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ねてもさめても

夏が深まって、と書こうとしたけれど、果たして夏は深まるものなのだろうか。秋は深まるという表現を使うけれども、他の季節は「深まる」とは言わない気がする。

でも仮にそう言ってもいいなら、今現在夏は確実に深まっているし、それどころか盛りから少しずつ衰退していっているような気がする。

お盆が近いからだろうか。

私は昔から、胸のどこかで、お盆こそが夏の終わりの始まりを告げるものだと思っている。だってもうとんぼだって飛んでいる。今日、テレビを見ていたらもう立秋は過ぎたということを知ってびっくりしてしまった。季節は少しずつ移ろっていく。

それにしても空模様というのは季節それぞれに特徴があっていいなと思う。夏ならば昼間の水色の空に浮かんだ白い月、山向こうの入道雲と、そこできらめく雷、そのあとでやってくるスコールのような激しい雨、雨上がりの虹。匂い立つペトリコール。

夕暮れ、ひぐらしの鳴いている声を全身でシャワーみたいに浴びながら、ぬるい風の中を歩いて家まで帰るのも、盛りを過ぎ始めた夏のすこしさびしくも好きなところのひとつだ。

さて、みなさまいかがお過ごしでしょう。

私はあいかわらず空想ばかりしています。
とはいえときどき現実的なことと向き合わなくてはならないので、文章を書いたり本を読んだりして逃げては戦って羽根を休めているのだけれども。

たとえば今日などは恋人が東京へ戻ってしまったので、そのことが私の心にさざ波を立てている。

さざ波という言葉は嫌いではなく、むしろ好きなくらいだけど、それでも鏡みたいに凪いでいた湖に少しでも波が立ったら、それは何か不穏なことの起きる前兆としての比喩になってしまうでしょう。

私が言いたいのは、どちらかといえばそちらのさざ波なのだな。

***

このまえの大学のゼミのとき、『ノルウェイの森』で卒論を書く同期の発表資料の中に「ねじを巻く」という項目があった。

そこには小説内の次の文章が引用してあった。

ときどきひどく寂しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベッドから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく独り言を言うそうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってるのでしょう。

君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での生活はもっとひどいことになっていたと思う。朝ベッドの中で君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかなくちゃと僕は思うのです。君がそこできちんとやっているように僕もここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。

村上春樹『ノルウェイの森』


これは『ノルウェイの森』の主人公〈僕〉が、直子という女の子にあてて書いた手紙の文章の引用なのだけれども、ここを発表で読み上げられたとき、私は目にみるみるうちに涙がたまってきて、机に置いてある発表資料の紙の上に涙がぽたりと落ちないよう、なんとか我慢した。

『ノルウェイの森』は3カ月ほど前に読んだばかりなのに、こんな文章があったということ自体を私は忘れていた。たぶんそのときはこの部分がすんなり入って来なかったのだ。

だから自分のものにならなかったのかもしれない。

この「ねじを巻く」という部分を資料中のタイトルのひとつにしてしまう同期のセンスもさることながら、あたりまえのようなことをあたりまえに書いている村上春樹も、その小説もいいなと思った。

***

私と恋人は『ノルウェイの森』の主人公〈僕〉と直子のように、基本的には離ればなれで生活している。

しかし離ればなれになっているだけでどちらかが病気というわけでもない。連絡手段はしっかりと確立されているし、数ヶ月に1度は必ず会える。

とはいうものの、1年のうちのほとんどの時間を互いの隣では過ごせない私たちにとって、この〈ねじを巻く〉ということは、本当に、本当に大切なことなのだ。

遠距離恋愛1年目、私はうまくねじを巻けなくてとても苦労した。恋人が近くにいない生活を私はすんなりと受け入れられなかった。

夏まではコロナのおかげで彼が地元にいたからよかったものの、秋がきて恋人が東京へ行ってしまったあとは、魂の寄りかかるところがなくなってしまったみたいな感覚だった。

いつも頭と心がだるくて、何をしていてもとにかく眠くてたまらず、身体はいつも寒くて布団の中にくるまって眠っていた。起きているときは毎日ひとりでずっと泣いているようなかんじだった。今思い出しても憂鬱になる。

当時は新しい友だちもそんなにいなかったし、泣いた次の日は目が腫れているから大学へ行きたくなくて(誰も見ていないのに)、授業前に先生に体調不良だと連絡をしてはずっと眠り続けた。眠っているのは、起きているのに比べたらずっとましだった。だから眠っていたのだ。

しかしずっとそんな生活をしているわけにはいかなかった。恋人がいなくても私は自分のねじを自分で巻かなくてはならない。そのことを理解し、私は次の春から少しずつそれを意識するようになり、次第にうまくできるようになった。

もちろん今でも恋人が東京に発つときはさびしい。

しかし、一体誰にさびしいと言えばいいのか分からないし、言ったところでその切なさが死んでしまうわけでもないから、私は基本的に知っている誰かにはそれほど深刻に「さびしい」とは言わない。

だから親友にも大学の友人にも家族にも、「まあさびしいけどまた何カ月かしたら会えるしね」とか「休みのたびに帰ってきてくれるから感謝しなきゃね」とか言ってはにかんでみせる。

そうすればみんなは私を「いい子だ」「健気だなあ」と思うだろうし、私は重たくなくさびしさを打ち明けることができる。私はみんなにすてきな女の子だと思ってもらえるし、少しの切なさを明らかにするのと同時に本心全てをさらけ出さなくていい。それって完璧でしょう。

そうやって恋人のことを想ってひとりで泣きながら、ひたむきにねじを巻いていたいのだ。彼が本当の意味で私のところへ帰ってきて、もうどこへも行かなくてよくなるまで。

***

書きたいことはいろいろあるし、書かなくてはならないこともいろいろあるのだが、今日はこれくらいにしておこうと思う。

恋人に『ノルウェイの森』の話をしてから「私あなたがいない間もちゃんとねじを巻くね」と言ったら、恋人も「俺もねじを巻きます」と返してくれて、そういうところが好きなのだよなと思った。

おやすみなさい、よい夢を。



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