分の知ることが真実であると信じることは、自分が信じていることが偽りであると疑うことよりも勇気がいります。明確なビジョンを持った人にとって、初めはその知見は孤独な知見であり、内側と外側の両方で疑いのうねりによって囲まれています。束の間の明晰さを信頼し、それを持ち続け、そのビジョンを信念へと変換し、そこから行動することは決して取るに足らないことではないのです。


(注)時折、意志に基づく行動によって、信念を変えることに成功した経験を報告する人がいます。これは、疑いやネガティブなことを払拭するために優れた意志の力を行使したのではなく、その信念は変わる準備が出来ていたということなのです。ある信念に対応する存在している状態が自然な経過を辿ったとき、その信念はほんの少しの揺さぶりで変化するのです。


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