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雲の海を泳ぐ

ここ最近の日記をちょびっと書きたくて、でも何を書こうかなあと考えたまま手が止まっている。

だから最近お気に入りのアンソロジー型noteにしようかなと思う。

しっかりくっきり書きたいことにはもちろん時間を割く。しかし日々に散らかっている小さな出来事を取り出してリボンでそっと束ねたら、それはきっと世界でたったひとつの花束になる。そういう記録の仕方も魅力的ではないか。私の手は花束でいっぱいになっていくだろう。


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マシュマロ

葉月の朝、起きたらマシュマロが届いていた。マシュマロというのは食べるマシュマロではなくて、匿名でメッセージを送れちゃうとても便利なやつです。

私は届いていたマシュマロのメッセージをとろとろ寝ぼけ眼で読み、おふとんの中で大喜びした。文章は次のようなものだった。

まず思ったのは、やはり感性を認めてもらうこと、文章について言及してもらうことは、私にとって特別なことだということ。それらは容姿や性格を誉めてもらうこととは別の次元に存在していると私は感じる。

そして一晩で全ての記事を…というところに「ええ〜!?」とびっくり仰天してしまった。

とりとめも一貫性もない、私の雑多な文章たちに目を通していただいたことに、恥ずかしい気持ちもうれしい気持ちもあり、しかし本当にありがたいなあと思う。

私はnoteの文章を記録として書いている節がある。誰かに言葉を届けるというよりも、身近な誰かのことを綴ったり、自分の出来事を記したり。

それは誰かのためというよりは他ならぬ私のためであって、だからこそ、出会ったことのない誰かが自分のために書いた言葉を読んでくださるというのは、ほとんど奇跡に近いのではないかと思う。

そしてこのマシュマロのどこに心動かされたかというと、最後の2行。

私もいつか恋人と暮らせたらいいな。今はまだ夢見ているだけだけど。さびしくて堪えられそうにない夜もあるけど、日々を重ねていったその先に、きっと何か素敵なものが待っているのだと思わせてくださってありがとう。

私はやっぱり誰かにもらった言葉を糧にして生きているのだと思います。今までも何度言葉が私を助けてくれたことか。だから、あなたが届けてくださった言葉も、間違いなく私のことを生かしてくれます。わたしこそ、あなたのような方にメッセージをいただけて幸運に思います。

どうかあなたとあなたの大切なひとが、いつまでもすこやかで幸福でありますように。


言葉の小箱

夏休み、教職の集中講義を受けている。

今回の集中講義は教職希望の生徒全体の講義ではなくて、教科に分かれて行う。国語を専門とするのは私を入れて全部で9人だけ。男の子が4人、女の子が5人。そのうち私を含め8人が同じ研究室で、8人のうち6人が同じゼミ。

ややこしいことを書いたけれども結局は全員知り合いなので、授業中の雰囲気は和やかだ。みんなやさしい。どの組み合わせでグループワークをすることになっても明るい笑い声、あるいは真剣な話し声が聞こえてくる。

その講義を担当してくれている先生が、授業の最初に私たちにある問いを投げかけた。すなわち「なんのために国語を勉強するのかと生徒に聞かれたら、なんと答える?」という問いだ。

私たちはそれぞれ答えを考えて、先生に当てられたら回答した。

私は当てられなかったけれど、国語を学ぶのは、感性を豊かにしていくためだと思っている。いろいろな文章や言葉に触れて自分の内側にあるものを豊かにすること、もともと持っているものをさらにぴかぴかに磨いていくこと。読む、聴く、書く、話すという能力の底上げはもちろんだけど、私は能力より感受性の方に重きを置く人間なのだと思う。

先生は自分が生徒に「どうして国語を勉強しないといけないのですか」と質問されたとき、どう答えたのかを私たちに教えてくれた。

言葉の小箱を豊かにするため、と先生は答えたという。

人間はみんな言葉の小箱を持っていて、そこには言葉が詰め込まれている。その小箱の中にたくさん言葉が入っているひともいるし、少ししか入っていないひともいる。たくさんの言葉が入っていれば、より豊かな表現ができる。愛するという言葉をどんなときに使うのか、慈しむとはどう違うのか。

小箱の中身がたくさんであるほど、その時々にぴったりの言葉を小箱の中から探し当てて使うことができる。小箱の中身が少ないとそういうことができない、だから小箱を豊かにしていくそのために国語を勉強するんじゃないのかな、と先生は答えたらしい。

私はこの「言葉の小箱」という言い回しが大変気に入って、授業が終わってからもそれについて考えていた。引き出しじゃなくて小箱というのがいいと思った。宝箱のような感じがするから。

私も国語を勉強して言葉の小箱を豊かにしていく最中にあり、おそらくそれは死ぬまでかかっても終わりはしない。言葉の小箱は、いつまでもどこまでも豊かにすることができるだろう。そして言葉というのは読むだけでは自分のものにならない。使って初めて自分のものになるのだ。

今の私だって、こうして文章を書いていても、しっくりくる言葉の組み合わせを見つけられたと思うことの方がずっと少ない。いろんな言葉を知って、使って、もっと小箱の中をいっぱいに満たしたいと思う。

そしてそう考えていてひとつ思い出した言葉がある。

私が高校生だったころ、文芸部の顧問だった先生がことあるごとに私たちに言ってくれた「言葉を追求せよ」というものだ。

言葉を追求するというのがどれほど大変なことか、私は何も分かっていないのだろうなということは自分で分かる。無知の知みたいなやつ。しかし自分なりのこだわりを持って言葉を選んでいきたいと思うし、せっかくならば言葉を探求していきたい。特に他者の耳や目に触れる言葉は。

そういうわけで「言葉の小箱」という表現や、「言葉を追求せよ」という文句は、私とかかわってくれた国語の先生方の受け売りとして、私の小箱の中にこっそりしまっておこうかしら。


スキップとローファー

最近読んでいる漫画に「スキップとローファー」というのがある。前々からタイトルがかわいいなあと気になっていたら、何かのSNSで広告が出てきて心惹かれたので、アプリを入れて読んでみることにした。

するとすぐにこの漫画を好きになってしまった。

絵が好みなのはもちろんなのだけれども、登場人物たちがみんないい子でどんどん先を読みたくなってしまうのだ。

主人公は高校生の女の子、美津未ちゃん。ちょっと天然だけどまっすぐで、やさしくて頑張り屋さんで、こんな女の子が周りにいたらすごくほっとするだろうと思う。

漫画そのものの雰囲気もなんとも言えずほのぼのとしている。しかし私も経験したことがあるような気持ちとか出来事とかが丁寧に描かれていて、だからこそ毎日続きを読むのが楽しみ。

高校生ってなんだか懐かしい。ついこの前のようだけど、もう私は二度と制服を着ることはできないし、やはりあの3年間というのは魔法のような期間なんだろうな。

私が高校生活で得た大きなものは、恋人と、大学での学びの切符だと思っている。もちろん他にも得たものはあるけど、それらが私の中で最も重要な位置を占めている。

青春ってあっという間に終わっていくけど、何があっても最後に楽しかったと思えたら勝ちだ。

私は今、最後の青春の真っただ中にあり、ようやくそれを思い切り謳歌することを許された。人間関係の中には問題がつきものだ。しかし、そういうものに流されたり抗ったりして、今後の人生をかけて仲よくしていきたいと思える仲間と過ごしたり、先生に怒られたり褒められたりしたい。

いつか泣く日がきても、そのときに全力で泣ける私であるために、へんな保険はかけず無邪気に今を楽しみたい。痛みに備えるな、と自分に言いたい。

どんなときもまっすぐ、ひたむきに。

美津未ちゃんみたく、たまに失敗しながら進んでいっても全然かまわないのだろうと思う。のんびり駆けて行こうね。

そして世界はすばらしい漫画にあふれているので、なにかよい作品があればぜひとも教えていただきたいです。小説も映画も音楽も、世界に存在するすべての創作物に触れることができないからこそ、めぐりあう作品を自分の一部にしていくことができるのだろうと思う。

続きもしっかり読んでこうっと。


ドッヂボール

夏休み明けに大学祭があり、その行事のひとつにスポーツ大会というのがある。

コロナ禍のために大学祭そのものが取り止められたり、オンラインだったりした私たちの学生生活だったけれど、最終学年になってようやく華々しいイベントが開催されそうなのだ。

そしてこのスポーツ大会というのに参加することになった。

種目はドッヂボール、ソフトボール、バスケットボール、フットサルの4種類あり、好きなものを選んで出場することができる。もちろんメンバーも自由だ。

ずいぶん前のある日、研究室にいた女の子たちと「私たち運動不足だよねえ」という話をしていたら、いつの間にかスポーツ大会の話になり、せっかくだから何か出てみようか!という流れになって、ドッヂボールなら私たちでもできるんじゃない?と、テンポよく参加する運びになった。

まずエントリー用のフォームを見たのだけれども、メンバーを何人集めればよいのかをはじめとした規定が何ひとつ分からなかったので(そんなことある?)、ひとまずそこにいた私、うっかり屋さんの彼女おひさまのような彼女の3人は出ることにして、研究室の何人かを誘ってみようという話になった。

ちなみにうっかり屋さんの彼女は、私が大学で初めて仲良くなった特別な女の子。

おひさまのような彼女は、以前のアンソロジー型noteで金平糖のエピソードとともに登場した、笑顔のまぶしい女の子だ。


彼女たちとのこともキチッと書いておきたいので近いうちにきっと書こう。おそらく次は眼鏡の彼について書いた文章を投稿すると思うのでその次かなあ。

そしてドッヂボールの話に戻る。

とりあえず研究室に比較的よく来ているカッターシャツの彼眼鏡の彼ワニの筆箱の彼をみんなでスカウトすると、全員が肯定的な返事をくれたので(男子たちは「ソフトボールをやりたい」と言っていたけど「じゃああなたたちが人数を集めてきてね」と言ったら黙った)、この6人で参加することにした。

そして8月末、本格的にエントリーするために私が応募フォームに情報を打ち込んでいると、どうやらチームに名前をつけていいということが判明した。

名前をつけていいならば、つけないでいる理由はない。そもそも文学を学ぶ私たちは言葉に重きを置く学生の集まりなのだ。むしろ名前をつけないでどうする。

しかしここでひとつ問題があった。

先日、学生研究室にやってきた青りんご色のレトロな冷蔵庫には何の躊躇もなく「はらぺこあおむし」と命名した私だけれども、さすがに6人しかいない選抜チームの名前を適当に決めてしまうと、

なんなん、その名前!」(カッターシャツの彼 ~失笑とともに~ )
あんた命名のセンスないよ。絶対〇〇の方がいいよ、それやめて〇〇にしよ」(ワニの筆箱の彼 ~冷ややかな視線を添えて~ )

などといわれ、恐ろしいことになってしまう可能性があるのだ。

ここ最近彼らが意見をスパッと言ってくれるようになったのは、彼らとある程度仲良くなってしまったが故なので仕方がない。

そしてここ最近名前をつけることに冴えていた私だったけれど、ひとりですこし考えてみても、いい名前を思いつかなかったのも事実だった。

そういうわけで、名付けをゼミの先生にお願いすることにした。

それならば先生の独断と偏見でどんな名前に決定されていてもみんな何も言うまいと思ったし、当初私たちは先生にもドッヂボールに参加していただこうと考えていたので(結局1チーム6人までの参加だったのでだめだったけれども)、先生にお願いするのが妥当だと考えたからだ。

事情を説明すると、先生はものの数秒で「ブンブンバンバン」というチーム名をつけてくださった。

ドッヂボールなので躍動感がある名前がいいですね、とおっしゃっていた。きっとこの名前には躍動感があるのだと思う。

「それはカタカナ表記ですか?」と表記をすぐに尋ねた私、しっかり言葉を愛していていいなと思ったし、先生からも即座に「漢字で四字熟語にしてもちょっと違うし、かといってローマ字も恰好悪いのでカタカナですね」と返ってきたので、さすがだと思う。

ブンブンバンバンというのは擬音っぽくて覚えやすくてよい名前だ。愛称は「ブンバン」になった。

ドッヂボール大会自体は9月末にある。怪我をしないように身体を動かして、楽しむことを1番にいきたい。とは言いつつも勝てるものならば勝ち進んでやりたいと思うのは、私が負けず嫌いだからだろうか。

先生はすぐ負けることを前提に「参加することが大事ですね」とおっしゃったけれども、みんなでちょっとだけがんばりたいな。

エントリー確認の際のメンバーとのやりとり


(全員倒そうぜ、かわいくって笑っちゃった。
誰が言ったのかはぜひ想像してみてください)

たっぷりの朝食

これは実は桜の季節に書こうとして、というか書きかけて結局投稿しなかったのだけれども、私たちは今年の春に数年ぶりに父方の祖父母の家へ行った。簡単にいえば、数年ぶりに祖父母に会ったということだ。

なぜ数年間も会えなかったかというと、コロナ禍だったことがいちばん大きい。祖父は今までに病気をたくさんしており免疫がすごく弱いので、祖父母はコロナにならないよう気を張って過ごしていた。

不用意に祖父母の家へ行き、もしふたりをコロナに感染させてしまうと大変なので、しばらくは電子機器による声や文字のやりとりでしか祖父母と話せていなかった。

しかし今年はコロナによる規制が緩和され、さらに3歳年下の私の妹が京都へ進学することになったので、その支度も兼ねて春に大阪に寄せてもらうことになったのだ。

私は数年ぶりにあの手入れの行き届いた清潔な家を訪れ、なぜ自分がリボンとかフリルとかに惹かれるのかよく分かった。これは完全に祖母の血だ。

祖父母の家はどこを見てもさりげなくかわいい。ゴテゴテにかわいいのではなくて、レースカーテンや花の飾りのようなものが家のいたるところにちょこっとあるのだ。

こんなのどこに売ってるの?

私は家を歩きまわっては「かわいい!」と大騒ぎしていたので、祖母はそれを聞くたびに「何見てもかわいい言うてくれんねんなあ~」とにこにこ上品に笑っていた。そして私にラブリーなティッシュカバーと布をくれた。

しかし書きたいのはそこではない。

祖父母というのは、私たちにたくさんごはんを食べさせたがる。これはどこの家の祖父母も同じなのだろうか。お昼ごはんや夜ごはんならばともかく、驚くべきは朝食だ。

祖父母の家ではどこの貴族の食事だろうかと思うほどにたくさんの食べものが、朝から食卓に並ぶのだ。

主食はトーストか白米か選べるし(断らないとどっちも食べさせられそうになる)、卵料理やハムやソーセージ、野菜サラダ、チーズがお皿に乗り、きれいなガラスの器にはきな粉のかかったヨーグルト、そしてフルーツの盛り合わせ、食後のコーヒーは陶器のミルクピッチャーつきで登場する。


栄養満点の朝ごはん!


このたっぷりの朝食に私は祖母の愛を感じる。お腹が減ってはいけないからいっぱい食べさせてあげよう、という気持ち。

私の母もそうだけれども、お腹いっぱいごはんを食べさせてあげようというあの愛情は母親特有のものなのだろうか。

私の実家は家族ではないひとびとが宿泊したり、誰かと一緒にごはんを食べることが比較的多いと思うのだが、やはり母も食卓にずらりとたべものを並べて客人をもてなす。

気を抜くとお腹がはちきれそうになってしまうほど食べて満足感でいっぱいになったとき、私は祖父母の家にきたんだなあ、ということをようやく実感する。しあわせというのはきっとみんなでごはんを食べることみたいにありふれているものなのだろう。

家族がだいすきであること、お腹いっぱい食べられること。そういう環境にあることを心からありがたいなあと思う。

私も「もう食べられないよ」と言われるほどたっぷりの食事で子や孫をもてなす母や祖母にいつかなりたいなあ。

その祖父母が夏やすみの今、私たちの家へ遊びに来ている。みんなで毎食ごはんを食べながら、私は「食べることとは生きることである」というどこかで見たことばを思い出さずにはいられない。

グッドガールのほしいものリスト

ファッション雑誌をときどき勝って読むのだけれども、ひいきにしている雑誌の中にときどき「グッドガールのほしいものリスト」というコーナーが設けられていて、いつもそこを夢中になって読んでしまう。

私がグッドガールかはさておき、そのコーナーではかわいいものがいっぱい紹介されているから眺めているだけで楽しいのだ。

そして私はいま何が欲しいかなあと考える。

たとえば私は夏服が大変好きだけれども、ここ数年で秋服の持つ愛らしさ、落ち着きに気づきつつあるので、今年は秋物の服をあれこれ手に入れたいなあと思う。どうしても服ばかり買ってしまうので靴も欲しいなあ。格好いい編み上げブーツとか、つやつやした黒いストラップシューズとか。

やさしいコスモス色のカーディガンとか、着てみたい。

冬になったら赤いタータンチェックのスカートをまとったり、もふもふの白いマフラーを首に巻いたりして外に出かけていきたい。

私が冬の洋服に求めるのは何よりもまず「あたたかい」ということだけど、おしゃれなのも大切よねえと思う。ほしいものリスト作ろうかなあ。

そうだ。ほしいものの話ではないのだけれども、今度髪を切りに行こうと思って美容院の予約を取った。

前に散髪したのは教育実習前のある5月だったので、実に3か月ぶりだ。

どこかにも書いたような気がするけれど、私は癖毛なので、3カ月も髪を放っておくと前髪や耳の近くの髪がくるくるになってしまう。ストレートパーマの効き目があるのがちょうどそれくらいなのだ。

私は自分の身体をわりと好きな少女だったので、思春期も癖毛を自慢に思っていた。外国の女優さんみたいで素敵でしょ、くらいに感じていた。さすがに毎朝髪をまとめるのが大変なので、高校生になるとストレートパーマをあててもらうようになったけど、それまでのところでは男の子にくるくるの髪をよくからかわれたものだ。

しかし、恋人は私のくるっとしはじめた髪を見ても「あっ、くるくるになってる!かわいい~」といつもにこにこするので、私は「私の癖毛をかわいいって言ってくれる男の子はあなただけだよ…」といつもにまにましてしまう。なんてすばらしい恋人だろう。

そして今回は散髪だけじゃなくて、髪を染めてみようと思っている。

私は22年間、ずっと黒髪で過ごしてきた。高校卒業直後、みんなが一斉に髪を染めたので、私は逆に染めようと思えなかったのだ。みんながしていることを避けて通る謎のプライドのようなものがある私は、同級生たちがつやつやした美しい黒髪を染め抜いて垢抜けていくのを横目で見ていた。

どうせ年を取ったらいやでも髪を染めなくてはならなくなるのだ。若いうちに真っ黒な髪を満喫したって悪いことはないだろう、という具合に。

しかし大学4回生の夏の終わり、そろそろ染めてみるのも悪くないかなと思えるようになったので、心の声に従って染めてみようと思う。ずっと黒髪だった子が茶髪とかになったら私はそのギャップにやられてしまうと思うので、それを狙ってみるつもりだ。虜にできるならすればいいのよ。

そして自分で言うのもどうかと思うけれども、私はショートヘアが本当によく似合う。なので今回もちょっと短めに切ってもらおうかなあ…と思っている。私は髪を風になびかせていたいのだ、風の谷のナウシカみたいに。

***

さて、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

私の日々はそれなりにせわしく、充実しています。風の温度や雲の模様から、秋が静かに私たちの近くに忍び寄っているような気配を感じてはいるけれど、そのうち行ってしまう夏の残り香をまだ捕まえて離すことができない。

次の夏には、私たちにはまた新しい世界が待っていて、そう思うとまだ夏の底にとどまっていたいと思ってしまう。大学生が楽しいと思える日が来て本当によかった。

まだまだ残暑が厳しい日が続きますが、どうかご自愛ください。夏の疲れが出てダウンしてしまうような日は、思い切って自分を甘やかしてあげてくださいね。そんなことを言うのは無責任かもしれないけど、誰かが無責任なことを言わなくては、私たちはきっと頑張りすぎてつらくなってしまうと思うのです。

それでは、またお会いしましょう。

親友の女の子が送ってくれた写真、雲の海。
とってもファンタジー


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