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過ちを第三者が責める風潮、なんなの。 【超訳・論語の世界】

 例えば謝罪会見の様子をみたときに、この人はいったい誰に何を謝っているのだろう、と疑問に思うことがあります。

 例えば何か失敗したり、何か失言があった場合に、通りすがりにそれをみて鬼の首をとったように得意げに叩く人たちがいます。

 高度情報化社会においては、個人の発言が容易に世界中に公開されるようになりましたから、かつての村社会にあったような「村八分」が、インターネット上でも起こりうると感じます。

 誹謗中傷に加担する人の数が人口の0.01%だったとしても、それが日本なら12万人を超えます。これは日常生活で同時に関わることの不可能な、膨大な数です。それだけの数の悪意に、人の心を耐えうるでしょうか。

 あ、1億2000万人の0.01%は1万2000人ですね。ごめんなさい。計算を間違えました。算数苦手でして。気付いて良かった。訂正いたします。

 と、このように過ちに気付いたら直ぐに改めるべきであって、それは決して恥ずべきことではありません。間違えないように細心の注意を払う必要はありますが、ヒューマンエラーを100%回避することは不可能です。

 ところが、些細な過ちを赦さない風潮が、この社会全体を蠢いているように感じます。これが不寛容な社会の正体かもしれません。過ちに気付いて謝罪と訂正をしようと思っても、過剰に叩かれて再起不能になる未来が予見されたら、果たして人の心は素直に過ちを認めることができるでしょうか。

 隠蔽体質は当事者だけの問題ではなくて、人間社会の根本的な部分に関わる事柄と考えます。

 論語の一節を思い出します。

子曰、君子不重則不威、學則不固、
主忠信、無友不如己者、過則勿憚改。

『論語』学而より引用

 超訳すると、
「過ちはすぐに直そうぜ。ダサいから。」

 さらに孔子は追い討ちをかけます。

子曰、過而不改、是謂過矣。

『論語』衛霊公より引用

 超訳すると、
「過ちを改めないのがマジな過ちなんだよなぁ。」です。


 さて、懺悔の準備はよろしいでしょうか。


 謝罪は当事者間で行うのが道理ですが、面と向かって謝るのはハードルが高かったり、相手が不特定多数で対面困難だったりするかもしれませんから、ここを路地裏くらいのオープンな懺悔の場として、過ちを改める練習をしては如何でしょう。

 ああ、ひとつだけ。

 譬えそれがどんな過ちであったとしても、ここでは誹謗中傷はお控えくださいませ。ここは安心して告白できる場所であってほしいのです。ソワソワしたらスルーしたらいいし、もし私との約束を破ったら健康に気をつけてくださいね。


 では先ず私から。
 
 今まで渡邊惺仁と名乗ってきましたが、実はコレ本名じゃないんです。ごめんなさい。
 これからは堂々と通名「渡邊惺仁」が活動いたします!本名は秘密です!




 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の心が軽くなって、一歩前に進めますように。




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#アイコンの鴨は心象風景です
#仇なす輩は芹沢鴨がやっつけます
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#何を聞かれてものらりくらり
#懺悔をザンゲと読むかサンゲと読むか
#前者は基督教で後者は仏教
#懺悔室って何や告解室じゃないんか
#まぁいっか

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