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蝶々忌

蝶がふわふわひらひらと飛んでくると、あの蝶には誰が乗っているのだろうか、と考えてしまう。

同じように、風の入らないような場所でろうそくの火が強く揺らめいたときも「ああ、いま誰か来ているのだな」と思うけれど、これは火の話になるので別のときにする。

死者の魂は、蝶や鳥のように空を飛ぶかろやかなものに乗ってくるのだと、幼いころ母が教えてくれた。

大学生になり、4年間かけて学んだ文学の世界においても、どうやらそれは同じらしい。

実際に私が卒論で扱った小説では、鳥というモチーフが主人公にとって特別な、しかし今はもう亡きひとりの女性を想起させる役割を担っていた。

私は誰かを失った経験に乏しい。

だから、愛すべき死者について語ることはまだ難しい。もちろんいつかは私も、愛するひとに先立たれるという経験をするにちがいない。

しかしその日まで、私は私の愛する生者について語ることの方が圧倒的に多いだろう。

ただ、今日はここで蝶のことを語ってみようと思う。魂を乗せて飛ぶという蝶から連想したあれこれ。

***

ちょうちょ、という言葉はずっと好きだった。

言語の本質は音だという。私は幼いころから、ちょうちょという音と、その音が指しているものの組み合わせがとても気に入っていた。

母は私が小学校低学年のころにはすでに、「ちょうちょは、昔はてふてふって書いたんだよ」と古典の知識を与えてくれており、私は「てふてふ、てふてふ」と、おまじないのように繰り返しその言葉を口にしたものだ。

やわらかで弱そうな、その響きが気に入った。そしてこの「てふてふ」の知識は、私が学校で古典文学を習い始めたとき、古文に親しみを持つのに一役買ってくれた。

てふてふが好きだった私は、古典のことも好きになった。

***

今年のさわやかな5月の終わり、恋人と会った帰りに車を運転していると、飛んでいた蝶がフロントガラスにぶつかった。

あっと声を上げながらも車を走らせ、ふと蝶々がぶつかった部分のガラスに目を留めると、そこにだけ細やかな粉のようなものがついていた。

その粉はラメのように、太陽光を浴びるたびきらきらと虹色に光り輝いた。何かと思ってすこし考えてふと思い当たった。蝶の羽についていた鱗粉だ。

蝶はいないのに、蝶の残していった鱗粉がガラスに散りばめられているその様子は、なんだか切なく、しかし美しかった。

幼いころ、庭で遊んでいたときにつつじの花に留まっていたアゲハ蝶を手で捕まえたことがある。蝶が黒くて大きな羽を閉じたその瞬間に、親指と人さし指でひょいとつまんだのだ。

そのとき、私は自分の小さな指に囚われている蝶を見て、蝶は自由に空を舞っているからこそ魅力的なものなのだ、ということを知った。

そして捕まえた蝶をすぐに解放した。せっかく捕まえたのに、惜しい、とも思わなかった。それから私は一度も蝶を捕まえたことはない。

そしてそのときの私の指にも、私の指には鱗粉がついていたのだった。

家に駆け戻って母に指を見せると、母は「それは、りんぷんだね。ちょうちょはその粉みたいなのがないと飛べなくなるんよ。水を弾けなくなるんだよ」と私に言った。

幼心に後悔し、どこかへ飛んで行ったアゲハ蝶の行方を想像しながら、私は自分の指についている蝶の羽の粉を水道の水できれいに洗い流した。

***

ふと思う。あのとき車にふわりと轢かれた蝶も、幼い日に私に囚われたアゲハ蝶も、ひょっとすると誰かの魂を乗せていたのではないか。私の知っている誰かのたましい。出会ったことのない誰かのたましい。だとしたら私は無邪気に、悪気なく、残酷なことをしたものだ。

いつかもし私が蝶に生まれることがあったならば、私は私を捕まえる幼い少女の指先を、私をはねる車両の透明なガラスを、どう思うのだろうか。

そんなことを考えずにはいられない。


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