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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 ナイーブであること (第12章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

不可能を欲する人間を私は愛する。
ーゲーテ

 美しい行き先が垣間見える未知の領域に私たちは入りましたが、どうやってそこに到ればいいのかは分かりません。私たちが因果関係として理解しているものによってでは、そこにはアクセスできません。私たちがどのように起こせるか分からないようなやり方で、物事が起こらなければならないのです。それが”させず”に起こるのであれば、それはどのようにして起こるのでしょうか?もちろん、それはギフトとして起こるのです。とても度量の広い人たちがさらなるギフトを引き寄せていることにあなたは気づいているかもしれません。ですから、私たちが奉仕へと人生を差し出すのであれば、より多くの思いがけない出来事を経験することになるのです。これらが古い概念である因果関係を超えた創造的な潜在能力への鍵となっています。


 今日、人生を捧げる価値があるものは何でもこれらの奇跡、ギフトとしてやってくる、私たちが起こしも起こせもしない事柄の幾らかを必要としています。したがって、これらの価値ある目標のいずれかに向かうあなたの心の導きに従うならば、あなたの選択は多くの人たちには(そして時に自分自身にとっても)少しまともではないように見えるでしょう。


 私たちの状況はこのようなものです:目標は見えていますが、そこに到達する方法は分かりません。これは純粋に新しいことすべてにとっての真実なのです。この試みに足を踏み入れることはどのみちいつも、同時に傲慢であり謙虚でもある勇気の行動なのです。私たちの自信に根拠がないので傲慢であり、未知へと私たちの身を委ねているから謙虚なのです。やり方を知っていることによって制限され、自分たちが成し遂げてきたことのみを達成するのです。地球に目を向けてください。私たちが成し遂げてきたことは十分ではないのです。


 この本の中で、私はある種のナイーブさを呼びかけています。それは皮肉なことに、私の著述に対する主要な批判の一つなのですが。おそらく、私はその称号を受け入れて、さらにそれを呼びかけるべきなのでしょう。ナイーブであるということは、証拠がほとんどないのに他人の善意を信じることであり、それがどうやって起こるか分からないのに何かが起こるかもしれないと信頼することなのです。もちろん、ナイーブさが現実的な行動を曖昧にしてしまう時にはそれは呪いですが、私が話しているのは現実的であることでは十分ではない状況のことです。それが今の地球の状況なのです。そして、それが今の多くの個人たちの状況なのです。どうやって手に入れるか分かっている物事は、もはや求めてはいないということに彼らは気づいているのです。


 逆説的ですが、不可能を達成するための道は、それぞれ実行可能な多くの現実的なステップで構成されています。私たちがやり方を知っている多くの実利的なステップは、私たちがやり方を知らない何かを生み出します。私たちは歩き方を知っていますが、地図を持っていないだけなのです。ですから、私は現実的なこと、実行可能なことを手放すことを勧めているのではありません。現実的なことが非現実的なことへと捧げられていない限りは、現実的なことが十分ではないということです。


 同様に、私たちは「分離の時代」を定義付ける物質的な、認知的なツールを放棄することは出来ません。私たちは感情を選ぶことで理性を、ハグを選ぶことで通信を、歌を選ぶことでプログラム言語を、ギフトを選ぶことでお金を放棄したりはしないのです。しかし、いずれの場合でも、後者がその本来の領域を超えて、前者に取って代わってしまったのです。新しい物語は古い物語を含んでいます。古きものの根絶を求めること自体が古い物語の思考形態なのです。


 ナイーブさの力を示すいくつかの物語を紹介します。ポリー・ヒギンズは法廷弁護士であり、「Eradicating Ecocide (エコサイドの撲滅)」の著者でもあります。ここ数年の間、彼女は”自然の権利”の確立のためとエコサイドを国連が認めた平和に対する第五の犯罪とするために活動してきました。この活動を始めて間もない頃、国連のローマ規約を改正するための通常のルートは、絶望的に時間がかかり複雑であることに気づいたと彼女は私に話してくれました。そこで、彼女のアイデアに好意的な高官に直接コンタクトを取ることにしたのです。その高官をE氏と呼ぶことにしましょう。しかし、何百ものアクティビストや組織もまた、国連の中を通過させたいアイデアを持っています。すべての門番を迂回して、彼と直接会話するにはどうすれば?


 ポリーは、E氏が出席を予定していたコペンハーゲンでの大きな気候サミットの時期にたまたまドイツにいました。E氏は他の政府関係者たちや特別招待されたジャーナリストやNGOの代表者たちと一緒に特別列車に乗ることになっていました。「その列車に乗ることさえ出来たら、彼と話すチャンスがあるかもしれない」とポリーは考えました。しかし、招待状を手に入れる方法は見つけることはできませんでした。もしかしたら、列車にこっそり乗り込むことが出来たかもしれない?それは不可能でした。そのようなことをしようとするアクティビストたちからガードするために、警察の列が列車を取り囲んでいました。そこでポリーは、コペンハーゲンでE氏を見つけられるかもしれないことを願いながら、別の列車に乗ったのです。


 彼女の旅程にはハンブルクでの別の列車への乗り換えが含まれていました。列車を降りて、車掌にコペンハーゲン行きの列車はどこかと尋ねました。車掌は国連の特別列車を指さしたのです。「いいえ、それは私の列車ではありません。」乗ることは許されないと知っていたので、彼女は言いました。


 車掌は彼女に見向きもしませんでした。「そう、そう、この列車ですよ。」厚いドイツ人のアクセントで言いました。彼女は何度か異議申し立てましたが無駄でした(「はい、はい、こちらへ来て。」)車掌はスーツケースを取り、列車へと彼女を導いたのです。この鉄道職員に付き添われ、弁護士のような服装をしていたので、誰も彼女に招待状を見せるようにとは求めませんでした。間もなく彼女は電車内で席に着きました。列車に乗る招待を受けていたNGOの友人に、「乗れたわ!普通客車2番。」と送信しました。その友人から返信があり、とても面白い紳士の向かいに座っていた彼女はその客車へと招いてくれました。「彼にあなたのことを話していたのよ。彼の隣に空席があるわ。」


 それが誰だったか分かりますよね。E氏だったのです。


 これはポリーをEU会議やハーグ国際司法裁判所、その他多くの高等機関の前へと連れ出し、エコサイド法への注目度を与えてきたシンクロ性を伴った出来事の長い軌跡の一つに過ぎないのです。これは現実的なことを非現実的なことに捧げている完璧な例なのです。


 他の多くの組織がはるかに多くの資源と人脈を持っているときに、自分のアイデアを国連の議題に載せられると考えるのはナイーブだと誰もがポリーに言えたでしょう。他の多くのアクティビストたちが警察の列の背後から100メートルの距離を保っていたときに、E氏と個人的な会話が出来ると期待するのはナイーブだと誰もが彼女に言えたでしょう。彼女が経験したような不思議な一致の類いは事前に誰かが計画出来るものではありません。多くの場合、このような一致がそもそも決められていたいかなる予定をも中断させるものとしてやってくるのです。だからと言って、出来る限りの計画を立てるべきではないとか、自由に使える現実的な手段を使うべきではないということではありません。そうではなく、計画出来ることによって制限されるべきではないということなのです。どのように達成出来るか知っていることによって、私たちの熱意を制限するべきではないのです。


 ダイアン・ウィルソンは、テキサス州のメキシコ湾岸でシュリンプボートの技師をしていました。(注)1989年、彼女は数十億ドル規模の企業であるフォルモサ・プラスチックスが近くで巨大なポリ塩化ビニル複合施設を建設しようとしていることを知りました。湾岸を汚染することになるだろうと考え、この計画を阻止しようと決意したウィルソンは、この計画に反対するキャンペーンを立ち上げました。5人の子供を持つ控えめな母親が相手にしたのは、商工会議所、地方自治体、立法府、知事、州環境保護局、そして米国環境保護庁でした。彼女はどのようにして勝利を得たのでしょうか?私たちの多くが最も取るに足らない政策の変更することも出来ないようなときに、このような強力な利害関係者に対抗して勝つことが出来たのは、彼女の何がそうさせたのでしょうか?


 確かに、ダイアン・ウィルソンが並外れて勇敢で負けん気の強い女性であり、目標を達成するためには何でもすることを厭わなかったことも説明の一部になっています:例えば、ハンガーストライキを行ったり、企業のフェンスに自分を縛りつけたり。時が経つにつれ、彼女はまた他の多くの人たちを鼓舞し、その中にはシステムの仕組みにも詳しい人たちもいて、彼女の理念に賛同するようになったのです。そして、彼女個人の謙虚さが、内部告発者に彼女を探し出すようにと勇気付けたのかもしれません。彼女には何の計画もありませんでしたー「何かを計画したことはありませんでした。私にはただ決意があり、自身を危険にさらすことを厭わなかったのです。」ーそして、金銭的にや感情的な操作によって、これらの人たちが彼女をサポートするように”仕向けた”わけでもないのです。経済的な力に経済的な力で対抗するために、彼女をサポートしてもらうためのお金を払ったりはしませんでした。彼女と同じように、これらの人々は何も得るものはなく、彼女の味方となることは嘲笑の対象にもなったので、英雄的と認識される社会的な利益さえも得られなかったのです。


 私たちの従来の世界の理解では思いもよらないこれらのギフトを越えて、ダイアン・ウィルソンはまた少なくとも一つの思いがけない偶然に助けられました。環境保護局の職員が別のダイアンと間違えて電話をかけてきて、ブレイクスルーへと導く鍵となる情報を漏らしたのでした。もちろん、これを単なる不思議な偶然として簡単に片付けることは出来ますが、私たちが慣れ親しんでいる力に基づいた因果関係とは異なる種類の因果関係の表出として見ることも出来るでしょう。


 何年も前に、台湾に住んでいた頃、アメリカ人の若者たちと親交を深めました。彼らはある日、島の南端で3日間の野外オルタネティブ・ミュージック・フェスティバルをやると宣言しました。二十代半ばの私たちは、翌日には忘れてしまうような大きな計画をビールを飲みながら宣言することがよくありました。違ったのは、バンドメンバーたちにはお金もなく、初歩的な中国語しか話せず、台湾に来てから数ヶ月しか経っていなかったのにもかかわらず、このイベントが本当に実現してしまったことでした。「みんなを運ぶためにバスを借りよう。テントをレンタルしよう。地元の警察とも上手くやれるさ、知るかよ。」そして、そこから激務とギフトが始まったのです。なぜかみんな、この若者たちの言ったことは実現すると信じたので、喜んで協力したのです。


 誰もこの冒険的事業でお金を儲けたりはしませんでした。何から何までギフトの精神で行われたのです。しかし、主催者たちの寛大さが引き寄せた他の人たちからのギフトはさておき、ダイアン・ウィルソンと同様に、この事業にはギフトとして降りてきたいくつかの普通ではない偶然がありました。主催者たちが機器を運搬するためのトラックを必要としていたある日、彼らのビジネス英語クラスの学生の一人が、彼らのニーズを知らずに突然、「トラックが必要だったりはしないですよね?」と尋ね、彼らにトラックを提供したのです。このようなことが繰り返し起こりました。ある種の魔法がこのイベントを覆っていたのです。地元の警察も問題ではありませんでしたーダンサーの中に警察官が一人いたのを覚えていますがーなぜなら、彼らはこのイベントを通常のカテゴリー(法や秩序への脅威、賄賂を強要する機会)の外側として見ていたからです。


 読者の皆さん、あなたは今までにこのような何かの一部、何もかもが流れるように動いているように見えて、何度も何度も適切な場所で適切なタイミングで適切な人と出会うことが出来る場所の一部となったことはありますか?時には直前になって、全く予想外の方法で必要とされているすべてが表れる場所は?目に見えない外側の力がすべてと皆を調和させているように映る場所は?


 どのように、そしてなぜこのようなことが起こるのでしょうか?私たちが適切なタイミングで適切な場所にいることのテクノロジーをどうにかしてマスターすることが出来れば、シンクロニシティの流れに乗ることを学ぶことが出来れば、力の世界が可能にするいかなるものよりも大きなパワーに私たちはアクセスすることになるでしょう。


(注)彼女は著書(An Unreasonable Woman) の中で彼女の物語を伝えています。


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